漢字が覚えられる暗号小説です。灰色の数字をクリックし、数列解読しながら、お読みください。

同一事件(後半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「同一事件」の後半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。23の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎回灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしあとただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)「いいかね。」とシャーロック・ホームズは、ベイカー街の下宿でふたり暖炉を囲み、向き合っているときに言い出した。「現実とは、人の頭の生み出す何物よりも、限りなく奇妙なものなのだ。我々は、ありようが実に普通極まりないものを、真面目に取り合おうとはしない。しかしその者たちが手を繋いで窓から飛び立ち、この大都会を旋回して、そっと屋根を外し、なかを覗いてみれば、起こっているのは奇怪なること――そう、妙に同時多発する事象、謀りごとにせめぎ合い、数々の出来事が不思議にもつながり合って、時を越えてうごめき、途轍もない決着を見せるとなれば、いかなる作り話も月並みなもので、見え透いた結びがあるだけの在り来たりの無益なものとなろう。」「そうはいっても納得しかねるね。」と私は答える。「新聞紙上で明るみに出る事実なんて、大抵が実にそっけなく実に卑しい。モノを見てもだ、警察の調書などでは写実主義が限界まで貫かれているにもかかわらず、出来上がるものにはまったくのところ、魅力もなければ芸もない。」「それなりの取捨選択を用いねば真実味は生み出し得ない。」とはホームズの御説だ。「これが警察の調書には欠けている。ことによると細部よりも治安判事の戯れ言に重点を置く。細部にこそ、観察に値する事件全体の核心が含まれている。信じていい、普通なるものほど不自然なことはない。」私は笑みを漏らし首を振って、「君がそう考えるのもわからないではないよ。そら君の立場としては、三大陸じゅうにいる考えあぐねた人々、その皆の私的相談屋・お助け屋であるわけだから、奇妙奇天烈なあらゆることに関わり合う羽目にもなる。


(2)しかしまあ、」――と床から朝刊を取り上げて――「ここらで実地に試してみよう。とりあえず目に付いた見出しはこうだ。『妻に対する夫の虐待』、段の半分にわたる記事だが読まんでもわかる。まったくよくある話に決まってる。ほら、他に女が居て、酒に喧嘩、薬に生傷、世話焼きな妹か女家主。いくらヘボ文士でも、これほどヘボなものは書けんよ。」「ふむ、この例は君の説に不適切だ。」とホームズは新聞を取り上げ、目を落としながら言う。「これはダンダス夫妻の別居訴訟と言って、あいにく僕もこの件の謎解きに少しばかり噛んでいる。この夫はまったく酒を飲まず、他に女もいない。訴えられた行状というのが、食事の終わるたび入れ歯を外して妻に投げつける、そんなふうにずるずるとなっていったというものだ。わかるだろう、これは凡百の語り部の想像に浮かびそうな行為ではない。嗅煙草でもやりたまえ、博士、そして自分の引いた例でやりこめられたと認めることだ。」と差し出された古金色の嗅煙草入れ、蓋の中央には大粒の紫水晶、その見事さが友人の質素な暮らしぶりとあまりに対照的であったため、口を挟まずにはいられなかった。ホームズは、「ああ、忘れていた、君は数週間ぶりだったか。これはボヘミア王からのささやかな記念品だ。あのアイリーン・アドラーの書類の件に力添えした礼に。」「ならその指環は?」と私が、その指に巧みなブリリアントカットの宝石があるのに目を付けて訊ねると、「これはオランダの現王家からだ。手がけた一件については微妙なものだから君にも打ち明けられない。僕の些細な案件をひとつふたつ記録してくれるくらいは構わないのだが。」


(3)「なら今は何か手がけてないのか?」と私が前のめりに聞くと、「一〇ほど、いや一二か。だが少しも惹かれそうなところがない。面白くはなくとも無論大切ではある。ところが実際のところ、経験上、大抵取るに足らないところにあるのだよ、観察力と鋭い因果分析力の発揮できる場というものは。大犯罪ほど単純化する傾向があるが、それは犯罪の規模が大きくなれば、原則として動機が見えやすくなるからだ。手元の案件のうちでは、ひとつだけやや込み入った事件の問い合わせが、マルセイユからあるのだが、それ以外は惹かれるものが何もない。だがほんの数分もすれば、もっと良いモノが手に入る見込みがある。あそこだ、あれはうちの依頼人になる。でなければ僕は大馬鹿者だ。」ホームズは椅子から身を起こし、窓掛けの合わせ目のあいだに立つ。見下ろす先には、くすんだ中間色のロンドン市街、私もホームズの肩越しに覗いてみると、向かいの舗道に大柄の女が、ふっくらした毛皮の襟巻きを首に廻して、鍔広つばひろの帽子に大きな曲線を描いた赤い羽根をつけ、それを艶なデヴォンシア公爵夫人流に、片耳隠しで斜(はす)にかぶって立っている。かかる晴れがましい装いの奥から、女の視線が気遣わしげに、ためらいがちにこちらの窓へ向けられている。と同時に女の身体はそわそわと前後に動き、その指は手袋の釦をいじくり回している。と途端に飛び出すのは、岸を泳いで離れるかのようで、急ぎ足で道を渡り、やがて呼び鈴のけたたましい音が聞こえる。「今のような素振りは以前にもあった。」とホームズは紙巻き煙草を暖炉にくべる。「舗道でそわそわするのは、色恋沙汰と決まっている。


(4)助言を欲しているのだが、事が微妙のあまり人に言ったものかと心を決めかねている。とはいえここにいても見て取れることはある。たとえば女が男から心底ひどい目に遭わされたのならためらいなどしようもなく、その場合は大抵、呼び鈴の紐を引きちぎって見せる。ここで取れる解釈とは、色恋沙汰ではあるが、その乙女は怒るというより戸惑っているないし悲嘆に暮れている。だがここに本人も来たから、この悩みもすぐに解けよう。」という間に部屋の扉が叩かれ、給仕服の少年が入ってきてメアリ・サザランド嬢と告げるや、女性本人の姿が黒づくめの少年の後ろからぬっと現れる。あたかも水先案内の小舟についてくる満帆の商船のごとくだ。シャーロック・ホームズは彼らしく快く迎え、そして扉を閉め、丁重に肘掛け椅子を勧めながらも、さっと女をながめ回す。「その近眼でタイプ打ちを相当になさると、少々おつらいでしょうに。」「はい、初めのほどは。」と女は答える。「しかし今では見ないでも文字の位置はわかりますので。」とそのときふと、相手の言葉の意味するところがわかったのか、女は驚いて顔を上げる。その大きく愛嬌のある顔は、面食らいつつもいぶかしげであった。「ホームズ先生、わたくしのことをすでにご存じで?」と声を張り上げ、「でなければいったいどうやって……」「お気になさらず。」とホームズは笑いながら、「物事を知っているのが僕の仕事、他人の見落とすところがわかるよう心掛けている、といったところで。でなければ、どうしてあなたがこちらへご相談へお越しに。」「は、はい、こちらへ参りましたのは、先生のことをエサリッジの奥さまよりうかがいまして。


(5)あの方のご主人をやすやすとお見つけとか。警察も亡くなられたものとしていらしたのに。ええ、ホームズ先生、なにとぞわたくしにもお力添えを。裕福ではありませんが実入りも年に百ドルありますし、それにタイプ打ちも少しの足しには。これをみな先生に差し上げます、ホズマ・エインジェルの行方がわかるのなら。」「お越しの際、どうしてあれほどお急ぎに?」と訊ねながら、ホームズは指先を突き合わせ、目を天井に。またもや驚きの表情が、メアリ・サザランド嬢のいくぶん変化の乏しい顔に現れる。「そうですの、わたくし、うちを飛び出してきました。ほんとに腹が立って、あんなにのんきにして、ウィンディバンクさん――あっ、わたくしの父で――まったくもう、警察には行きたくない、こちらへもうかがいたくない、それで結局何もしないのに、何も事件なんて起こってないのだから、ってばかり言って。それでわたくし、気が気でなくなって。取るものもとりあえず、まっすぐこちらへ。」「お父上、」とホームズ。「義理の、ですね。名前が違います。」「ええ、義父ですの。父と言うのもおかしいくらいで、わたくしと五年と二ヶ月年上なだけなんですの。」「お母上はご壮健で?」「ええ、もう元気で丈夫で。でも心から喜んで、とも言えない事情がありまして、ホームズ先生、その母が父の死後すぐ再婚しまして。それも本人より一五も年若い男とだなんて。父はトテナム・コート通りの配管業で、そのあと結構な店が残ったのですが、母は現場頭のハーディさんと続けておりました。ところがウィンディバンクさんがやってくると、その店を母に売らせてしまって。自分はものすごい、


(6)ワインの外商をしているとかで。店は暖簾と上がりで四七〇〇ポンドになりましたが、父が生きていたらこんなはした額で売るなんてけっして。」 私の予想では、シャーロック・ホームズはこの締まりのないこんがらがった話にいらだっているはずだったのだが、反対にできるだけ気を集中させて聞いているのだった。「ご自身のささやかな収入とは、その店が元で?」「いいえ先生、まったく別物で、オークランドにいる伯父のネッドが遺産でわたくしにと。ニュージーランドの株で、配当が四分五厘、額面は二五〇〇ポンドなのですが、わたくしは利回りにしか手を付けられません。」「極めて興味深いお方だ。」とホームズ。「では、年百ほどの大金が入り、加えてご自身の稼ぎもあるなら、少しばかりご旅行や色々と余裕もおありのことでしょう。独り身の女性ならきっと六〇ポンドほどの収入でかなり結構やっていけますから。」「わたくしなら、もっと少なくっても。先生、ですがうちにいるとはいえ脛すねをかじりたくございませんから、お金の扱いについては、一緒にいるあいだだけは預けております。もちろんほんの当分のことですわ。ウィンディバンクさんはその利回りからいつも四分の一引き出して、そのまま母に渡しておりまして、わたくし自身は、自分がタイプ打ちで稼いだ分でちゃんとうまくやってゆけますから。一枚二ペンスいただけて、日に一五から二〇枚はだいたい。」「現在のお立場はよくわかりました。」とホームズ。「こちらは友人のワトソン博士、彼の前では僕同様、気兼ねなくお話を。さて次のご質問ですが、できればそのホズマ・エインジェルさんとあなたとのご関係を。」


(7)紅いものがさっとサザランド嬢の顔によぎり、上着の裾を気遣わしげにつまんで、「出会いはガス工組合の舞踏会の折でした。」と話し出す。「組合は父が存命中よく招待状を送ってくださいまして、その後も忘れずに母とわたくしへと。けれどもウィンディバンクさんはわたくしどもが行くのを承知せず、それどころか外出すらよく思っていなかったのです。たとえば日曜学校学校の催しなどに行きたがろうものなら、もう気も狂わんばかりで、ですがわたくし、今度ばかりは行く、ぜひ行くって。別にあの人に留め立てする権利はございません。知り合う値打ちのない奴らばかりだと言いますが、父のご友人の方々もいるはずなんですから。お前には着る服もないだろうと言われましたので、今まで箪笥にしまい込んでいた紫のフラシ天を出してやりましたわ。とうとう何も言うことがなくなって、あの人も所用でフランスへ出払ったものですから、母とわたくしと、現場頭でしたハーディさんとで参りました。そこでホズマ・エインジェルさんに会いましたの。」 するとホームズは、「では、そのウィンディバンクさんがフランスから帰ってくると、あなたが舞踏会へ出たので大いにご不満だったでしょう。」「いいえ、それがずいぶん嬉しそうで。確か笑って肩をそびやかして。女ってやつはダメだと言ってもしようのない、思うようにやってしまうのだから、って言いましたの。」「なるほど。そのときガス組合の舞踏会でお会いになった紳士の名は、ホズマ・エインジェルで間違いありませんね。」「ええ、先生。その夜に出会って、次の日には、無事でお帰りですかと、うちを訪ねておいでで。そのあとも会いまして――


(8)つまりホームズ先生、二度散歩をご一緒しまして、そのあと父が戻ってきまして、ホズマ・エインジェルさんは以後うちには来られなくなりました。」「一度も?」「そうですの、ほら父はこんなこと大嫌いでございますから、できることなら客を入れたくないという主義で、口癖のように、女というものは自分の家庭の輪にいるのが幸せだと。とは言いましても、母にも申し上げましたが、女はそもそも自分の輪が欲しいものなのに、わたくしには自分のものがないんですもの。」「それはそうと、ホズマ・エインジェルさんの方は? あなたに会おうとしなかったので?」「それは、父が一週間ほどして、またフランスへ出向く予定でしたので、それでホズマは手紙で、あの人が行ってしまうまではお互いにあわない方が無難だと。そのあいだもわたくしどもは手紙は書けましたので、あの方も毎日書いてくださいました。手紙を受けとるのは朝でしたので、父は知る由もありません。」「その紳士とのご婚約はその頃に?」「ええそうですの、先生。ふたりでした初めての散歩のときに婚約を。ホズマ――エインジェルさん――は、レドンホール街の事務所で出納係をしていらして――それで――」「業種は?」「それが困ったことに、先生、存じ上げなくて。」「では自宅は?」「そこに住み込みで。」「ならご住所はご存じかと。」「いえそれが――レドンホール街とだけ。」「では手紙の宛名をどこに。」「レドンホール街郵便局へ、留置(とめおき)で。事務所に届くと、女性から手紙が来たと他の同僚みんなにからかわれるとおっしゃって。ならタイプ打ちしましょうかと申し上げたのですが、そんなの受け取りたくない、


(9)手書きならあなたから届いたと感じられるけど、タイプ打ちだとふたりのあいだに器械が挟まっているようにいつも思えてしまうと。これだけでもあの方がどんなにわたくしを愛していてくださるかおわかりでしょう、ホームズ先生。こんな細かいところにも気を配る人でしたの。」「実に思わせぶりで。」とホームズ。「長年、座右の銘としているのですが、細事の大事は限りなし。他にどんなささやかなことでも、ホズマ・エインジェルさんで覚えていることがありましたら。」「あの方は大変な恥ずかしがり屋なの、ホームズ先生。わたくしと散歩するのも日のあるうちより暮れてからがいいみたいで、人目に付くのが嫌だと言うんです。ほんとに内気で紳士らしい方、声だって細くて、若いときに扁桃炎で腺が腫れ上がったらしくて、そのせいで喉が弱くなったとか。だから話し方がためらいがちでささやくみたいで。身だしなみはいつもよくて、とてもきちんとして派手でなく、さっぱりとして、でもわたくしと同じで目がよくなくて、まぶしいからと色眼鏡を。」「ふむ、それで義父のウィンディバンクさんがフランスから帰ってからはどうなりました?」「いえその、エインジェルさんがうちにいらっしゃって、父がフランスから帰る前に式を挙げてしまおうとご提案に。恐ろしいほど熱心でわたくしの手に聖書を持たせて、何があっても自分を信じてくれと誓わされて。母もあの人に誓うのがいいに決まってると、それだけ想いがあるのだと言いますし。母は初めからまったくあの方びいきで、わたくしよりもあの方を愛していたくらいでした。しかも今週じゅうに式を挙げるとおっしゃるので、わたくしは父のことが気になり始めていたのですが、


(10)ふたりが父のことを気にしなくてもいい、あの人にはあとで言えばいい、母が父のことを何とかすると言うのです。そのようなこと、わたくしはとても嫌でしたの、ホームズ先生。わたくしより少し年上なだけですから許しを得るというのも妙なことなのですが、とにかくこそこそと何かを致したくはありません。そこでボルドーの父へ手紙を。そこに会社のフランス事務所があるのです。ですが、手紙は式当日の朝に手元へ戻って参りまして。」「ということは届かず。」「そうですの。あの人は着く直前にイングランドへ発ちまして。」「ほう! それはおあいにく。では式の予定は金曜日、場所は教会で?」「そうですの。でもごくつつましやかに。キングス・クロス近くの聖セントセイヴィアでして、そのあと聖セントパンクラス・ホテルで朝食を取る手はずでした。ホズマはハンソム馬車で来ましたが、わたくしどもはふたりですので、あの方はその馬車にふたりともを乗せて、自分は四輪の辻馬車に乗り込んで。通りには他にその馬車しかなかったのです。わたくしどもの方が先に教会へ着きまして、やがて四輪が着くと、わたくしどもはあの方が降りてくるのを待ったのですが、うんともすんとも。御者が台から下りてのぞきますと、誰もいないのです! 御者は客がどうなったか思いもつきませんし、なかに入るのは確かにこの目で見たと。それが先の金曜日のことですの、ホームズ先生。それ以来何の姿も便りも、行方の手懸かりになるようなものは……。」「どうやらひどい辱めをお受けになったようですね。」とホームズが言うと、「違いましてよ!あの方は立派でお優しい方、わたくしをそんな捨てたりなど。


(11)それに朝のあいだずっと、何があっても自分を信じてくれとおっしゃり続けておりました。たとえ何か予期せぬことで離ればなれになったとしても、わたくしはあの方を信じると誓ったことをけして忘れは致しませんし、あの方も遅かれ早かれお誓いになるはずでした。式の朝にしては妙な会話のようですが、そのあと起こったことでそういう意味でしたのとわかりまして。」「きっとその通りでしょう。ではあなたのご意見では、何か予期せぬ災難にその方が見舞われたと?」「そうですの。きっとあの方は何か危険を察知していたのですわ。でなければあんなことおっしゃいません。ですから予期したことが起こったのだと思いますの。」「ですが、その起こったと思われることについては、心当たりがないと。」「ございません。」「もうひとつ、その件をお母上はどうお捉えに?」「かんかんです。この件については金輪際口にするなと。」「お父上は? お話しには?」「もちろん。そしてわたくしと同じく、何かあったと考えたようで、いずれホズマから連絡があると。あの人が言うように、わたくしを教会の戸口へ連れてって置き去りにしても、誰が何の得をしましょう。まあ、あの方がわたくしからお金を借りているとか、結婚したらあの方がお金の分け前にあずかれるとかならいざ知らず、ホズマは自分の財産もかなり持っておりますし、わたくしのお金を気にしたことすらないのですから。それにしても何が起こったのでしょう。どうして便りひとつも。ああ、それを考えるだけでわたくし、おかしくなってしまいそうで、夜一睡もできませんの。」と女はマフのあいだから小さなハンカチを出して、そのなかへぼろぼろと涙をこぼし始めた。


(12)「あなたの事件、ひとつ手がけてみましょう。」とホームズは立ち上がり、「はっきりとした結論をお渡しできると信じています。さあ事件の重荷はみな僕に預けてしまって、このことで心を悩ませるのはこれ以上やめることです。何よりもまず、ホズマ・エインジェルの想い出は消してしまうこと、あなたの目の前から彼がそうしたように。」「では、もう二度とあの方に会えないとお考えに?」「おそらくは。」「ではあの方に何が起こったのでしょう?」「その疑問を僕の手に委ねるのです。彼の正確な人相書と自筆の手紙などあれば嬉しいのですが、できましたらいただけたら。」「前の土曜のクロニクルに尋ね人の広告を。こちらがそのゲラ刷り、そしてこちらが受け取った手紙四通です。」「どうも。ではあなたのご住所を。」「キャンバウェル、ライアン町プレイス三一番。」「エインジェルさんの住所はわからない、と。お父上の仕事場の方は。」「ウェストハウス&マーバンクの外商ですから、フェンチャーチ街でいちばん大きなクラレット輸入業者になります。」「どうも。お話たいへんよくわかりました。書類はこちらへ置いてください。それから僕の助言を忘れないように。この出来事はみんな謎のままにしておいて、あなたの人生から追い出してしまうことです。」「お優しいのですね、ホームズ先生。けれどわたくしできませんの。いつまでもホズマを信じております。いつ戻ってきてもいいように。」ばかげた帽子やのっぺらした顔に似合わず、ある種の気品がこの依頼人の一心に信じる気持にはあり、敬意を感じずにはいられなかった。女は卓上に手紙をまとめて置いて出て行く。呼ばれたらいつでもまた来ますと約束をして。


(13)シャーロック・ホームズは数分間何も言わずに座っていた。指先を合わせたまま、両足を前に投げ出し、瞳がまっすぐに天井へ向けられている。やがて網棚からなじみの脂やに付き陶製パイプを取り出し、おのれの相談役代わりとばかりに火を点け、イスにぐっともたれかかって、紫煙を巻き登らせながら、首を反らして物憂げな表情をする。「実に興味深い研究対象だ、あのおぼこ。」との所見。「あんなささいな問題よりあの女の方が面白い。まあそれにしてもひどく月並みなものだ。僕の索引に当たれば、同一の事件が見つかるよ。七七年のアンドーヴァ、それに同種のものが昨年ハーグで。しかしたとえ古くさくとも、僕にとって新しいことが細かくひとつふたつはあるものなのだが、しかしあのおぼこ当人からは得るところがある。」「君はあの女のことを相当読み取れたようだが、私にはさっぱり見えんね。」と私が漏らすと、「見えないのではなく、見落としているのだ。目の付けどころがわからない。だからこそ大事な点にことごとく気づいていない。わからせるのは無理なのだろうが、袖は重要であり、親指の爪は暗に語る。また靴ひもから導かれるのは大問題。さてあの女の見た目から君はどうまとめる? 説明したまえ。」「うむ、あの女が身につけていたのは、黒板色で鍔広の麦わら帽子、赤煉瓦色の羽根付き。上着は黒で、黒のビーズがいくつも縫いつけられていて、小粒の黒玉の飾りが裾のふさ縁に。衣服は茶褐色、コーヒーよりもやや濃く、首元と袖には少し紫色のフラシ天が。手袋は鼠色で右の親指がすり切れている。靴は見ていない。小振りの丸い金の耳飾りをぶら下げていて、全体としては相当裕福そうだが、実際はのんきでおっとりした町娘だ。」


(14)シャーロック・ホームズはそっと手を叩いてほくそ笑む。「これはこれは。ワトソン、驚くほど上達している。まったく実にうまくやったものだ。なるほど要点はことごとく見落としているが、方法は当たっている。色に目ざとい。全体の印象に囚われず、そう、細部に注目したまえ。僕が真っ先に見やるのは、常に女の袖だ。男ならまずは穿いているものの膝とするのがいいだろう。君も見た通り、この女の袖口にはフラシ織があった。これは跡がつきやすい、極めてありがたい生地だ。手首の少し上の二重線はタイピストが机に押し当てる場所にあたり、まさにくっきりと付いている。手動のミシンでも同じ跡が付くが、左腕だけ、しかも親指の反対側に付く。その代わりタイプでは右の広範囲にわたる。それからあの女の顔を見ると、鼻の両側に鼻眼鏡の跡がわかったから、あえて近眼とタイプ打ちのことに触れて、相手を驚かせたという次第だ。」「驚いたのは私もだよ。」「しかしあれはまだわかりやすい。そのあと僕は見下ろして相当驚き、興味を持ったのだが、女の履いていた靴、互いに似ていないでもないが、実は別々のもので、一方にはつま先の革にわずかな飾りがあって、もう一方にはなかった。それに一方は五つのうち下の二つの釦しか留められておらず、もう一方は一つ目、三つ目、五つ目。ここでわかるのは、ある若い女性が身なりはきっちりしているのに、別々の靴をしかも釦を半分しか留めずに自宅からやってきたということだから、急いでお越しにと言っても大した演繹でもない。」「そのほかは?」と訊ねる私は、友人の鋭敏な推理にいつものように興味をかき立てられていた。


(15)「ではついでに気づいたことだが、あの娘は、着がえを完全に済ませてから家を出るまでのあいだに、何かを書き留めている。君も女の右手袋の指先がすり切れているのを認めているが、どうやら手袋にも指にもすみれ色のインクがついていたのはわからなかったようだ。書き急いだためにペン先を深く浸しすぎたのだ。今朝のことに違いない、でなければ指に跡がくっきり残らない。このことだけでも面白いが、かなりの初歩といったところか。ところで仕事に戻らねば、ワトソン。済まないが読み上げてくれないか、ホズマ・エインジェル氏の尋ね人広告とやらを。」 私は小さなゲラ刷りを灯りにかざしてみた。「十四日朝失踪、ホズマ・エインジェルなる紳士。身長五フィート七インチ、体格よし、顔色悪し、黒髪、頭頂に小禿あり、たわわな黒い頬髯口髭、色眼鏡、話し方はやや訥々、失踪時の服装は黒のフロックコート、黒のベスト、金のアルバート鎖、下はハリスツイードの鼠色、ゴム布の長靴に茶褐色のゲートルを重ねる。過去レドンホール街の事務所に勤務。情報提供者には――」「結構。」とホームズ。「手紙の方は……」と言いながら目を通していたが、「ごく普通のものだ。エインジェル氏の手がかりはここにまったくない。ただバルザックからの引用があるくらいだ。しかしひとつ際だった点もあって、それには君も面食らうだろう。」「みなタイプ打ちだ。」と私が言うと、「あろうことか、署名までタイプ打ちだ。下に『ホズマ・エインジェル』と小さく器用に打ってあるだろう。ほら日付もあるが、差出人の住所にはレドンホール街とあるだけで、かなり曖昧だ。署名のこの点はかなり含むところがある――事実上の決め手とも言える。」


(16)「何のだね?」「やれやれ、このことが事件にどれだけ大きなものか、君にだってわかるだろう?」「何と言ってよいやら、これは誓約不履行の訴えを起こされたときに、署名を否認したい、ということなのか?」「いや、そこは論点ではない。とにかく二通手紙を書こう。そうすれば事は片づく。一つは中心区シティのある会社へ、もう一つはあの若い女の義父なるウィンディバンクへ。明晩六時にここで面会したく候、と伺いを立てる。我々が取引するなら、男の親類の方がいいだろう。さて博士(ドクター)、この手紙の返事が来るまで何もできることがない。だからこんな些細な問題はしばらく棚に上げておこう。」私はこの友人の鋭い推理力と並はずれた行動力をこれまでのことから信頼しきっているので、今回の事件に関しても、その解明を依頼された奇妙な謎の扱い方が自信ありげで気楽なものであるからには、何か確固とした証拠がすでにあるのだろうと感じていた。確かに彼でも失敗に終わることがあると、間近で思い知らされたこともあった。ボヘミア王とアイリーン・アドラーの写真の一件であるが、『四人の誓い』の不思議な依頼や『緋のエチュード』にまつわる異常な展開を思い出すにつけ、わが友人に解きほぐせぬものとは、それこそ奇妙にもつれたものであると思えてならない。そのあと私は退室したが、そのときもまだ黒い陶製のパイプを吹かしていた。あくる晩、私がまた来たときにはきっと自分は手がかりをみな手中にしているぞ、そして失踪したメアリ・サザランド嬢の花婿の正体へと迫るのだ、と言いたげなふうであった。その頃、私がひとりの重篤な患者の治療に専念していたこともあって、翌日はずっと病床に付きっきりであった。


(17)六時頃になってようやく身体が空いたので、何とかハンソム馬車に乗り込んで、ベイカー街へ駆けつけるなか、あの小事件の解決の手伝いには間に合わぬやも、と半ばそわそわしていた。しかし着いてみればホームズはひとりうとうとして、その痩身長躯を肘掛椅子の奥へと畳み込んでいる。おびただしく並べられた瓶に試験管、そして塩酸のきつい刺激臭が物語るのは、彼が一日じゅうご執心の化学実験をやっていたということだ。「どうだね、解けたかね。」と私が入るなり訊ねると、「うむ、酸化バリウムの重硫酸塩だ。」「違う違う、事件の謎だよ!」と私が叫ぶと、「ふむ、あれか! 今取り組み中の塩えんのことかと。あの案件に謎など何もありはしない。だが昨日も言ったように、細部のいくつかには関心がある。唯一の欠点は、どうもその悪党を扱える法がないことだ。」「ほう、そいつは誰だね、サザランド嬢を捨てた真意と言うのは?」 私が疑問を口から出すが早いか、そしてホームズが返答しようと唇を開ききらないうちに、廊下から重い足音、そして扉を叩く音が聞こえてくる。「あの娘の義父、ジェイムズ・ウィンディバンクだ。」とホームズ。「六時には行くと返事を寄越した。お入りを!」入ってきた男は体格のいい中背の人間で、年は三〇前後、髯はきれいに剃られているが顔色は悪く、物腰は穏やかでへりくだるようでいて、灰色の瞳は驚くほど鋭くとげとげしい。私たちをそれぞれ疑わしげにちらちらと見やってから、すり切れた山高帽を横棚に置き、軽く会釈をして手近の椅子ににじり寄って座る。「こんばんは、ジェイムズ・ウィンディバンクさん。」とホームズ。「このタイプ打ちの手紙はあなたからのものですね、


(18)これによると、六時にご面会の約束をと。」「そうです。少し遅れはしまいかと心配しましたが、どうも多忙で身体が自由になりませんもので。サザランドさんが些細なことで煩わせまして申し訳ありません。人前で内輪の恥をさらすことなどしない方がまったく賢明ですからな。娘がここに来ることはまったく私の意に反することなのですが、あの通りカッとなったらすぐ動いてしまう性質たちで、これと決めたら手の着けようがないのです。まあ幸い、あなたが警察官憲とご関係がないから私としてもさほど構いはしませんが、このような家庭の災難など外へ言いふらされるのは愉快ではありません。その上、無用の出費ですよ、そうでしょう? そのホズマ・エインジェルなど見つけようもないでしょうに。」「それどころか、」とホームズの静かな声。「ホズマ・エインジェル氏はうまく見つかるとしか思えない状況なのです。」ウィンディバンク氏はぎくりとして、手袋を取り落とした。「喜ばしい話ですな。」「不思議なことに、」とホームズが切り出す。「タイプライターも人間の筆跡同様、個々によってまったく異なるものなのです。新品でない限り、ふたつとまったく同一のものはありません。ある文字が他より摩滅していたり、片側だけ摩滅したり。さてこのあなたの短信に打たれた文字ですが、ウィンディバンクさん、毎回この『e』の上がどこかやや不鮮明で、なおかつ『r』の尻尾がわずかに欠けています。他にも一四の特徴がありますが、この二つが他よりわかりやすい。」「手前どもは職場がこの器械ひとつですべての通信をやっておりますので、きっとそれで少し摩滅しているのかと。」と客は答え、その小さな目を光らせて、ホームズを鋭く見やる。


(19)「時に、あなたに実にまさしく興味深い研究というものをお見せしましょう、ウィンディバンクさん。」とホームズは続ける。「僕はこのところ、別のささやかな論文を書こうと考えてまして、それはタイプライターとその犯罪との関係についてです。今ちょっと関心を注いでいる題材なのです。ここにあるのが、失踪した男から来たとされる四通の手紙。みなタイプ打ちされている。いずれもeが摩滅しrの尻尾が欠けているだけでなく、拡大鏡をお使いになればおわかりになりますが、先ほど触れました他の一四の特徴も同様にあるのです。」 ウィンディバンク氏は椅子から跳び上がり、帽子をつかんで、「そんなおとぎ話で無駄にする時間はありません、ホームズさん。」と言い、「その男を捕まえられるのなら、捕まえたらいいでしょう。やってのけてから知らせてください。」「確かに。」とホームズは歩いていって、扉に鍵を掛ける。「ではお知らせします。その男を捕まえました!」「何! どこだ!」とウィンディバンク氏は叫び、唇を真っ青にして、罠にかかった鼠のように身の回りを見まわしている。「ええ無駄です――無駄なのですよ。」と穏やかなホームズ。「もう逃げられません、ウィンディバンクさん。すべてお見通しなのです。挨拶としてはよくありません、こんな単純な問題を僕に解けないと言うなんて。よろしい!座りたまえ。この件について話し合いましょう。」 客人は椅子に崩れ落ち、死んだような顔をする。額には冷や汗が光っており、「う――訴え出ることなどできんぞ。」と小声で言う。「そのことは僕としても実に残念です。


(20)しかしここだけの話、ウィンディバンクさん、これほど残酷で身勝手で心のない、ちゃちなごまかしに出会ったのは初めてです。さて、事の次第を一通り語らせてもらいましょう。間違っていたら反論するといい。」男は椅子の上に縮み込んで、頭を胸に沈めたため、まるで押しつぶされた人間のようであった。ホームズは両足を炉棚の隅に乗せて、両手を懐に入れて反り返り、他に対して言うというよりむしろ独り言でもしているような調子で話し始める。「その男は自分よりかなり年上の女と金目当てで結婚した。娘と一緒に住んでいる限り、娘の金が使い放題。彼らの地位の人間からすれば相当の額だ。それを失えば深刻な変化が生じよう。その保全に一苦労してみる価値はある。娘の性格はお人好しもいいところだが、なかなか情と思いやりのある人物だ。だから性格がいい、ささやかな実入りもあるとくれば、独り身もそう長く続くはずもない。さて彼女の結婚は、むろん年百の損失を意味する。そこで義父はその阻止のために何をする? やることははっきりしている。女を家から出さず、同年代の人間との交際を禁じればよい。しかしすぐに気づく、いつまでもうまくはいかない。女はたてつくようになり、自分の権利を主張し、そしてついにある舞踏会へぜひとも行きたいと言い出す。狡猾な義父はそこでどう出たか? 思いついた案は、心でなく頭から出たものだった。妻に見て見ぬふりをさせ、助けを得て、男は変装する。鋭い目には色眼鏡をかぶせ、顔は濃い口髭頬髯で覆い、その通る声もわからぬようささやき声に。しかも乙女は近眼だから二重に安全。


(21)男はホズマ・エインジェルとして現れ、自分を愛させることで他の恋人候補を追い払う。」「初めはほんの冗談だったんです。」と客は声を絞り出す。「心を奪おうなどとは夢にも。」「白々しい。どうであれ、その若い女性は迷いのないほど心奪われ、しかも義父はフランスとすっかり思い込んでいるから、自分が騙されているといった疑いを微塵も差し挟まない。女はその紳士の心づくしの振る舞いに舞い上がってしまい、その効果は母の声高な賞賛の言葉でいや増す。それからエインジェル氏は通い始め、逢瀬を重ねる。行けるところまで推し進めた方がいいことが明らかだったからだ、真の効果を生み出したいのなら。婚約、ここまで来ればとうとう安心。乙女の愛情は他の誰へ向くこともない。しかしいつまでも騙し続けるわけにもいかない。フランスへ行った振りをするのも若干厄介だ。やるべきことは明白、劇的な形でこの件の幕を下ろすこと、そうすればこのことは、若い女性の心に永遠に刻みつけられ、当分のあいだは他に求婚者が現れても見向きもしないだろう。だからこそ聖書で操の誓いを立てさせ、だからこそまた式の当日の朝に何かが起こるやもとほのめかす。ジェイムズ・ウィンディバンクの欲することは、サザランド嬢がホズマ・エインジェルに縛られること、そしてその生死が不明であるだけに、ともかくこの先一〇年は他の男に耳を貸さなくなること。教会の入り口まで女を運び、それから自分は先へ進まぬよう都合良く消え去る。四輪の一方の戸から入りそのまま反対から出る。古くさいごまかしだ。これが事の次第でしょう、ウィンディバンクさん!」ホームズが話しているあいだに、客はいくばくかの度胸が戻ってきたのか、


(22)ここで椅子から立ち上がり、その青い顔に冷笑を浮かべながら、「そうかもしれないし、そうでないかもしれないでしょう、ホームズさん。」と言い放つ。「しかしそれほど頭が切れるのなら、ご存じのはずだ、今法を破ろうとしているのはご自分であって私じゃあない。私のしたことは初めから訴えられる要素がないけれど、あなたがその扉を閉めている限り、常にあなたは暴行の脅迫と不法拘束で訴えられるおそれがある。」「君の言う通り、法は君を扱えない。」とホームズは鍵を外して扉を開け放つ。「しかしここにいる男ほど、罪に値するものはない。もしその若い女性に兄弟親友があれば、貴様を鞭で肩から打ち払ったに違いない、間違いなく!」と話ながら男の顔を見ると、痛烈にあざ笑っていたので血が上ったのか、「依頼者との仕事には含まれてはいないが、ここに手頃な狩猟鞭がある、ちょっとこれを試してみても――」と友人がたちまち二歩鞭へ近寄ったが、つかみ取る前に階段からどたばたという足音が聞こえ、玄関の扉の大きな音がして、窓から見るとジェイムズ・ウィンディバンク氏は全速力で道を走り抜けていた。「冷血な悪党が!」とホームズは言い捨て、笑いながら自分の椅子に再び身体を預ける。「あのような奴は、罪に罪を重ねて最後には極悪なことをしでかし、果ては絞首台だ。今回の事件、少なくともいくつかの点ではそれなりに興味深かった。」「まだ私は、君の推理の筋道がみなわかったわけではないのだが。」と私は白状する。「ふむ、無論初めから明らかだったのは、そのホズマ・エインジェル氏に、おかしな振る舞いをするほど深い動機があったに違いないということだ。


(23)同様にはっきりしているのは、この出来事で実際に得をするのが、我々の知りうる限り、義父しかいないということだ。それからこの二人の男がけして一緒にはおらず、ひとりが姿を現しているときはいつももう一方がいないという事実が、曰くありげである。それに加えて色眼鏡と妙な声が、どちらも変装を思わせる。濃い髯も同様だ。僕の疑問は、その署名がタイプ打ちされていることでいよいよ濃くなる。無論それが示すのは、当人の筆跡が女にとって身近なため、少しでも見せると気づかれてしまうから。君もこの個々の事実がわかれば、細かい点も含めてどの点も同じ方向にあることがわかるだろう。」「して、その証明はいかに?」「例の男に目星を付けたら証拠はわけない。この男の働いていた会社はわかっている。印刷された人相書をもって、変装部分をすべて取り除く――髯、眼鏡、声、そして会社に送る。お宅の外商でこの人相書に一致する者がいるかご確認を。すでにタイプライターの癖には気づいていたから、職場の住所宛でこの男本人に手紙を送って、ここに来られるかと訊ねた。期待通り返事はタイプ打ちで、細かいが特徴的な痛みが一致するとわかった。同じ郵便でフェンチャーチ街のウェストハウス&マーバンクから手紙が届き、その知らせの内容は、人相書があらゆる点でうちの社員のジェイムズ・ウィンディバンクと一致。以上!」「で、サザランド嬢は?」「僕が言ったところで彼女は信じまい。覚えているか、古いペルシアのことわざを。『虎児を捕らうるもの危険あり、女性(にょしょう)より幻影を奪うものまた危険なり』と。ハーフィズもホラティウスと同じ感性を持っている、世の知恵もまたしかりだ!」

アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle
加藤朝鳥訳 大久保ゆう改訳

同一事件(前半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「同一事件」の前半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。23の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎回灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしあとただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)「いいかね。」とシャーロック・ホームズは、ベイカー街の下宿でふたり暖炉を囲み、向き合っているときに言い出した。「現実とは、人の頭の生み出す何物よりも、限りなく奇妙なものなのだ。我々は、ありようが実に普通極まりないものを、真面目に取り合おうとはしない。しかしその者たちが手を繋いで窓から飛び立ち、この大都会を旋回して、そっと屋根を外し、なかを覗いてみれば、起こっているのは奇怪なること――そう、妙に同時多発する事象、謀りごとにせめぎ合い、数々の出来事が不思議にもつながり合って、時を越えてうごめき、途轍もない決着を見せるとなれば、いかなる作り話も月並みなもので、見え透いた結びがあるだけの在り来たりの無益なものとなろう。」「そうはいっても納得しかねるね。」と私は答える。「新聞紙上で明るみに出る事実なんて、大抵が実にそっけなく実に卑しい。モノを見てもだ、警察の調書などでは写実主義が限界まで貫かれているにもかかわらず、出来上がるものにはまったくのところ、魅力もなければ芸もない。」「それなりの取捨選択を用いねば真実味は生み出し得ない。」とはホームズの御説だ。「これが警察の調書には欠けている。ことによると細部よりも治安判事の戯れ言に重点を置く。細部にこそ、観察に値する事件全体の核心が含まれている。信じていい、普通なるものほど不自然なことはない。」私は笑みを漏らし首を振って、「君がそう考えるのもわからないではないよ。そら君の立場としては、三大陸じゅうにいる考えあぐねた人々、その皆の私的相談屋・お助け屋であるわけだから、奇妙奇天烈なあらゆることに関わり合う羽目にもなる。


(2)しかしまあ、」――と床から朝刊を取り上げて――「ここらで実地に試してみよう。とりあえず目に付いた見出しはこうだ。『妻に対する夫の虐待』、段の半分にわたる記事だが読まんでもわかる。まったくよくある話に決まってる。ほら、他に女が居て、酒に喧嘩、薬に生傷、世話焼きな妹か女家主。いくらヘボ文士でも、これほどヘボなものは書けんよ。」「ふむ、この例は君の説に不適切だ。」とホームズは新聞を取り上げ、目を落としながら言う。「これはダンダス夫妻の別居訴訟と言って、あいにく僕もこの件の謎解きに少しばかり噛んでいる。この夫はまったく酒を飲まず、他に女もいない。訴えられた行状というのが、食事の終わるたび入れ歯を外して妻に投げつける、そんなふうにずるずるとなっていったというものだ。わかるだろう、これは凡百の語り部の想像に浮かびそうな行為ではない。嗅煙草でもやりたまえ、博士、そして自分の引いた例でやりこめられたと認めることだ。」と差し出された古金色の嗅煙草入れ、蓋の中央には大粒の紫水晶、その見事さが友人の質素な暮らしぶりとあまりに対照的であったため、口を挟まずにはいられなかった。ホームズは、「ああ、忘れていた、君は数週間ぶりだったか。これはボヘミア王からのささやかな記念品だ。あのアイリーン・アドラーの書類の件に力添えした礼に。」「ならその指環は?」と私が、その指に巧みなブリリアントカットの宝石があるのに目を付けて訊ねると、「これはオランダの現王家からだ。手がけた一件については微妙なものだから君にも打ち明けられない。僕の些細な案件をひとつふたつ記録してくれるくらいは構わないのだが。」


(3)「なら今は何か手がけてないのか?」と私が前のめりに聞くと、「一〇ほど、いや一二か。だが少しも惹かれそうなところがない。面白くはなくとも無論大切ではある。ところが実際のところ、経験上、大抵取るに足らないところにあるのだよ、観察力と鋭い因果分析力の発揮できる場というものは。大犯罪ほど単純化する傾向があるが、それは犯罪の規模が大きくなれば、原則として動機が見えやすくなるからだ。手元の案件のうちでは、ひとつだけやや込み入った事件の問い合わせが、マルセイユからあるのだが、それ以外は惹かれるものが何もない。だがほんの数分もすれば、もっと良いモノが手に入る見込みがある。あそこだ、あれはうちの依頼人になる。でなければ僕は大馬鹿者だ。」ホームズは椅子から身を起こし、窓掛けの合わせ目のあいだに立つ。見下ろす先には、くすんだ中間色のロンドン市街、私もホームズの肩越しに覗いてみると、向かいの舗道に大柄の女が、ふっくらした毛皮の襟巻きを首に廻して、鍔広つばひろの帽子に大きな曲線を描いた赤い羽根をつけ、それを艶なデヴォンシア公爵夫人流に、片耳隠しで斜(はす)にかぶって立っている。かかる晴れがましい装いの奥から、女の視線が気遣わしげに、ためらいがちにこちらの窓へ向けられている。と同時に女の身体はそわそわと前後に動き、その指は手袋の釦をいじくり回している。と途端に飛び出すのは、岸を泳いで離れるかのようで、急ぎ足で道を渡り、やがて呼び鈴のけたたましい音が聞こえる。「今のような素振りは以前にもあった。」とホームズは紙巻き煙草を暖炉にくべる。「舗道でそわそわするのは、色恋沙汰と決まっている。


(4)助言を欲しているのだが、事が微妙のあまり人に言ったものかと心を決めかねている。とはいえここにいても見て取れることはある。たとえば女が男から心底ひどい目に遭わされたのならためらいなどしようもなく、その場合は大抵、呼び鈴の紐を引きちぎって見せる。ここで取れる解釈とは、色恋沙汰ではあるが、その乙女は怒るというより戸惑っているないし悲嘆に暮れている。だがここに本人も来たから、この悩みもすぐに解けよう。」という間に部屋の扉が叩かれ、給仕服の少年が入ってきてメアリ・サザランド嬢と告げるや、女性本人の姿が黒づくめの少年の後ろからぬっと現れる。あたかも水先案内の小舟についてくる満帆の商船のごとくだ。シャーロック・ホームズは彼らしく快く迎え、そして扉を閉め、丁重に肘掛け椅子を勧めながらも、さっと女をながめ回す。「その近眼でタイプ打ちを相当になさると、少々おつらいでしょうに。」「はい、初めのほどは。」と女は答える。「しかし今では見ないでも文字の位置はわかりますので。」とそのときふと、相手の言葉の意味するところがわかったのか、女は驚いて顔を上げる。その大きく愛嬌のある顔は、面食らいつつもいぶかしげであった。「ホームズ先生、わたくしのことをすでにご存じで?」と声を張り上げ、「でなければいったいどうやって……」「お気になさらず。」とホームズは笑いながら、「物事を知っているのが僕の仕事、他人の見落とすところがわかるよう心掛けている、といったところで。でなければ、どうしてあなたがこちらへご相談へお越しに。」「は、はい、こちらへ参りましたのは、先生のことをエサリッジの奥さまよりうかがいまして。


(5)あの方のご主人をやすやすとお見つけとか。警察も亡くなられたものとしていらしたのに。ええ、ホームズ先生、なにとぞわたくしにもお力添えを。裕福ではありませんが実入りも年に百ドルありますし、それにタイプ打ちも少しの足しには。これをみな先生に差し上げます、ホズマ・エインジェルの行方がわかるのなら。」「お越しの際、どうしてあれほどお急ぎに?」と訊ねながら、ホームズは指先を突き合わせ、目を天井に。またもや驚きの表情が、メアリ・サザランド嬢のいくぶん変化の乏しい顔に現れる。「そうですの、わたくし、うちを飛び出してきました。ほんとに腹が立って、あんなにのんきにして、ウィンディバンクさん――あっ、わたくしの父で――まったくもう、警察には行きたくない、こちらへもうかがいたくない、それで結局何もしないのに、何も事件なんて起こってないのだから、ってばかり言って。それでわたくし、気が気でなくなって。取るものもとりあえず、まっすぐこちらへ。」「お父上、」とホームズ。「義理の、ですね。名前が違います。」「ええ、義父ですの。父と言うのもおかしいくらいで、わたくしと五年と二ヶ月年上なだけなんですの。」「お母上はご壮健で?」「ええ、もう元気で丈夫で。でも心から喜んで、とも言えない事情がありまして、ホームズ先生、その母が父の死後すぐ再婚しまして。それも本人より一五も年若い男とだなんて。父はトテナム・コート通りの配管業で、そのあと結構な店が残ったのですが、母は現場頭のハーディさんと続けておりました。ところがウィンディバンクさんがやってくると、その店を母に売らせてしまって。自分はものすごい、


(6)ワインの外商をしているとかで。店は暖簾と上がりで四七〇〇ポンドになりましたが、父が生きていたらこんなはした額で売るなんてけっして。」 私の予想では、シャーロック・ホームズはこの締まりのないこんがらがった話にいらだっているはずだったのだが、反対にできるだけ気を集中させて聞いているのだった。「ご自身のささやかな収入とは、その店が元で?」「いいえ先生、まったく別物で、オークランドにいる伯父のネッドが遺産でわたくしにと。ニュージーランドの株で、配当が四分五厘、額面は二五〇〇ポンドなのですが、わたくしは利回りにしか手を付けられません。」「極めて興味深いお方だ。」とホームズ。「では、年百ほどの大金が入り、加えてご自身の稼ぎもあるなら、少しばかりご旅行や色々と余裕もおありのことでしょう。独り身の女性ならきっと六〇ポンドほどの収入でかなり結構やっていけますから。」「わたくしなら、もっと少なくっても。先生、ですがうちにいるとはいえ脛すねをかじりたくございませんから、お金の扱いについては、一緒にいるあいだだけは預けております。もちろんほんの当分のことですわ。ウィンディバンクさんはその利回りからいつも四分の一引き出して、そのまま母に渡しておりまして、わたくし自身は、自分がタイプ打ちで稼いだ分でちゃんとうまくやってゆけますから。一枚二ペンスいただけて、日に一五から二〇枚はだいたい。」「現在のお立場はよくわかりました。」とホームズ。「こちらは友人のワトソン博士、彼の前では僕同様、気兼ねなくお話を。さて次のご質問ですが、できればそのホズマ・エインジェルさんとあなたとのご関係を。」


(7)紅いものがさっとサザランド嬢の顔によぎり、上着の裾を気遣わしげにつまんで、「出会いはガス工組合の舞踏会の折でした。」と話し出す。「組合は父が存命中よく招待状を送ってくださいまして、その後も忘れずに母とわたくしへと。けれどもウィンディバンクさんはわたくしどもが行くのを承知せず、それどころか外出すらよく思っていなかったのです。たとえば日曜学校学校の催しなどに行きたがろうものなら、もう気も狂わんばかりで、ですがわたくし、今度ばかりは行く、ぜひ行くって。別にあの人に留め立てする権利はございません。知り合う値打ちのない奴らばかりだと言いますが、父のご友人の方々もいるはずなんですから。お前には着る服もないだろうと言われましたので、今まで箪笥にしまい込んでいた紫のフラシ天を出してやりましたわ。とうとう何も言うことがなくなって、あの人も所用でフランスへ出払ったものですから、母とわたくしと、現場頭でしたハーディさんとで参りました。そこでホズマ・エインジェルさんに会いましたの。」 するとホームズは、「では、そのウィンディバンクさんがフランスから帰ってくると、あなたが舞踏会へ出たので大いにご不満だったでしょう。」「いいえ、それがずいぶん嬉しそうで。確か笑って肩をそびやかして。女ってやつはダメだと言ってもしようのない、思うようにやってしまうのだから、って言いましたの。」「なるほど。そのときガス組合の舞踏会でお会いになった紳士の名は、ホズマ・エインジェルで間違いありませんね。」「ええ、先生。その夜に出会って、次の日には、無事でお帰りですかと、うちを訪ねておいでで。そのあとも会いまして――


(8)つまりホームズ先生、二度散歩をご一緒しまして、そのあと父が戻ってきまして、ホズマ・エインジェルさんは以後うちには来られなくなりました。」「一度も?」「そうですの、ほら父はこんなこと大嫌いでございますから、できることなら客を入れたくないという主義で、口癖のように、女というものは自分の家庭の輪にいるのが幸せだと。とは言いましても、母にも申し上げましたが、女はそもそも自分の輪が欲しいものなのに、わたくしには自分のものがないんですもの。」「それはそうと、ホズマ・エインジェルさんの方は? あなたに会おうとしなかったので?」「それは、父が一週間ほどして、またフランスへ出向く予定でしたので、それでホズマは手紙で、あの人が行ってしまうまではお互いにあわない方が無難だと。そのあいだもわたくしどもは手紙は書けましたので、あの方も毎日書いてくださいました。手紙を受けとるのは朝でしたので、父は知る由もありません。」「その紳士とのご婚約はその頃に?」「ええそうですの、先生。ふたりでした初めての散歩のときに婚約を。ホズマ――エインジェルさん――は、レドンホール街の事務所で出納係をしていらして――それで――」「業種は?」「それが困ったことに、先生、存じ上げなくて。」「では自宅は?」「そこに住み込みで。」「ならご住所はご存じかと。」「いえそれが――レドンホール街とだけ。」「では手紙の宛名をどこに。」「レドンホール街郵便局へ、留置(とめおき)で。事務所に届くと、女性から手紙が来たと他の同僚みんなにからかわれるとおっしゃって。ならタイプ打ちしましょうかと申し上げたのですが、そんなの受け取りたくない、


(9)手書きならあなたから届いたと感じられるけど、タイプ打ちだとふたりのあいだに器械が挟まっているようにいつも思えてしまうと。これだけでもあの方がどんなにわたくしを愛していてくださるかおわかりでしょう、ホームズ先生。こんな細かいところにも気を配る人でしたの。」「実に思わせぶりで。」とホームズ。「長年、座右の銘としているのですが、細事の大事は限りなし。他にどんなささやかなことでも、ホズマ・エインジェルさんで覚えていることがありましたら。」「あの方は大変な恥ずかしがり屋なの、ホームズ先生。わたくしと散歩するのも日のあるうちより暮れてからがいいみたいで、人目に付くのが嫌だと言うんです。ほんとに内気で紳士らしい方、声だって細くて、若いときに扁桃炎で腺が腫れ上がったらしくて、そのせいで喉が弱くなったとか。だから話し方がためらいがちでささやくみたいで。身だしなみはいつもよくて、とてもきちんとして派手でなく、さっぱりとして、でもわたくしと同じで目がよくなくて、まぶしいからと色眼鏡を。」「ふむ、それで義父のウィンディバンクさんがフランスから帰ってからはどうなりました?」「いえその、エインジェルさんがうちにいらっしゃって、父がフランスから帰る前に式を挙げてしまおうとご提案に。恐ろしいほど熱心でわたくしの手に聖書を持たせて、何があっても自分を信じてくれと誓わされて。母もあの人に誓うのがいいに決まってると、それだけ想いがあるのだと言いますし。母は初めからまったくあの方びいきで、わたくしよりもあの方を愛していたくらいでした。しかも今週じゅうに式を挙げるとおっしゃるので、わたくしは父のことが気になり始めていたのですが、


(10)ふたりが父のことを気にしなくてもいい、あの人にはあとで言えばいい、母が父のことを何とかすると言うのです。そのようなこと、わたくしはとても嫌でしたの、ホームズ先生。わたくしより少し年上なだけですから許しを得るというのも妙なことなのですが、とにかくこそこそと何かを致したくはありません。そこでボルドーの父へ手紙を。そこに会社のフランス事務所があるのです。ですが、手紙は式当日の朝に手元へ戻って参りまして。」「ということは届かず。」「そうですの。あの人は着く直前にイングランドへ発ちまして。」「ほう! それはおあいにく。では式の予定は金曜日、場所は教会で?」「そうですの。でもごくつつましやかに。キングス・クロス近くの聖セントセイヴィアでして、そのあと聖セントパンクラス・ホテルで朝食を取る手はずでした。ホズマはハンソム馬車で来ましたが、わたくしどもはふたりですので、あの方はその馬車にふたりともを乗せて、自分は四輪の辻馬車に乗り込んで。通りには他にその馬車しかなかったのです。わたくしどもの方が先に教会へ着きまして、やがて四輪が着くと、わたくしどもはあの方が降りてくるのを待ったのですが、うんともすんとも。御者が台から下りてのぞきますと、誰もいないのです! 御者は客がどうなったか思いもつきませんし、なかに入るのは確かにこの目で見たと。それが先の金曜日のことですの、ホームズ先生。それ以来何の姿も便りも、行方の手懸かりになるようなものは……。」「どうやらひどい辱めをお受けになったようですね。」とホームズが言うと、「違いましてよ!あの方は立派でお優しい方、わたくしをそんな捨てたりなど。


(11)それに朝のあいだずっと、何があっても自分を信じてくれとおっしゃり続けておりました。たとえ何か予期せぬことで離ればなれになったとしても、わたくしはあの方を信じると誓ったことをけして忘れは致しませんし、あの方も遅かれ早かれお誓いになるはずでした。式の朝にしては妙な会話のようですが、そのあと起こったことでそういう意味でしたのとわかりまして。」「きっとその通りでしょう。ではあなたのご意見では、何か予期せぬ災難にその方が見舞われたと?」「そうですの。きっとあの方は何か危険を察知していたのですわ。でなければあんなことおっしゃいません。ですから予期したことが起こったのだと思いますの。」「ですが、その起こったと思われることについては、心当たりがないと。」「ございません。」「もうひとつ、その件をお母上はどうお捉えに?」「かんかんです。この件については金輪際口にするなと。」「お父上は? お話しには?」「もちろん。そしてわたくしと同じく、何かあったと考えたようで、いずれホズマから連絡があると。あの人が言うように、わたくしを教会の戸口へ連れてって置き去りにしても、誰が何の得をしましょう。まあ、あの方がわたくしからお金を借りているとか、結婚したらあの方がお金の分け前にあずかれるとかならいざ知らず、ホズマは自分の財産もかなり持っておりますし、わたくしのお金を気にしたことすらないのですから。それにしても何が起こったのでしょう。どうして便りひとつも。ああ、それを考えるだけでわたくし、おかしくなってしまいそうで、夜一睡もできませんの。」と女はマフのあいだから小さなハンカチを出して、そのなかへぼろぼろと涙をこぼし始めた。

土色の顔画(後半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「土色の顔」の後前半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。23の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎回灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしあとただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)公表せんとして、このような短編を膨大な事件の山から選んで書く際の話だ。そういった事件では、我が友人の類稀なる才能のために、私は否応なく不思議な舞台の観客となり、時によってはその登場人物となってしまう。そのせいで書く際には我知らず失敗談よりも成功談が多くなる。だが何も彼の名声のためではない――正直なところ、思案に余るような場合こそ、彼の力とその器の大きさに賞賛を送りたくなるのだが――まともな理由としてはやはり、彼が失敗するときは誰であろうとうまくいかず、話は永遠に結末へ至らぬままというのが大半であるからだ。しかしながら、時として、推理は間違っているのに、それでも真相が明らかになるということがたまにある。この種の事件は六つほど書き留めてあるが、『第二の血痕』とこれからお話しする物語のふたつが、もっとも興味深い一面を見せてくれる シャーロック・ホームズという男は、運動のための運動は滅多にしなかった。だが、はげしい肉体労働に彼ほど耐えうる人間はほとんどなく、また確かに同じ重量級では、私の見たうちでも拳闘家(ボクサー)として一流の部類に入るだろう。目的もなく体を動かすのは力の浪費であるとし、発揮するのは職業上役に立つという狙いがあるとき以外ほとんどない。それでいて疲れをまったく知らない。本来なら普段の鍛練を積まねばならぬはずなのだが、日々の食事もきわめて質素で、生活ぶりも厳格に過ぎるほど慎ましい。時折コカインを飲む以外の悪癖はなく、その薬物とて、事件が冴えなかったり、新聞に惹かれるものがなかったりして、日々に変化がないときに頼るに過ぎない。早春のある日、ホームズはのんびりとした気持ちで散歩に出、私も同行してリージェント・パークをぶらついた。 



(2)楡(にれ)の木から緑の若芽が吹き出しかけ、栗の木のぬめりとする枝先からはちょうど五つに重なる葉をつけ始めたところだった。二時間近く一緒に歩き回ったが、ろくに会話もしなかった。お互い勝手を知り合った仲だから、この方がちょうどいい。五時になろうという頃、我々は再びベイカー街へ戻ってきた。「すいません。」と戸を開けたとき小間使いの少年が言う。「お留守のあいだに男のお客さまがありました。」 ホームズはしまったというふうに私に目をやる。「これだから午後の散歩は。」とこぼし、「もうその人は帰ったのか?」「はい。」「中でお待ちするようにとは?」「いえ、中へお通ししたんです。」「どのくらい待っていた?」「三十分ほどです。とてもせっかちな方で、ここにいらっしゃるあいだ始終、歩き回ったり足踏みしておられて。僕は部屋の外でお待ちしていたのですが、それでもわかるくらいで。ですがとうとう廊下にお出になって、『もう、帰ってこないじゃないか』と、そうその方はおっしゃいました。『もうほんの少しだけお待ちいただけますか』と申し上げますと、その方は『じゃあ外で待ちます。ここじゃ息が詰まりそうで。じきに戻ります。』とおっしゃっていきなりお出になり、いろいろ申し上げたのですが、お引き留めできませんでした。」「いやいや、それで十分。」とホームズは言って、我々は部屋の中へ入った。「実に待ち遠しいね、まったく。ワトソン、僕は事件が欲しくてたまらなかった。どうも、その男が気を揉んでいたことからも、大事のようだ。おや! あの机にあるパイプ、君のではない。男の忘れ物か。よく使い込んだブライアで、軸が少し長い。愛煙家のあいだで琥珀と呼んでいるものだ。本物の琥珀の吸い口など、そういくつもロンドンにあるものかね。中に蠅がいるのがその証だと思っている輩もいる。



(3)ふん、いっぱしの商売人ともなれば、琥珀のまがい物に偽物の蠅を入れることくらいする。さておき、その男はよほど気が動転していたに相違ない。大切なはずのパイプを置き忘れるほどだ。」「どうすれば、大切なパイプという結論が出るんだね?」と私は訊いた。「何、僕の見積もりでは、そのパイプの元の値段は七から六ペンス。ところがほら、二度直しが入っている。一度は木の軸を、一度は琥珀のところを。いずれの直しもご覧の通り銀が巻いてある。パイプの値はもとより遥かに高くなっているはず。人というものは、自分から手当をしてやったパイプの方が、同じ額で買った同じものよりもずっと大切にする。」「次の推理は?」と私は先を促す。ホームズがそのパイプを手でいじくりながら、彼独特の思いに沈んだ目つきでじっと見ていたからだ。ホームズはパイプをつまみ上げ、細長い食指でその上を軽く叩く。ちょうど何かの骨について講義している大学教授がよくやるように。「パイプというのものは、時として意外なほど人の興味を惹く。」と言う。「これほどひとりひとりの個性が表れるものはない。まあ、懐中時計と靴ひもを抜いての話だが、今回はそれほど目立ったことも大事なことも教えてくれそうにない。この持ち主について確かなのは、体格の立派な男で左利き、歯は丈夫だが手癖が悪く、あとあえて節約生活を送る必要はないということだ。」我が友人の今の言葉は、声こそさりげなかったが、その目は私に向けられ、推理についてくるかどうか窺っているのがわかった。「男が裕福というのは、七シリングのパイプで吸うからかね?」と私。「銘柄はグロウヴナ・ミクスチュア、一オンス八ペンス。」とホームズは答え、小突いて手のひらに少量出してみせる。


(4)「その半値でも葉としては贅沢だから、あえて倹約する必要がない。」「なら他の点については?」「この男、パイプの火をランプやガス灯でつける癖がある。ほら、片側がすっかり焦げているだろう? もちろんマッチではこうはならない。マッチの火をパイプの縁にあてておく男などどこにいる。だがランプで火をつけるとあれば、どうやっても火皿を焦がしてしまう。しかも焦げているのはみな右側。そこでこの男が左利きだと推察した。君もパイプをランプへ持っていけば、ほら右利きなら自然と左側が火に当たるだろう? 反対の手でもできなくはないが、ぎくしゃくする。これを始終やっていた。それから琥珀のところを噛みつぶしている。それをするには、筋肉も力もあって、歯も丈夫でなくてはならぬ。さて、間違いでなければ、その人物が階段を上っている。ならばこのパイプよりも面白い何かが研究できよう。」 ほどなくして、部屋の入口が開き、背の高い若者が入ってきた。男は灰色のダーク・スーツを無難に着こなし、手には鳶色の中折帽を持っていた。私は三十くらいと見当をつけたが、実際はもういくつか上だったらしい。「すいません。」と男はまごつきつつも言う。「戸を叩いた方がいいとわかっていたんですが、ええ、わかってます叩かなきゃいけないんです。その、ちょっと気が動転してて、だから、今のことはそう考えてください。」男は眩暈がするというふうに手を額にかざし、座るというより倒れるといった調子で椅子に身を預けた。「見たところ、二晩ほどお休みになってませんね。」ホームズがいつものようにうち解けた調子で語りかける。「神経にこたえるでしょう。仕事、ましてや遊びなんかよりも。僕にできることがあれば、何なりと。」



(5)「相談に乗ってください、もうどうしてよいやら、僕の人生がめちゃくちゃになりそうなんです。」「僕を諮問探偵としてお雇いに?」「それ以上に、考えを伺いたいんです、賢いあなたに――道理を知るあなたに。これからどうすればいいのか知りたいんです。あなたなら絶対に出来ると思うんです。」 男は一気に言葉をまくし立てた。本人にとってはしゃべることすらつらく、もう気持ちだけで何とか持ちこたえているというふうに私には思えた。「微妙な問題なんです。」と男は言う。「誰だって、家庭の問題を他人に話すだけでも嫌なのに、初対面のお二人と、妻の振る舞いについて話し合うなんて、とんでもない。そんな羽目になるなんて、ひどい話です。でももう行き詰まってしまったんです。助けが必要なんです。」「そうですね、グラント・マンロウさん――」 とホームズが話し出すと、依頼人は椅子から飛び上がり、「えっ!」と大声を上げる。「僕の名前をご存じで?」「お名前を伏せておきたいのなら、帽子の裏地に名前を書くのはおやめになるようおすすめします。もしくは、自分の話している相手には、帽子の山の方を見せることです。まったくの話、この友人と私は、数多くの変わった秘密をこの部屋で伺ってきました。そして幸いにも、大勢の人々の悩みを晴らしてまいりました。あなたにも同じようにして差し上げることができるかと存じます。そこでお願いです。貴重なお時間ですから、一刻も早く、事の次第をお話しいただけませんか。」 依頼人は再び額に手をやった。相当気の重いことなのだろう。その身振りと表情のあちこちから、内気で人見知りする男だということがわかる。そして気持ちのどこかに恥ずかしさがあって、自分の傷をできれば見せずにおきたいようだ。



(6)そのときふと、男はぎゅっと両手を組み合わせる。恥も外聞もないと決意の体で語り出した。「こういう次第なんです、ホームズさん。僕は結婚してまして、もう三年になります。そのあいだ、妻と僕はお互いに深く愛し合い、幸せに暮らしていました。よくある新婚夫婦です。二人は似たもの同士で、そっくりです。考えも、言葉も、振る舞いも。ところが先日の月曜以来、突然、ふたりのあいだに壁ができたんです。僕は気づいたんです、妻の人生には、彼女の心には何かある。僕はちっとも知らなかったんです。町ですれ違う女の人のように。ふたりが離れてしまった、そのわけが知りたい。 そうです、先を続ける前にこれだけは念を押しておきたいのですが、ホームズさん、エフィは僕を愛してます。それについては絶対の自信があります。彼女は全身全霊をかけて僕を愛してくれています、まさに、今もっとも。わかります。感じます。議論の余地はありません。男というのは、女が愛しているときはそれだけですぐわかるのです。しかしふたりのあいだに秘密があります。これが晴れるまで、元と同じというわけにはいきません。」「早く次第を聞かせてください、マンロウさん。」とホームズはもどかしそうに言う。「でしたらエフィの過去について知ってることをお話しします。はじめて逢ったとき彼女は未亡人でした。それにしてはずいぶん若くて――二五でした。当時はまだヒーブロンという姓で、若い自分にアメリカに渡ってアトランタという町に住み、そこでヒーブロンという売れっ子弁護士と結婚しました。子どももひとり設けましたが、運悪く土地で黄熱おうねつが突発して、旦那も子どももそれで亡くなりました。旦那の死亡証明書も見たことがあります。それで彼女はアメリカにいるのがつらくなって、ミドルセックス州ピナにいる独り身の叔母のところへ帰ってきたんです。



(7)ついでですが、旦那は不自由しないだけのものを残していって、元本が約四五〇〇ポンドの株式を持っていて、旦那がずいぶん投資したらしく、平均で七分ぶの配当があります。ピナに来て六ヶ月経ったばかりの頃、僕は彼女と出逢いました。ふたりは互いに恋に落ち、数週ののち結婚を致しました。 僕自身はホップの商いをやってますが、七~八〇〇ポンドの収入があるので、自分たちだけでも不自由なく、ノーベリに年八〇ポンドのこじゃれた屋敷を持ってます。小さなところですが割合田舎らしく、それでいて町にも近いんです。すぐ近くには宿が一軒、人家が二軒、あと小屋がひとつ正面の草地の向こうにあるだけで、そのほかは駅に行くまでのあいだ一軒もありません。仕事で決まった時季に町へ行きますが、夏のあいだはそれもなく、そんなふうにふたりは田舎の一軒家で、妻と僕は思う存分、幸せに暮らしていたんです。そうです、この呪わしい事件が始まるまで、ふたりには何の影も差したことはなかったんです。 先を続ける前にこれだけは申し上げねばならないのですが、ふたりが結婚したとき、妻は自分の財産をすべて僕名義にしたんです。僕はむしろ反対でした。だって困ったことになりますよ、僕が事業で失敗したら。でも彼女の意志は強く、押し通されました。さて、六週間ほど前のことです。彼女が僕のところへ来て、『ジャック、』と言うのです。『いつかあなたの名義にしたとき、言ったでしょう。必要なときはいつでもそう言ってくれって。』『ああ、そもそも君のものだからね。』 と私が答えると、彼女はこう言うんです。『じゃあ……一〇〇ポンド欲しいんだけど。』 僕はちょっとためらいました。単に新しい服とか、そんなものが欲しいのかと思ってたんです。で、僕は訊ねました。



(8)『何に使うの?』 すると彼女は『まあ』と言って、冗談っぽく言うのです。『あなたは私の銀行さんなんでしょ。銀行の人は、質問なんてしないのよ。ねっ。』『本当に要るなら、もちろんあげるよ。』と僕は言いました。『そうよ、本当に要るの。』『でも、僕には何に使うのか教えてくれないの?』『いつか、きっとね。でも今はだ~め、ジャック。』 こんなわけで僕は納得するしかなく、まさに初めて、ついにふたりのあいだに秘密が入り込んだその時だったのです。僕は小切手を渡したきり、そんなことはすっかり忘れていました。のちに起こったことと無関係かもしれませんが、言っておいた方がよいと思ったので。 ええと、さきほど僕は、うちからそう遠くないところに小屋があると言いましたね。二軒のあいだにはちょうど野原があるんですが、向こうへ行こうと思うと大きな道に沿ってから脇道に入らないといけません。そこを過ぎたあたりは赤松の小さないい感じの森になっています。僕は好きで、よくそこを散歩します。木々がいつもそばにあると、いいものでしょう? その小屋ですが、この八ヶ月はずっと空き家だったんですが、もったいない物件で、小綺麗な二階建てで、古風な玄関で、周囲には忍冬スイカズラが絡みついていました。僕は何回となく立ち止まっては、これでちょっと気の利いた菜園用の小屋が作れると考えました。すると今週の月曜、夕暮れ時、僕が例によってうろついておりますと、その脇道から何も積んでいない幌付きの荷馬車がやってくるのに出くわしました。そして玄関脇の芝生に、絨毯とかが置いてありました。どうやら誰かがその小屋に越してきたらしいんです。いったん通り過ぎましたが、立ち止まり、よく暇人がやるように、小屋を眺め回しつつ、どんな人が僕らのご近所に来て住むんだろうと想像してみました。




(9)と、そのときふと見たものに、僕ははっとしました。誰かの顔が、上の階の窓から僕をのぞいているんです。その顔がどうこうというわけではないんです、ホームズさん、ただ背筋がぞっとしてしまって、距離も少しあって、特徴も分からなかったのですが、その顔はどこか不自然で、人間でないような、そんな気がして、僕は急いで近寄って、もっと近くで、僕をのぞいている奴を見てやろうと思ったんです。でも走り出すと急に顔は引っ込んで、まるで不意に部屋の闇の中へ引っ張られたみたいでした。この一件について何度も思い返しながら、その印象について詳しく考えようとしました。男の顔だったか女の顔だったのかは分かりません。遠すぎました。でもその色だけははっきり覚えています。血の気のない、死人のような土色。どこかぎこちなく、こわばっていて、気持ち悪いほどに不自然なんです。不安のあまり、僕はその小屋の新しい住人をちょっと見てやろうと心に決めました。近づいて戸を叩きますと、すぐ入口は開いて、のっぽでがりがり、いかつくて怖い面の女が出てきました。「何かご用?」女の言葉は北部訛りでした。「近所に住んでいる者です。向かいの。」と僕はあごを使って家を示しました。「お引っ越しを見掛けたものですから、何かお手伝いできることがあればと思いまして……」「いえ、お願いしたいときはこちらから参ります。」そう言って、目の前で戸をぴりゃりと。ぞんざいな断り方に腹が立ちましたが、そのままうちに帰ってきました。一晩中、何か他のことを考えようとしても、僕の心は窓際のお化けと、失礼なあの女のことに至るのです。お化けのことは妻に何も言わないでおこうと思いました。



(10)些細なことでも気にする性質たちですから。何も自分の受けた不愉快な気持ちをわざわざ彼女に与えなくてもと。でも話したんですよ、寝る前に。例の小屋がふさがったと。妻は返事しませんでした。 私は普段から安眠する方で、夜中は何があっても起きないというのがうちでのお決まりの冗談でした。ところが、その晩に限ってどうしたわけか、昼間の件で少々気が立っていたからか分かりませんが、普段のようにぐっすりと寝付けなかったんです。うとうとしていると、ぼんやりと何かが部屋に入ってきたような気がしました。そしてだんだんと分かってきたのは、服を着て、外套を引っかけ、帽子をかぶっている妻の姿です。口からむにゃむにゃと、驚きやら小言やらが寝言みたいな形で出てしまったのですが、その瞬間、ふと目をうっすら開けて蝋燭の光に照られている彼女の顔を見て、僕はびっくりして息を呑みました。あんな顔の彼女は、今まで見たことがありません――とても彼女とは思えません。真っ青で息を切らし、寝台の方をこっそり窺いながら、外套を押さえて、僕が物音で起きてしまったのかを確かめました。やがてぐっすり寝込んでいるものと思い込んで、そっと部屋から滑り出していってしまいました。そのあとすぐ、何かカチャリという音を耳にしたのですが、どうも正面玄関の蝶番(ちょうつがい)のようで。僕は寝台のふちに座って、木枠をなぐってみて夢じゃないかどうか確かめました。それから枕元の時計を手に取りました。明け方の三時です。いったい妻はこんな明け方の三時に田舎道へ出かけてどうするのでしょう? 座ったまま二十分間ほど、あれやこれやと考えてみて、それらしいわけを探してみました。考えるほど頭がこんがらがってしまいます。



(11)そうして頭を悩ませているうちに、また戸がゆっくりと静かに閉じられる音がして、階段を上がってくる妻の足音が。『どこへ行っていたんだい、エフィ?』彼女が入ってきたとき訊ねました。 妻はひどくびっくりして、何かひゃっという叫び声を上げました。その叫びよう、驚きようで、僕の心はざわざわと騒ぎ始めるのです。何か曰くありげでした。妻はいつも何でもしゃべる開けっ放しの性格で、それだけにぞくぞくっとするんです。あの彼女が、こっそり自分の部屋へ入ろうとして、旦那に声をかけられると声をあげて怯えるだなんて。『起きてたの、ジャック?』と苦笑いして、『夜中は起きないんじゃなかったの。』『どこに行ってたの?』と、僕は少し険しい声で訊ねてみました。『驚かせちゃったみたいね。』と言う彼女を見ると、手の指はぶるぶる震えて、外套の釦ボタンを外すこともできません。『えっとね、あたしもこんなことしたの初めて。実は、そう、何か息苦しくなっちゃって、絶対外の空気吸わなくちゃ、って思ったの。ほんっとに、外に出ないともう死んじゃう、って感じだったんだから。玄関のところでぼけっと立って、でももう大丈夫。』 そんな話でしたか、そのあいだ、ただの一度も僕の方を見ようとせず、声も普段の調子とはまったく違いました。はっきり分かりました。彼女は嘘をついている。僕は何も返事をせずに、壁の方に顔を向けて。心が裂けそうで、中にはもう毒々しい不信感、猜疑心が何千何百といっぱいで。いったい何を、妻は僕に隠しているのか。妙な外出のあいだ、どこにいたのか。はっきりするまでとても落ち着けません。でももう一度訊く勇気もありません。嘘であれ、一度説明を聞いた後でしたので。それからは朝になるまで、僕は悶々とのたうち回り、ああでもないこうでもない、どれも解答らしいものにはたどり着けません。



(12)翌日は中心区シティに行くことになってましたが、心が千々に乱れ、仕事のことなんてもう手に付きません。また妻も落ち着きがないみたいで、わかるんです、こちらを窺うような目つきを、ちら、ちらっと。僕が昨日の言い訳を信じてないということがばれているようで。そして手を打たねばと考えているようで。――僕たちは朝食のあいだ一言も口をきかず、済むとすぐ、ひとり散歩に出かけました。朝の澄んだ空気のなかで、昨夜のことを考え直そうと。 水晶宮のあたりまで歩いていって、一時間ほど構内で時間をつぶし、ノーベリに帰ってきたのは一時でした。たまたま例の小屋の前を通ったので、しばらく立ち止まって、窓を見上げました。昨日、僕をじっと見ていた顔お化けをもう一度見られるかも、と思ったんです。立っていると、まさにびっくり、ホームズさん、ふいに戸が開いて、妻が出てきたんです。 驚きのあまり、言葉を失いました。でも僕の驚きなんてたいしたことは。目のあったときの、妻の顔ほどでは。妻はとっさに引っ込もうとする素振りを見せましたが、逃げも隠れも出来ないと観念して、こっちへ来ました。顔は真っ青で、目は怯えて、でもちぐはぐに、口元は微笑んでるんです。『そう、ジャック、今度いらっしゃったお隣さんへ、何かお手伝いできませんかって、ちょっとうかがってたとこなの。あたしの顔に何かついてる、ジャック? 何怒ってるの?』『そうか、昨日の夜はここだったんだな。』『何のこと?』と声がうわずります。『ここに来てた。絶対にそうだ。誰なんだ、一時間も会ってた奴らは?』『ここに来たのは初めてだけど。』『嘘と分かってて、どうしてそういうことを言うんだ?』と声を張り上げました。



(13)『声だっていつもとまるで違う。僕は君に隠し事なんてひとつだってない。この小屋に入らなきゃ。隅の隅まで調べなきゃ。』『やめて、ジャック、お願い!』その声は我も忘れて、息も切れ切れでした。そして僕が戸に近寄ると、袖口にしがみついて、夢中で引っ張り戻そうとするのです。『本当にお願いだからやめて、ジャック!』と叫ぶのです。『約束するから、いつかきっと、ちゃんと話すから、でも、今ここに入ったら、絶対不幸になるの。』そこで僕は彼女を振り放そうとしましたが、すがりついて、我を忘れてお願いするんです。『嘘じゃないの、ジャック!』と大声で。『一生のお願い、あとで悲しむようなことは絶対やめて。わかってよ、内緒にするのは、あなたのためなの。あたしたちふたりの人生がかかってる。一緒に帰れば、うまく行くの。無理矢理中に入ったりなんかしたら、あたしたちはもうおしまいよ。』それはもう、真剣で、必死で。そんなふうに言うもんですから、戸の前で、どうしたものかと立ち止まりました。やがて僕は言いました。『信じるけど、ひとつ条件がある。たったひとつだけ。こんな真似は、今日この時間で終わりにするんだ。この件については、秘密でも何でも勝手にしてくれ。だけど、約束してくれないか、もう夜には二度と出かけないと。それともう二度と内緒事はごめんだ。これまでのことは忘れるよ。だから、これからもう二度としないと約束してくれ。』『信じてくれると思ってた。』と彼女は言って、ほっと大きなため息をつきました。『あなたの、言う通りに。行きましょ――ねえ、うちに帰りましょう。』 僕の袖をつかんだまま、彼女はその小屋から僕を連れて離れました。少し行ってから振り返ると、例の土色の顔が、二階の窓から僕たちを見つめているのです。



(14)あれと妻のあいだにはどんなつながりが。いや、昨日見たあのがさつな女は彼女とどういう関係なのか。不思議な謎です。でもわかるんです、また個々が落ち着くためには、絶対、これを解かなきゃって。それから二日のあいだ、僕はうちにおりました。そして妻は、ふたりの約束を忠実に守っているようで、知ってる範囲では、うちの外へは出ようとしませんでした。でも二日目のこと、がんとした証拠をつかんだのです、かたく約束をしたにもかかわらず、彼女はその秘密の何かにしばられていて、夫への義務にも背いてしまったんです。 その日、僕は町へ出かけていたのですが、いつも乗る三時三六分の代わりに、二時四〇分の汽車で帰ってきたのです。そしてうちへ入ると、お手伝いがびっくりした顔をして、広間に飛び出してきました。『妻はどこなんだ?』と僕は訊ねました。『散歩にお出かけになったようで。』と、手伝いの女が答えました。僕の心はみるみる猜疑心でいっぱいになり、二階に駆け上がって、彼女がうちにいないか確かめに行きました。その途中、ふと窓から表に目をやると、つい先ほど僕と口をきいていたお手伝いが、野原を横切って例の小屋の方へ走っていくのです。これでもう何もかもがはっきり見えてきました。妻はあそこに行っていて、僕が帰りでもしたら迎えに来るよう言いつけてあったのです。僕は頭に血が上って、駆け下りるや外を突っ切って走っていきました。きれいさっぱり決着をつけようと思っていました。――僕は妻とお手伝いが例の脇道を急いで戻ってくるのに出会いましたが、立ち止まって話をするつもりもありません。あの小屋のなかに秘密があり、それが僕の人生に影を投げかけている。



(15)誓いました、どんなものであろうと、もう放っておくことはできない、と。その小屋に着くと、戸を叩きもせず、いきなり把手を回して中に飛びこみました。一階はまったく静かでひっそりしていました。台所では薬缶の沸騰する音がし、大きな黒猫が籠のなかで背中を丸めているだけで、以前の女の影はどこにも見えませんでした。別の部屋に駆け込んでみましたが、同じように誰もいません。そこで僕は二階に上ってみましたが、ひとけのない空っぽの部屋がふたつあるだけで、家じゅうどこにも、人っ子ひとりいません。家具類や絵もごくありふれた普通のものばかりで、ただ顔お化けの窓がある部屋だけは別でした。居心地よく飾られた部屋で、加えて疑念が一気に強まったのは、見ると、炉棚の上に妻の全身像の写真が飾ってあったからです。その写真というのは、たった三ヶ月前に僕の希望で撮ってもらったものでした。 かなりの時間、その小屋にいたと思います。本当に無人かどうか確かめたんです。やがてそこを出たのですが、今まで経験したことがないくらい、重い気持ちになりました。帰宅すると、妻が玄関の広間に出てきました。でも僕はもう気分も悪いし腹も立つやらで、物も言わずにそのまま書斎へ引っ込みました。でも彼女は後を追ってきて、戸を閉める前に入り込んできたのです。『ごめんなさい、約束を破って。ジャック。』と彼女は言いました。『でも事情さえわかれば、きっと許してくれると思うの。』『じゃあ話してくれ、みんな。』と僕は言いました。『無理、ジャック、無理なの。』と彼女は叫びます。『話すんだ、誰があの小屋に住んでいるのか、誰があの写真をもらったのか、でなきゃ、ふたりの絆なんて、いったい何なんだ。』僕はそう言うと、彼女から逃げてうちを出てしまいました。



(16)それが昨日のことなんです、ホームズさん。それ以来彼女に会ってませんし、この奇妙な事件についてもこれ以上は何も分かりません。これはふたりのあいだに差した初めての影です。もう頭がこんがらがって、何をすればいちばんいいのか分からないのです。すると今朝のことでした、ふと僕は思いついたんです。あなたなら相談に乗ってくださると。そこでここへ飛んできて、こうしてあなたに何もかも身を委ねている次第です。まだはっきりしない点がありましたら、どうぞ訊いてください。けれど、いずれにせよ早く、どうしたらいいか、教えてください。この不幸にもう耐えられないんです。」 ホームズと私は、この途方もない話をのめり込みながら聞いていた。男はひどく興奮していたので、早口で話もあちこちに飛んでいたが、我が友人はしばらく何も言わず、じっと座っていた。額に手を当てて、考えに耽っている。「ひとつ。」とついに口を開く。「窓に見たのは、人間の顔だと断言できますか?」「見たときはいつも、そこそこの距離がありましたから、言い切ることはできません。」「ですが不気味な印象を受けたとおっしゃる。」「顔色が不自然で、表情が変にこわばっているんです。近づくと、ぱっと消えてしまって。」「それは御前さまが一〇〇ポンドお願いしてから、どれくらい後になりますか?」「二ヶ月ばかり。」「先のご主人の写真を見たことは?」「いえ、死んですぐ、アトランタに大きな火事があって、紙の類はみんな焼けてしまったそうです。」「それでも死亡証明書は残ってます。そちらをご覧には?」「ええ。火事のあと、複本をもらったと。」「奥さんのアメリカ時代の知人にお会いになったことは?」「いえ。」「奥さんがまたアメリカへ行くという話は?」「ないです。」



(17)「では向こうから手紙は?」「ないです。」「どうも。ではこの件について、少し考えを巡らせるとしましょう。その小屋がそのまま空き家だとすると、少々厄介です。しかしその反対に、そうであってほしいのですが、その住人があなたが来ると知らされ、昨日は踏み込む前に出て行ったのだとすれば、今はもう戻っているので、解決も楽になるでしょう。私から何か言えるとすれば、ノーベリへお帰りになって、もう一度その小屋の窓を調べてください。もし誰か中にいると確信できるようでしたら、自分で中へ入らずに、僕らに電報を打つこと。受け取って一時間以内に現場へ行き、たちまち何もかも明らかにできると存じます。」「まだ空き家のままなら?」「その場合は明日参りますので、そのときにご相談を。さようなら、何よりも落ち着くことです。確たる証拠をつかむまでは。 よくないことが起こりそうだ、ワトソン。」グラント・マンロウ氏を戸のところまで見送り、戻ってくると我が友人はそのように言った。「君はどう思うね?」「悪事の匂いがする。」と私は答えた。「そう。裏で脅迫されている。間違いということもままあろうが。」「すると脅しの張本人は誰だろう?」「うむ、あの小屋の唯一心地よいという部屋に住み、暖炉の上に女の写真を置いている人物に相違ない。間違いない、ワトソン、真に気をつけるべきは、あの窓の土色の顔だ。僕が真実を見逃すことはあるまいよ。」「策はあるのかい?」「ああ、一応は。僕の読みが外れるなど、驚き以外の何ものでもない。女の前の夫がその小屋にいる。」「なぜそう思うのかね?」「女のたいそうな懸念を他にどう説明できよう? 二番目の夫を入れまいとしたのだ。事実は、僕の読みではこうなる。女はアメリカで結婚した。



(18)ところがその夫の性格に、どこか気に入らないところがあるとわかってきた。あるいは、言ってよければ、何か人の嫌う病にかかった、たとえばハンセン病とか痴愚になったとか。女はとうとう男から逃げ出し、イングランドへ戻って名を変え、そして新たな人生を望む通りにやり直した。結婚は三年続き、自分の身元が確かだと信じ込ませた。なお別人の死亡証明書を夫に見せ、その名前を騙った。ところが唐突に女の居場所が元の夫にばれてしまった。あるいはこうも考えられる。その病人のそばに張り付いた女などが見つけた。そいつらはその妻とやらに手紙を送り、そっちへ行ってばらすぞ、と脅した。女は夫に一〇〇ポンドを頼んで、金でそいつらを追い払おうとした。にもかかわらずやつらはやってきて、今の夫が女に、小屋に人が越してきたと言ったとき、そいつらが追ってきたのだと思い当たった。女は夫の寝入るのを待って、それから外へ駆け出して、どうかそっとしておいてくれと頼みに言ったんだ。だがうまく行かず、翌朝また出かけたところ、小屋を出たときに今の夫に鉢合わせた。あの男が僕らに話した通りだ。二度とそこへ行かないと今の夫に約束したが、二日ののち、この恐ろしい隣人どもを追い払いたい一心で、別の案を考えた。例の写真を持ち出したのだ。おそらく自分の意志なのだろう。こうして会っているあいだにお手伝いが飛び込んできて、今の夫が帰宅してきたとつげ、女もこの小屋にまっすぐ今の夫がやってくると分かったので、住人を裏口から急いで出して、おそらく、すぐそばにあるとかいう赤松の林に隠れさせた。かくして、男が見たのはがらんどうの小屋だったというわけだ。もし夕方、男がもう一度調べに行ってまだそのままなら、これはもうめいっぱい驚くしかない。この説はどうだい?」



(19)「憶測に過ぎんよ。」「しかし少なくとも事実は押さえられている。まだ押さえられていない新たな事実が分かってくれば、またそのときに考え直せばよいだけのこと。今できることは何もない。ノーベリの依頼人からの知らせを待とう。」 しかし待ち時間はそれほど長くはなかった。届いたのは、ちょうどお茶を飲み終えたときだった。コヤニ マダ ヒトケ アリ。カオ マドニ マタ ミユ。7ジノ キシャハ イカガ。ツクマデ ウゴカズ。 汽車から降りると、依頼人は乗り場で待っていた。駅の灯りに照らされ、その青ざめた顔が動揺のあまり震えているのが分かる。「あいつら、まだいますよ、ホームズさん。」依頼人は我が友人の袖を強くつかむ。「行ったとき小屋に明かりが。もうこれを最後にして片づけましょう。」「どうするおつもりですか?」とホームズは暗い並木道を歩きながら言った。「中に押し入って、住んでるのは誰か突き止めるんです。おふたりには、その場の証人になってほしいんです。」「御前さまの忠告を無視してでもそうなさるとお決めに? 秘密を暴かない方がよいとおっしゃいましたが。」「はい、決めたんです。」「ええ、無理もありません。何が分かるにせよ、不安が続くよりは。すぐ向かうべきです。もちろん、法的にはどうしようもなく有罪ではありますが、やる意味はあるかと。」 深い闇の晩だった。ぱらぱらと雨が降り始め、我々は大きな道から狭い脇道へ曲がる。深い轍の跡と、両脇に垣根があった。グラント・マンロウ氏は、せかせかと先へ進み、我々もよろめきつつ何とかあとを追った。「あそこにうちの明かりが見えます。」と、依頼人は木々のあいだに見える光源を指さす。「それから目指す小屋はここです。」


(20)そう言いながら脇道からひとつ曲がると、すぐそばに建物が現れた。黄色の筋が暗い前庭に投げかけられていることから、入口がちゃんと閉まっていないことが窺える。二階の窓のひとつに、あかあかと灯りがついている。見上げると、ひとつの黒い影がそこを横切る。「あいつがいる!」とグラント・マンロウが叫ぶ。「ほら、あそこに誰かいるでしょう。来てください、もう何もかも分かりますよ。」 入口に近寄ると、ふいに物陰から女が現れ、ランプの黄金色の光を背にして立った。顔は暗くて見えなかったが、何か哀願するらしく、両手を前に投げ出している。「お願いだからやめて、ジャック。」と女は声をあげた。「そんな気がしたの、今晩ここに来るって。よく考えて、ねえ! 信じてよ、こんなことしたって、悲しくなるだけだから。」「信じられるのはここまでだよ、エフィ。」と依頼人は突き放す。「触らないでくれ! 構ってる暇はない。この人たちと、この事件をひと思いに片づけるんだ!」依頼人は妻を横へ押しやり、我々もあとに続いた。戸を開け放すと、中年の女が前に飛び出してきて、通り道をふさごうとしたが、依頼人は女を押し戻し、みんなしてたちまち階段を駆け上がった。グラント・マンロウは、二階の明かりのついた部屋に飛び込んだので、我々も続いて中に入った。隅の方に机に寄りかかって誰か座っていた。女の子のように見えたが、我々が入るなり顔を向こうにやってしまった。けれどもその子が赤いスモックを着て、長い白手袋をはめていることは分かった。が、やがて我々の方を振り向いたとき、驚きと恐れの入り交じる声が私の口をついて出た。その子が我々に向けたその顔は、土色で不気味も不気味、なおかつ表情という表情がまったくなかったのだ。しかしほどなく謎は解かれた。



(21)ホームズは笑いながら、その子の耳の後ろに手を回すと、その顔から面をはぎ取った。すると石炭のように真っ黒な顔の女の子が、我々の驚いた顔を見て、面白そうに白い歯をきらきらさせるのである。私も思わず吹き出してしまった。その子があまりに楽しそうなのでつられたのだ。しかし、グラント・マンロウは手で自分ののどをつかんだまま立ちつくしている。「そんな!」と依頼人は声をあげる。「これは、どういうことなんだ?」「わけはあたしから言うから。」女性は部屋に滑り込んでいた。凛として、決意に満ちた表情だ。「心に決めていたのに、とうとう押し切られて話すことになっちゃった。話すからには、ちゃんとする。夫はアトランタで死んじゃった。子どもは生き残ったの。」「子ども?」 その女性は胸元から銀のロケットを引き出した。「中は見たこと、ないよね。」「開かないと思ってた。」 女性が発条バネを押すと、蓋がぱかりと開く。すると中から、見事なまでに知的で端整な顔立ちをした男の写真が現れた。だが紛れもなく、アフリカ系の特徴がそこかしこに見て取れる。「この人が、アトランタのジョン・ヒーブロン。」とその女性は言う。「この地上の誰よりも気高い人だった。彼と結婚するため、あたしは自分の家と縁を切ったんだけど、彼が生きているあいだ、一瞬でも一度でもそれを後悔したことはなかった。不幸なのは、このひとり娘が、あたしよりも彼の方に似てしまったこと。よくあるのかな、こういう結婚には。かわいいルーシィ。父親よりもずっと肌が黒い。でも黒だろうと白だろうと、この子はあたしのちっちゃくてかわいい娘で、お母さんの宝物。」その言葉に、小さな女の子はとことこと駆け出し、その女性の服に頬をすり寄せる。



(22)「この子をアメリカに残してきたのは、」と女性は話を続けて、「ただこの子の健康がすぐれなくて、環境の変化が体に障っちゃいけないと思ったからなの。この子の世話は前から仕えてもらって信用のできるスコットランドの女性に任せて。この子を捨てようなんて、夢にも思ったことない。でも偶然あなたがあたしの前に現れて、ジャック、あなたを愛するようになったとき、子どものことを話すのが怖くなって。本当にごめんなさい、あなたがいなくなるのが怖くて、しゃべる勇気が持てなかったの。あなたと子どものどちらかを選ばなきゃならなくて、あたしの弱さが、かわいい実の娘から目をそらさせたの。三年のあいだ、この子のことをひた隠しにしたけど、いつも世話係からすくすく育ってるとは聞いてた。けれど、とうとう我慢できなくなって、ひと目この子に逢いたい、抗おうとしてもやっぱりダメで。危ないことだと分かってたけど、この子を呼び寄せようと決めたの。数週間のあいだでいいから。お世話の方に一〇〇ポンドを送って、この小屋のことを教えて、何の関係もないような振りをしてここに来てもらった。さらに念には念を入れて、日中はこの子を家から外へ出さないよう、このちっちゃな顔と手を覆って、窓からこの子を見ても、黒い子が近所にいるという噂が立たないよう言いつけたの。こんな慎重にならない方が、よかったのかもね。でも、どうかしてたの、ほんとのことを知られたくない一心で。 あの小屋に誰か来たって、初めて教えてくれたのは、あなただった。朝まで待とうと思ったんだけど、気になって眠れなくて。だからとうとう抜け出したの。絶対起きないものなんだって思ってたからね。



(23)でもあなたは見てて、それがすれ違いの始まりで。次の日、秘密をあなたにされるがままつかまれたんだけど、気を遣ってくれて、問い詰めるのをやめてくれた。その三日あとのときは、世話係とこの子を裏から何とか逃がして、あなたが表から飛び込んでくるのとぎりぎりだった。――でも、もう今度は、ついに全部知られちゃった。ねえ、教えて。これからどうなるの? この子と、あたし。」その女性は両手を握り合わせて、返事を待った。 長い長い二分間だった。そしてグラント・マンロウ氏は沈黙を破った。答えを出したその瞬間、それは今でも思い出したい光景のひとつだ。彼はそのかわいい子を抱き上げると、口づけをした。それから子どもを抱いたまま、もう一方の手を妻の方に差し出しながら、戸口の方へ向き直った。「うちに帰って、もっと楽にして話し合おう。」と彼は言った。「僕はあんまりいい男じゃない、エフィ。でも、君が考えているより、もうちょっとだけ、僕のことを信じてくれていいよ。」 ホームズと私はふたりのあとから脇道を引き返した。出きったところで、我が友人は私の袖を引っ張る。「思うに。」とホームズ。「ノーベリよりもロンドンにいた方がよさそうだ。」ホームズはこの件について他に一言もないまま夜更けになった。火のついた蝋燭を手にして、自分の寝室へ下がる間際に、「ワトソン。」とホームズは私に声をかけた。「今後もし、僕が自分の力をいささか過信していたり、事件に必要なだけの労力をかけなかったりしていて、君がそれに気づいたなら、どうか僕に『ノーベリ』と耳打ちしてくれたまえ。そうすれば、この上なく恩に着る。」


アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle
三上於菟吉訳 大久保ゆう改訳

土色の顔画(前半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「土色の顔」の前半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。23の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎回灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)公表せんとして、このような短編を膨大な事件の山から選んで書く際の話だ。そういった事件では、我が友人の類稀なる才能のために、私は否応なく不思議な舞台の観客となり、時によってはその登場人物となってしまう。そのせいで書く際には我知らず失敗談よりも成功談が多くなる。だが何も彼の名声のためではない――正直なところ、思案に余るような場合こそ、彼の力とその器の大きさに賞賛を送りたくなるのだが――まともな理由としてはやはり、彼が失敗するときは誰であろうとうまくいかず、話は永遠に結末へ至らぬままというのが大半であるからだ。しかしながら、時として、推理は間違っているのに、それでも真相が明らかになるということがたまにある。この種の事件は六つほど書き留めてあるが、『第二の血痕』とこれからお話しする物語のふたつが、もっとも興味深い一面を見せてくれる シャーロック・ホームズという男は、運動のための運動は滅多にしなかった。だが、はげしい肉体労働に彼ほど耐えうる人間はほとんどなく、また確かに同じ重量級では、私の見たうちでも拳闘家(ボクサー)として一流の部類に入るだろう。目的もなく体を動かすのは力の浪費であるとし、発揮するのは職業上役に立つという狙いがあるとき以外ほとんどない。それでいて疲れをまったく知らない。本来なら普段の鍛練を積まねばならぬはずなのだが、日々の食事もきわめて質素で、生活ぶりも厳格に過ぎるほど慎ましい。時折コカインを飲む以外の悪癖はなく、その薬物とて、事件が冴えなかったり、新聞に惹かれるものがなかったりして、日々に変化がないときに頼るに過ぎない。早春のある日、ホームズはのんびりとした気持ちで散歩に出、私も同行してリージェント・パークをぶらついた。 



(2)楡(にれ)の木から緑の若芽が吹き出しかけ、栗の木のぬめりとする枝先からはちょうど五つに重なる葉をつけ始めたところだった。二時間近く一緒に歩き回ったが、ろくに会話もしなかった。お互い勝手を知り合った仲だから、この方がちょうどいい。五時になろうという頃、我々は再びベイカー街へ戻ってきた。「すいません。」と戸を開けたとき小間使いの少年が言う。「お留守のあいだに男のお客さまがありました。」 ホームズはしまったというふうに私に目をやる。「これだから午後の散歩は。」とこぼし、「もうその人は帰ったのか?」「はい。」「中でお待ちするようにとは?」「いえ、中へお通ししたんです。」「どのくらい待っていた?」「三十分ほどです。とてもせっかちな方で、ここにいらっしゃるあいだ始終、歩き回ったり足踏みしておられて。僕は部屋の外でお待ちしていたのですが、それでもわかるくらいで。ですがとうとう廊下にお出になって、『もう、帰ってこないじゃないか』と、そうその方はおっしゃいました。『もうほんの少しだけお待ちいただけますか』と申し上げますと、その方は『じゃあ外で待ちます。ここじゃ息が詰まりそうで。じきに戻ります。』とおっしゃっていきなりお出になり、いろいろ申し上げたのですが、お引き留めできませんでした。」「いやいや、それで十分。」とホームズは言って、我々は部屋の中へ入った。「実に待ち遠しいね、まったく。ワトソン、僕は事件が欲しくてたまらなかった。どうも、その男が気を揉んでいたことからも、大事のようだ。おや! あの机にあるパイプ、君のではない。男の忘れ物か。よく使い込んだブライアで、軸が少し長い。愛煙家のあいだで琥珀と呼んでいるものだ。本物の琥珀の吸い口など、そういくつもロンドンにあるものかね。中に蠅がいるのがその証だと思っている輩もいる。



(3)ふん、いっぱしの商売人ともなれば、琥珀のまがい物に偽物の蠅を入れることくらいする。さておき、その男はよほど気が動転していたに相違ない。大切なはずのパイプを置き忘れるほどだ。」「どうすれば、大切なパイプという結論が出るんだね?」と私は訊いた。「何、僕の見積もりでは、そのパイプの元の値段は七から六ペンス。ところがほら、二度直しが入っている。一度は木の軸を、一度は琥珀のところを。いずれの直しもご覧の通り銀が巻いてある。パイプの値はもとより遥かに高くなっているはず。人というものは、自分から手当をしてやったパイプの方が、同じ額で買った同じものよりもずっと大切にする。」「次の推理は?」と私は先を促す。ホームズがそのパイプを手でいじくりながら、彼独特の思いに沈んだ目つきでじっと見ていたからだ。ホームズはパイプをつまみ上げ、細長い食指でその上を軽く叩く。ちょうど何かの骨について講義している大学教授がよくやるように。「パイプというのものは、時として意外なほど人の興味を惹く。」と言う。「これほどひとりひとりの個性が表れるものはない。まあ、懐中時計と靴ひもを抜いての話だが、今回はそれほど目立ったことも大事なことも教えてくれそうにない。この持ち主について確かなのは、体格の立派な男で左利き、歯は丈夫だが手癖が悪く、あとあえて節約生活を送る必要はないということだ。」我が友人の今の言葉は、声こそさりげなかったが、その目は私に向けられ、推理についてくるかどうか窺っているのがわかった。「男が裕福というのは、七シリングのパイプで吸うからかね?」と私。「銘柄はグロウヴナ・ミクスチュア、一オンス八ペンス。」とホームズは答え、小突いて手のひらに少量出してみせる。


(4)「その半値でも葉としては贅沢だから、あえて倹約する必要がない。」「なら他の点については?」「この男、パイプの火をランプやガス灯でつける癖がある。ほら、片側がすっかり焦げているだろう? もちろんマッチではこうはならない。マッチの火をパイプの縁にあてておく男などどこにいる。だがランプで火をつけるとあれば、どうやっても火皿を焦がしてしまう。しかも焦げているのはみな右側。そこでこの男が左利きだと推察した。君もパイプをランプへ持っていけば、ほら右利きなら自然と左側が火に当たるだろう? 反対の手でもできなくはないが、ぎくしゃくする。これを始終やっていた。それから琥珀のところを噛みつぶしている。それをするには、筋肉も力もあって、歯も丈夫でなくてはならぬ。さて、間違いでなければ、その人物が階段を上っている。ならばこのパイプよりも面白い何かが研究できよう。」 ほどなくして、部屋の入口が開き、背の高い若者が入ってきた。男は灰色のダーク・スーツを無難に着こなし、手には鳶色の中折帽を持っていた。私は三十くらいと見当をつけたが、実際はもういくつか上だったらしい。「すいません。」と男はまごつきつつも言う。「戸を叩いた方がいいとわかっていたんですが、ええ、わかってます叩かなきゃいけないんです。その、ちょっと気が動転してて、だから、今のことはそう考えてください。」男は眩暈がするというふうに手を額にかざし、座るというより倒れるといった調子で椅子に身を預けた。「見たところ、二晩ほどお休みになってませんね。」ホームズがいつものようにうち解けた調子で語りかける。「神経にこたえるでしょう。仕事、ましてや遊びなんかよりも。僕にできることがあれば、何なりと。」



(5)「相談に乗ってください、もうどうしてよいやら、僕の人生がめちゃくちゃになりそうなんです。」「僕を諮問探偵としてお雇いに?」「それ以上に、考えを伺いたいんです、賢いあなたに――道理を知るあなたに。これからどうすればいいのか知りたいんです。あなたなら絶対に出来ると思うんです。」 男は一気に言葉をまくし立てた。本人にとってはしゃべることすらつらく、もう気持ちだけで何とか持ちこたえているというふうに私には思えた。「微妙な問題なんです。」と男は言う。「誰だって、家庭の問題を他人に話すだけでも嫌なのに、初対面のお二人と、妻の振る舞いについて話し合うなんて、とんでもない。そんな羽目になるなんて、ひどい話です。でももう行き詰まってしまったんです。助けが必要なんです。」「そうですね、グラント・マンロウさん――」 とホームズが話し出すと、依頼人は椅子から飛び上がり、「えっ!」と大声を上げる。「僕の名前をご存じで?」「お名前を伏せておきたいのなら、帽子の裏地に名前を書くのはおやめになるようおすすめします。もしくは、自分の話している相手には、帽子の山の方を見せることです。まったくの話、この友人と私は、数多くの変わった秘密をこの部屋で伺ってきました。そして幸いにも、大勢の人々の悩みを晴らしてまいりました。あなたにも同じようにして差し上げることができるかと存じます。そこでお願いです。貴重なお時間ですから、一刻も早く、事の次第をお話しいただけませんか。」 依頼人は再び額に手をやった。相当気の重いことなのだろう。その身振りと表情のあちこちから、内気で人見知りする男だということがわかる。そして気持ちのどこかに恥ずかしさがあって、自分の傷をできれば見せずにおきたいようだ。



(6)そのときふと、男はぎゅっと両手を組み合わせる。恥も外聞もないと決意の体で語り出した。「こういう次第なんです、ホームズさん。僕は結婚してまして、もう三年になります。そのあいだ、妻と僕はお互いに深く愛し合い、幸せに暮らしていました。よくある新婚夫婦です。二人は似たもの同士で、そっくりです。考えも、言葉も、振る舞いも。ところが先日の月曜以来、突然、ふたりのあいだに壁ができたんです。僕は気づいたんです、妻の人生には、彼女の心には何かある。僕はちっとも知らなかったんです。町ですれ違う女の人のように。ふたりが離れてしまった、そのわけが知りたい。 そうです、先を続ける前にこれだけは念を押しておきたいのですが、ホームズさん、エフィは僕を愛してます。それについては絶対の自信があります。彼女は全身全霊をかけて僕を愛してくれています、まさに、今もっとも。わかります。感じます。議論の余地はありません。男というのは、女が愛しているときはそれだけですぐわかるのです。しかしふたりのあいだに秘密があります。これが晴れるまで、元と同じというわけにはいきません。」「早く次第を聞かせてください、マンロウさん。」とホームズはもどかしそうに言う。「でしたらエフィの過去について知ってることをお話しします。はじめて逢ったとき彼女は未亡人でした。それにしてはずいぶん若くて――二五でした。当時はまだヒーブロンという姓で、若い自分にアメリカに渡ってアトランタという町に住み、そこでヒーブロンという売れっ子弁護士と結婚しました。子どももひとり設けましたが、運悪く土地で黄熱おうねつが突発して、旦那も子どももそれで亡くなりました。旦那の死亡証明書も見たことがあります。それで彼女はアメリカにいるのがつらくなって、ミドルセックス州ピナにいる独り身の叔母のところへ帰ってきたんです。



(7)ついでですが、旦那は不自由しないだけのものを残していって、元本が約四五〇〇ポンドの株式を持っていて、旦那がずいぶん投資したらしく、平均で七分ぶの配当があります。ピナに来て六ヶ月経ったばかりの頃、僕は彼女と出逢いました。ふたりは互いに恋に落ち、数週ののち結婚を致しました。 僕自身はホップの商いをやってますが、七~八〇〇ポンドの収入があるので、自分たちだけでも不自由なく、ノーベリに年八〇ポンドのこじゃれた屋敷を持ってます。小さなところですが割合田舎らしく、それでいて町にも近いんです。すぐ近くには宿が一軒、人家が二軒、あと小屋がひとつ正面の草地の向こうにあるだけで、そのほかは駅に行くまでのあいだ一軒もありません。仕事で決まった時季に町へ行きますが、夏のあいだはそれもなく、そんなふうにふたりは田舎の一軒家で、妻と僕は思う存分、幸せに暮らしていたんです。そうです、この呪わしい事件が始まるまで、ふたりには何の影も差したことはなかったんです。 先を続ける前にこれだけは申し上げねばならないのですが、ふたりが結婚したとき、妻は自分の財産をすべて僕名義にしたんです。僕はむしろ反対でした。だって困ったことになりますよ、僕が事業で失敗したら。でも彼女の意志は強く、押し通されました。さて、六週間ほど前のことです。彼女が僕のところへ来て、『ジャック、』と言うのです。『いつかあなたの名義にしたとき、言ったでしょう。必要なときはいつでもそう言ってくれって。』『ああ、そもそも君のものだからね。』 と私が答えると、彼女はこう言うんです。『じゃあ……一〇〇ポンド欲しいんだけど。』 僕はちょっとためらいました。単に新しい服とか、そんなものが欲しいのかと思ってたんです。で、僕は訊ねました。



(8)『何に使うの?』 すると彼女は『まあ』と言って、冗談っぽく言うのです。『あなたは私の銀行さんなんでしょ。銀行の人は、質問なんてしないのよ。ねっ。』『本当に要るなら、もちろんあげるよ。』と僕は言いました。『そうよ、本当に要るの。』『でも、僕には何に使うのか教えてくれないの?』『いつか、きっとね。でも今はだ~め、ジャック。』 こんなわけで僕は納得するしかなく、まさに初めて、ついにふたりのあいだに秘密が入り込んだその時だったのです。僕は小切手を渡したきり、そんなことはすっかり忘れていました。のちに起こったことと無関係かもしれませんが、言っておいた方がよいと思ったので。 ええと、さきほど僕は、うちからそう遠くないところに小屋があると言いましたね。二軒のあいだにはちょうど野原があるんですが、向こうへ行こうと思うと大きな道に沿ってから脇道に入らないといけません。そこを過ぎたあたりは赤松の小さないい感じの森になっています。僕は好きで、よくそこを散歩します。木々がいつもそばにあると、いいものでしょう? その小屋ですが、この八ヶ月はずっと空き家だったんですが、もったいない物件で、小綺麗な二階建てで、古風な玄関で、周囲には忍冬スイカズラが絡みついていました。僕は何回となく立ち止まっては、これでちょっと気の利いた菜園用の小屋が作れると考えました。すると今週の月曜、夕暮れ時、僕が例によってうろついておりますと、その脇道から何も積んでいない幌付きの荷馬車がやってくるのに出くわしました。そして玄関脇の芝生に、絨毯とかが置いてありました。どうやら誰かがその小屋に越してきたらしいんです。いったん通り過ぎましたが、立ち止まり、よく暇人がやるように、小屋を眺め回しつつ、どんな人が僕らのご近所に来て住むんだろうと想像してみました。




(9)と、そのときふと見たものに、僕ははっとしました。誰かの顔が、上の階の窓から僕をのぞいているんです。その顔がどうこうというわけではないんです、ホームズさん、ただ背筋がぞっとしてしまって、距離も少しあって、特徴も分からなかったのですが、その顔はどこか不自然で、人間でないような、そんな気がして、僕は急いで近寄って、もっと近くで、僕をのぞいている奴を見てやろうと思ったんです。でも走り出すと急に顔は引っ込んで、まるで不意に部屋の闇の中へ引っ張られたみたいでした。この一件について何度も思い返しながら、その印象について詳しく考えようとしました。男の顔だったか女の顔だったのかは分かりません。遠すぎました。でもその色だけははっきり覚えています。血の気のない、死人のような土色。どこかぎこちなく、こわばっていて、気持ち悪いほどに不自然なんです。不安のあまり、僕はその小屋の新しい住人をちょっと見てやろうと心に決めました。近づいて戸を叩きますと、すぐ入口は開いて、のっぽでがりがり、いかつくて怖い面の女が出てきました。「何かご用?」女の言葉は北部訛りでした。「近所に住んでいる者です。向かいの。」と僕はあごを使って家を示しました。「お引っ越しを見掛けたものですから、何かお手伝いできることがあればと思いまして……」「いえ、お願いしたいときはこちらから参ります。」そう言って、目の前で戸をぴりゃりと。ぞんざいな断り方に腹が立ちましたが、そのままうちに帰ってきました。一晩中、何か他のことを考えようとしても、僕の心は窓際のお化けと、失礼なあの女のことに至るのです。お化けのことは妻に何も言わないでおこうと思いました。



(10)些細なことでも気にする性質たちですから。何も自分の受けた不愉快な気持ちをわざわざ彼女に与えなくてもと。でも話したんですよ、寝る前に。例の小屋がふさがったと。妻は返事しませんでした。 私は普段から安眠する方で、夜中は何があっても起きないというのがうちでのお決まりの冗談でした。ところが、その晩に限ってどうしたわけか、昼間の件で少々気が立っていたからか分かりませんが、普段のようにぐっすりと寝付けなかったんです。うとうとしていると、ぼんやりと何かが部屋に入ってきたような気がしました。そしてだんだんと分かってきたのは、服を着て、外套を引っかけ、帽子をかぶっている妻の姿です。口からむにゃむにゃと、驚きやら小言やらが寝言みたいな形で出てしまったのですが、その瞬間、ふと目をうっすら開けて蝋燭の光に照られている彼女の顔を見て、僕はびっくりして息を呑みました。あんな顔の彼女は、今まで見たことがありません――とても彼女とは思えません。真っ青で息を切らし、寝台の方をこっそり窺いながら、外套を押さえて、僕が物音で起きてしまったのかを確かめました。やがてぐっすり寝込んでいるものと思い込んで、そっと部屋から滑り出していってしまいました。そのあとすぐ、何かカチャリという音を耳にしたのですが、どうも正面玄関の蝶番(ちょうつがい)のようで。僕は寝台のふちに座って、木枠をなぐってみて夢じゃないかどうか確かめました。それから枕元の時計を手に取りました。明け方の三時です。いったい妻はこんな明け方の三時に田舎道へ出かけてどうするのでしょう? 座ったまま二十分間ほど、あれやこれやと考えてみて、それらしいわけを探してみました。考えるほど頭がこんがらがってしまいます。



(11)そうして頭を悩ませているうちに、また戸がゆっくりと静かに閉じられる音がして、階段を上がってくる妻の足音が。『どこへ行っていたんだい、エフィ?』彼女が入ってきたとき訊ねました。 妻はひどくびっくりして、何かひゃっという叫び声を上げました。その叫びよう、驚きようで、僕の心はざわざわと騒ぎ始めるのです。何か曰くありげでした。妻はいつも何でもしゃべる開けっ放しの性格で、それだけにぞくぞくっとするんです。あの彼女が、こっそり自分の部屋へ入ろうとして、旦那に声をかけられると声をあげて怯えるだなんて。『起きてたの、ジャック?』と苦笑いして、『夜中は起きないんじゃなかったの。』『どこに行ってたの?』と、僕は少し険しい声で訊ねてみました。『驚かせちゃったみたいね。』と言う彼女を見ると、手の指はぶるぶる震えて、外套の釦ボタンを外すこともできません。『えっとね、あたしもこんなことしたの初めて。実は、そう、何か息苦しくなっちゃって、絶対外の空気吸わなくちゃ、って思ったの。ほんっとに、外に出ないともう死んじゃう、って感じだったんだから。玄関のところでぼけっと立って、でももう大丈夫。』 そんな話でしたか、そのあいだ、ただの一度も僕の方を見ようとせず、声も普段の調子とはまったく違いました。はっきり分かりました。彼女は嘘をついている。僕は何も返事をせずに、壁の方に顔を向けて。心が裂けそうで、中にはもう毒々しい不信感、猜疑心が何千何百といっぱいで。いったい何を、妻は僕に隠しているのか。妙な外出のあいだ、どこにいたのか。はっきりするまでとても落ち着けません。でももう一度訊く勇気もありません。嘘であれ、一度説明を聞いた後でしたので。それからは朝になるまで、僕は悶々とのたうち回り、ああでもないこうでもない、どれも解答らしいものにはたどり着けません。



(12) 翌日は中心区シティに行くことになってましたが、心が千々に乱れ、仕事のことなんてもう手に付きません。また妻も落ち着きがないみたいで、わかるんです、こちらを窺うような目つきを、ちら、ちらっと。僕が昨日の言い訳を信じてないということがばれているようで。そして手を打たねばと考えているようで。――僕たちは朝食のあいだ一言も口をきかず、済むとすぐ、ひとり散歩に出かけました。朝の澄んだ空気のなかで、昨夜のことを考え直そうと。 水晶宮のあたりまで歩いていって、一時間ほど構内で時間をつぶし、ノーベリに帰ってきたのは一時でした。たまたま例の小屋の前を通ったので、しばらく立ち止まって、窓を見上げました。昨日、僕をじっと見ていた顔お化けをもう一度見られるかも、と思ったんです。立っていると、まさにびっくり、ホームズさん、ふいに戸が開いて、妻が出てきたんです。 驚きのあまり、言葉を失いました。でも僕の驚きなんてたいしたことは。目のあったときの、妻の顔ほどでは。妻はとっさに引っ込もうとする素振りを見せましたが、逃げも隠れも出来ないと観念して、こっちへ来ました。顔は真っ青で、目は怯えて、でもちぐはぐに、口元は微笑んでるんです。『そう、ジャック、今度いらっしゃったお隣さんへ、何かお手伝いできませんかって、ちょっとうかがってたとこなの。あたしの顔に何かついてる、ジャック? 何怒ってるの?』『そうか、昨日の夜はここだったんだな。』『何のこと?』と声がうわずります。『ここに来てた。絶対にそうだ。誰なんだ、一時間も会ってた奴らは?』『ここに来たのは初めてだけど。』『嘘と分かってて、どうしてそういうことを言うんだ?』と声を張り上げました。

サセックスの吸血鬼(後半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「サセックスの吸血鬼」の後半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。19の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎日1つ黒色から灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)ホームズがつぶさに読んでいた手紙は、先刻届いたものだった。済むと、本人としては大笑いに等しいあのいつもの乾いた含み笑いをし、その紙を私に投げてよこす。「現代と中世、現実と妄想の混ぜものとしては、思うにこれは極めつけだ。」と友人。「これをどう見るね、ワトソン?」私が読んだ文面は次の通り。
オールド・ジューリ四六
一一月一九日   吸血鬼の件
拝啓
 当社依頼人ロバート・ファーガソン氏(ミンシン横町レーンの紅茶卸ファーガソン&ミュアヘッド経営者)より同日付の書簡にて当社へ吸血鬼に関して照会がございました。当社の専門は機械類査定に限られ、本件は取扱業務外となるため、貴殿をご訪問の上、ご依頼することを薦めた次第。当社はマティルダ・ブリッグス案件でのご活躍を記憶するものにて。
敬具
モリソン=モリソン&ドッド EJC拝
「マティルダ・ブリッグスとは妙齢の女の名ではないよ、ワトソン。」ホームズの声はなつかしむよう。「船だ、スマトラの巨大ネズミの関わりでね、この話はまだ世間に出すには早いが。とはいえ僕らが吸血鬼の何を知ると。僕らなら取扱業務内とでも? 何であれ仕事がないよりましだが、まったく、グリム童話とでも向き合わされているようだ。手を伸ばしたまえ、ワトソン、Vの項目の確認だ。」私は反り返って、ご注文たるいつもの大備忘録を手に取る。ホームズは片膝に上手く載せ、ゆっくりと愛おしむように目を過去の事件簿の上に滑らせた。積もり積もった生涯の見聞とも結びつくものだ。「V……グローリア・スコット号の航海か。」と読み上げる友人。「あれはひどい事件だった。君も書き留めたね、懐かしい。ワトソン、出来たものは、僕としても褒められたものではないが。ヴィクタ・リンチ、偽造犯。毒トカゲ、別名ヒーラ。注目に値する案件、だ!


(2) ヴィットーリア、サーカスの美女。ヴァンダビルト強盗団。毒蛇。ヴァイゴル、ハマースミスの怪異。ほお! ほおお! 昔なじみの備忘録。君以上の働きだ。さて傾聴せよ、ワトソン。ハンガリーの吸血鬼信仰。さらなるは、トランシルヴァニアの吸血鬼。」熱心に紙をめくるも、しばらく読み耽ったのち、その厚い冊子を当てが外れたとうなりつつ放り下ろす。「ゴミだ、ワトソン、ゴミだ! 僕らにどう対処しろと! 心臓に杭を打たねば墓に鎮められぬ歩く死体なんぞ! 愚かしいにもほどがある。」「しかしだね。」と私。「吸血鬼も死人(しびと)とは限らんよ。生きた人間にも癖になる者がある。本にもな、たとえば若者の血を吸っておのれの若さを保とうとするご老体などが。」「その通りだ、ワトソン。先ほどの資料にも伝説への言及はある。とはいえ、そのようなもの真面目に取り上げたものか。当事務所は現在足をしかと地につけて立っており、今後もそうあらねばならぬ。世の中とは僕らでも手に余る。妖(あや)かし様お断り。残念ながらロバート・ファーガソン氏とはまともに取り合えそうもない。当人からと思われるこちらの手紙が、彼の頭痛の種に少しく光を当ててくれるやも。」友人は二通目の手紙を取り上げる。一通目に取り組むあいだ見向きもされず卓上に置かれていたものだ。これに目を通し始めるや、友人の顔に楽しげな笑みが浮かび、次第に強い興味と本意気を示す表情へと移り変わる。読んだあとは座ったまま、指から手紙をぶら下げ思案に耽った。やがてはっとしたように物思いから目覚め、「ランベリのチーズマン屋敷。ランベリの場所は、ワトソン?」「サセックス州、ホーシャムの南だ。」「そう遠くない、ね? それからチーズマン屋敷とは。」


(3)「私の知識によれば、ホームズ、その土地は古い館の多いところで、名は何世紀も前にそれらを建てた人々にちなんでいる。「そう遠くない、ね? それからチーズマン屋敷とは。」「私の知識によれば、ホームズ、その土地は古い館の多いところで、名は何世紀も前にそれらを建てた人々にちなんでいる。つまりオドリ屋敷なりハーヴィ屋敷なりキャリトン屋敷なり――まあ名前以外忘れられたかつての住人たちというわけだ。」「当たり前だ。」とホームズの素気ない返事。いつものことだ、性格は高慢ちきで自分本位、脳内へ新情報を書き入れるのは迅速にして正確だが、仕入れ先にはたいていお礼の言葉もない。「何にせよランベリのチーズマン屋敷のことなど、片付く頃には嫌でもわかろう。差出人は期待通りロバート・ファーガソン。時に、当人は君と知り合いだとか。」「私と!」「読むがよかろう。」 友人から手紙を手渡される。冒頭には今引き合いの住所があった。
 拝啓 ホームズ先生
 得意先の弁護士より貴方様を紹介されましたが、実のところ本件は並外れて扱いづらく、ご相談しづらい問題なのです。私は代理人で、当事者は友人、この紳士は五年ほど前ペルー人女性と結婚しました。ペルーの商人のひとり娘で、硝酸肥料の輸入つながりで出逢ったのです。ご婦人は美人でしたが、異国の生まれであること、宗教が違うことから、いつも夫婦のあいだでは好き嫌いや気持ちのすれ違いが起こりまして、そのためしばらくするとご婦人への愛も冷め、一緒になったのは間違いだったと思うようになったらしく。彼からして、ご婦人の人となりに首をかしげるところがあったのです。なおさら痛ましいのは――ご婦人がどこから見ても男子一身の愛を捧げるに足る貞淑な人物であることであります。


(4)さて要点につきましては、お伺いの際に明らかにするつもりです。正直のところ、この手紙は単に現状の概略をお伝えし、この件にご関心を持って頂けるか確認するためのものです。ご婦人はその優しく穏やかな気立てには、きわめて不釣り合いな、おかしな素振りを見せ始めたのです。紳士の結婚は二度目で、先妻とのあいだ息子がひとりおります。この子はもう一五で大変愛らしく優しい男の子ですが、不運にも幼い頃の事故で障害がありました。また、まったくいわれのない理由で、かわいそうにその子が今の妻に手を上げられたのが、二度目撃されております。一度などは鞭で打ち据えられたため、腕がみみず腫れになったほどです。このことでさえ、実の子に取った仕打ちに比べれば些細なことです。まだ一歳にも満たない可愛いお子さんなのに、一ヶ月ほど前のあるときのことです。乳母が数分この子から離れたすきに、痛みにうめく声があって、あわてて戻った乳母が部屋に飛び込んで目にしたのは、赤ん坊に覆い被さって、どうやら首筋に噛みついている様子の雇い主のご婦人です。首には小さな傷があり、そこから血の筋が垂れていました。ぞっとするあまり乳母は旦那様を呼ぼうとしましたが、ご婦人にやめてくれとせがまれ、何と口止め料として五ポンド渡されたそうです。言い訳は全くなく、その場は事が流されました。とはいえ、ひどく心残りだった乳母は、そのとき以来、奥様の動きに気を付け、情もあって赤ん坊をより近くから見張ることにしました。すると、こちらが見張っているときには、向こうからも見張られている気がして、さらに赤ん坊をひとりにしておくしかないときなどは、毎回手を出そうと待ち構えているというではありませんか。


(5)昼に夜に乳母が子どもを守り、昼に夜に母親が静かに監視しながら、羊を待つ狼のごとく待ち伏せていると。先生にはまったく途方もないことに思われましょうが、それでも取り合って下さいますようお願いします。ひとりの子どもの命と、ひとりの男の正気がかかっております。ついに来るある日、恐ろしいことに、旦那様にも事が露見してしまいました。もはや気が気でない乳母が、緊張に耐えられず、一切の胸のうちをぶちまけたのです。彼には突飛な話に思えましたし、今の貴方様とて同じでしょう。自分の知る奥様は愛の深い妻、義理の息子に手を上げることを除いては、情のある母親です。その女がどうして愛しい実の子を傷つけましょうか。乳母に告げます。お前は夢でも見ているのか、そんな疑いは馬鹿馬鹿しいにもほどがある、雇い主へのかくなる侮辱は到底許され得ない、と。ところが話の最中に、いきなり痛みに泣きじゃくる声が聞こえてきます。乳母と主人はふたり子ども部屋に駆け込みました。そのときの心境お察し下さい、ホームズ先生。何と彼の目の前で、奥様が乳児用寝台のわき、膝を突いた状態から立ち上がり、そしてむき出しになった子どもの首と敷布には、血があったとか。悲鳴を上げて、奥様の顔を光に当てると、唇のあたりは血にまみれておったそうで。彼女が――まさしく彼女本人が――かわいそうに、赤子の血を飲んだのです。これが事の次第です。ご婦人は自室に閉じこもりましたが、やはり言い訳ひとつもございません。旦那様は気も狂わんばかりです。彼も私も吸血鬼信仰については言葉以上のことは存じません。国の外の突飛な作り話ほどに思っておりました。それなのに、ここイングランドはサセックスのただなかで――


(6)いえ、このことはみな明朝ご相談できればと存じます。お会い頂けますか。取り乱した男のお力になって下さいますか。受けて頂けるなら、どうかランベリはチーズマン屋敷のファーガソンまでご電報を。明朝一〇時までにはお伺いする所存。
敬具 ロバート・ファーガソン
追伸 確かご友人のワトソンはブラックヒースでラグビーをされていたかと。そのとき私はリッチモンドのスリークォーターでした。申し上げられる自己紹介はこれくらいしかございません。「もちろん覚えているとも。」と言いながら私は手紙を下に置く。「でかボブ・ファーガソン、歴代でもリッチモンド一のスリークォーターだ。いつもお人好しのやつだったから、こうして友人の事件に首を突っ込むなど、あいつらしいな。」ホームズは感慨深げに私を見据えると、首を振った。「君は底知れないね、ワトソン。君にはまだ秘めたる可能性がある。文面の書き取りをよろしく。『貴君の案件喜んで調査する所存。』」「貴君とな!」「当事務所がぼんくらの巣と思われては困る。むろん差出人本人が当事者だ。その電報を送りたまえ、あとは朝まで寝かしておこう。」 時間通り明朝一〇時、ファーガソンが我々の部屋に乗り込んできた。私の記憶では、ひょろ長い身体に手足をぶらりと提げ、身のこなし素早く敵のバックスをかわす男だった。まさか全盛期は一流で知られた選手の無様な姿を見ることになろうとは、これほど痛ましいことはない。大柄の体格も崩れ、亜麻色の髪も薄くなり、肩も垂れている。とはいえ私も相手に同じ想いを抱かせたはずだ。「やあやあワトソン。」という彼の声は、変わらず太く、心のこもったものだった。「さすがにあのときの君とはいかないか、ほら君をロープの向こう、旧鹿苑の観衆のなかへ投げ込んだろ。こっちもちょっとは変わったが、この一日二日でめっきり老けてね。電報によればどうも、ホームズ先生、代理人のふりは無駄だったようで。」


(7)「直の方が話が早い。」とホームズ。「その通りです。とはいえ考えてもみてください、難しいですよ、自分が守り助ける義務のある女性のことを訴えるなんて。僕に何が。こんな話を警察に持ち込むなんてとても。それに子どもたちも守らねば。狂気ですか、ホームズ先生。血筋が何か? 似たような案件のご経験は? お願いです、ご助言を。もう途方に暮れて。」「ごもっともです、ファーガソンさん。さあお座りに、落ち着いて、いくつか質問にご回答を。僕が途方に暮れるまではまだまだ時間も充分、僕らで何かしらの解決策を必ずやお見つけ差し上げます。まずは、すでになさった対処について。御前様は今もお子様のおそばに?」「あれはすさまじい光景でした。実に情の深い女性なのです、ホームズ先生。女から男への全身全霊の愛ということなら、むろんあるわけで。本人も心から苦しんでいます、このおぞましい、この信じがたい秘密を私に知られたことで。口も開かず、責めても返す言葉もなく、ただ私をじっと見つめ、その瞳は取り乱し打ち拉がれたかのようで。そのあと自分の部屋へ駆け込み、閉じこもりました。以来、顔も合わせてくれず。彼女には結婚前からそば付きの女中がおりまして、名をドローレス――召使いというより友人です。食べ物はその者が運んで。」「ならばその子に差し迫った危険はないと?」「メイソンおばさん、乳母が夜も昼も絶対離れないと。私も信頼しきっております。ひとつ不安があるとすれば、幼いジャックのことで。かわいそうに、手紙でも申し上げましたが、二度手荒いことをされていて。」「だが怪我はない?」「ええ、打ち据えただけですから。身体の不自由な、害のない子だけに、不憫で。」


(8)ファーガソンのやつれた顔も、この少年の話をするときはほころんだ。「この子の有様を観たら誰だって心和らぐとご納得に。幼い頃、高いところから落ちて脊椎を痛めまして、ホームズ先生。けれども情の深い愛しい子なのです。」 ホームズは昨日の手紙を拾い上げて読み始める。「お屋敷にそのほか住み込みは、ファーガソンさん?」「最近入った召使いがふたり。馬番がひとり、このマイケルも屋敷で寝起きを。家内に私、息子のジャックに赤ん坊、ドローレス、あとメイソンおばさんで、全員です。」「となると、結婚の時点では御前様のことをよくご存じではなかった。」「知り合ってほんの数週間後で。」「女中のドローレスと御前様はどれくらいご一緒に?」「数年は。」「でしたら御前様の人となりはあなたよりドローレスの方がよくご存じ。」「はい、その通りかと。」ホームズは書き留める。「思うに、ここよりランベリにいた方が僕もお役に立てるかと。案件の出来からして、自ら調べるべきです。ご婦人がまだお部屋なら、出向いてもお邪魔にもご迷惑にもなりますまい。むろん僕らは宿を別に取ります。」 ファーガソンはほっとした素振り。「願ったり叶ったりです、ホームズ先生。お越しならヴィクトリア駅二時発にうってつけの列車が。」「もちろん伺います。さしあたり暇もありますから、これのみに全力を。ワトソン、むろん一緒に来ること。しかし発つ前にひとつふたつ確認したい点が。この問題のご婦人、聞く限り実の子、あなたの連れ子、どちらの子にも手をお上げのようですが。」「そうですよ。」「ところが手の上げ方は違っている、そうですね? あなたの連れ子には叩くだけ。」「一度は鞭で、もう一度は手でしたたかに。」


(9)「なぜぶったのか本人の弁解はなく?」「ただただ憎しみからです。本人も何度もそう口に。」「ふむ、継母としてはなくはありません。先妻への嫉妬、と申しましょうか。ご婦人はもとより嫉妬深い?」「ええ、大変やきもちで――南国生まれの激情がなせるわざです。」「しかし少年――確か一五で、おそらくは知恵はかなりついている。身体を動かすのは限度があるだけに。彼は手を上げられたことに一言も?」「ええ、ただ訳が分からないとだけ。」「ふたりには、仲が良いときも?」「いえ、お互い愛情なんてとても。」「しかしお話では彼は情が深いと。」「あれほど親になつく息子はそうおりません。何でも私の真似をして、わたしの言葉ふるまいを追いかけて。」 再びホームズは書き留め、座ったまましばらく物思いに耽る。「なるほど、あなたとお子さんは再婚まで大親友と。もはや同志にも似たものであったのでは?」「そりゃあもう。」「では、その情が深いというお子さんなら、きっと実の母の思い出も大切に。」「ひたむきなほどに。」「確かにたいへん興味深いお子さんかと。さて手を上げた件でもうひとつ。赤子への奇行と、連れ子へ手を上げたこと、これらは同時期のことでは?」「初回はそうです。妙な考えにでも取り憑かれたのか、どちらにも怒りを露わに。二回目の被害はジャックだけです。メイソンおばさんから赤ん坊については何も聞いてません。」「いかにも込み入ってきた。」「まったくついていけないのですが、ホームズ先生。」「そうでしょうとも。人とは仮説を立てた上で、時を待つか、それを論破する十二分の情報を待つかするもの。悪い癖です、ファーガソンさん。しかし本来の人間とは弱いもの。遺憾ながらここにいるわが親友は、僕の科学的手法を大げさに見ておりまして。とはいえ当座はこう言っておきます。


(10)この件、僕には不可解とも思えません。それでは二時ヴィクトリア駅でお目に掛かりましょう。」曇りで霧も深い一一月の夕べのこと、ランベリの宿チェカーズに荷を預け、我々は馬車で、曲がりくねった長いサセックスの泥道を抜け、ようやくファーガソンの住む、周囲に何もない古い地主屋敷へと辿り着く。大きいがまとまりのない建物で、中央の本館は古いが、両翼は新しくテューダー様式の煙突がいくつもそびえ、こけむしたホーシャム板の尖り屋根がついている。戸口は角が丸くすり減り、張り出し玄関を縁取る古い瓦には、元の建築主にあやかってチーズと人の判じ絵紋が記されていた。内部は、波打つ天井ががっしりした楢の梁に支えられ、床はたわんで反り返っているため平らでない。年月と老朽からくる匂いが、崩れかかった建物全体に充溢していた。 さて中央の大広間へファーガソンの案内で入る。ここでは、奥に一六七〇年とある、鉄柵付きの大暖炉のうちで、立派な薪の火が音を立てて燃えていた。その部屋をぐるりと見回すと、時代・場所様々なものの入り乱れ方が実におかしい。壁半分、鏡板(かがみいた)仕立ての部分は一七世紀の元持ち主のものと思われるが、裾部分の飾りには凝った今様の水彩で帯が引かれている。それでいて上部、楢の代わりに黄色い漆喰を用いたところに懸けられたのが、ずらりと揃った南米の武器具、階上のペルーのご婦人が持ち込んだに違いない。立ち上がったホームズは、あの本意気の際の興味津々ぶりを見せて、用心しつつあらためる。戻ってきたときの瞳は、どうにも思案気だった。「おや! おや!」とそのとき声。スパニエル犬が一匹、隅のかごで横になっていた。のろのろと主人へと近づくが、うまく歩けていない。


(11)後ろ足の動きが不自然で、尾は床についたままだ。ファーガソンの手をなめる。「どうしました、ホームズ先生?」「この犬、どこか具合でも?」「それが獣医も頭を痛めてまして。麻痺の一種で、脊髄膜炎だとか。まあ治まりつつあるので、じきに治るでしょう――だな、カーロ? そうだとばかりに垂れた尾がふるえる。犬は悲しげな目で我々を順に見やった。自分の話だとわかっているようだ。「症状は急に?」「一晩を境に。」「いつ頃から?」「四ヶ月ほど前です。」「目に付く。やはり裏がある。」「裏って何です、ホームズ先生?」「想定済みのことを確かめたまで。」「お願いです、どういう[#「どういう」に傍点]ことです、ホームズ先生? 先生にはほんの知的なパズルかもしれませんが、私には生きるか死ぬかなんです! 家内が殺人鬼になるかもしれない――息子は今も危険なんです! もてあそばずに、ホームズ先生、事は深刻なんですよ。」 大柄な元ラグビー選手は全身をふるわせている。ホームズは落ち着かせようと手を相手の腕に置いた。「僕はね、ファーガソンさん、何であれ解決そのものがあなたの苦しみになるやもと心配で。全力でお救いする所存。さしあたり申し上げられるのはこれのみですが、この館を発つ前にははっきりとした事もつかめるかと。」 「本当にお願いしますよ! すいませんが、みなさん、私は家内の部屋へ行って、変わりないか確かめなくては。」依頼人が数分不在のあいだ、ホームズは再び壁の珍しい品々を調べ出す。やがて戻ってきた屋敷の主人だったが、思わしくない顔を見せたので、進展がなかったに違いない。ただ連れてきた人物がひとり、長身細身の小麦肌の娘だ。ファーガソンは言う。


(12)「お茶の支度はできている、ドローレス。ご主人に不自由のないよう頼む。」「あの方、具合、悪い。」と声を上げる娘は、屋敷の主人を責めるような目で見つめていた。「何も、食べない、言う。具合、悪い。医者、見せる。ふたりだけ、医者いない、わたし、怖い。」ファーガソンが私の方へ、何か訴えるように目を向ける。「私なんぞで何かお役に立てますかな。」「ご主人さまは、医者に会ってくれるのか?」「わたし、連れてく。ほっとけない。医者、見せる。」「では君とすぐさま出向くとしよう。」 私はその娘についていった。その子は感情の高ぶるあまりふるえていた。階段をのぼり、古い廊下を奥へ。突き当たりに鉄のかすがいがついた大扉があった。これでは、さしものファーガソンでも妻のところへたやすくは押し入れない、本人もそのことに気づいただろう。娘が懐から鍵を取り出すと、厚く重い楢板が蝶番をきしませる。私が入室すると、うしろから娘も滑り込み、後ろ手に扉の錠をかける。寝台に横たわっている女性が高熱なのは間違いない。意識は朦朧としていたが、私がお邪魔すると、怯えつつも美しい両の瞳をあげて、不安げにこちらをにらむ。見知らぬ人物とわかってどうもほっとしたのか、ため息をついてまた枕に頭を沈める。励ましの言葉をかけながら近寄るも、じっとして動かないので、そのあいだに脈と熱を測った。どちらも値(あたい)は高かったが、個人的印象としては、どうもこの容態は、具体的な発作というよりむしろ心と気が高ぶったためになったものらしい。「こんな調子、一日、二日。心配、死ぬ?」と娘。その女性は火照った端正な顔を私に向ける。「夫はどこ?」「下で会いたがっていると思います。」


(13)「わたしは会いたくない、会うものですか。」ところがそのあとうなされて話がそれる。「鬼! 悪魔! あの悪魔、どうすれば!」「何かしてほしいことは?」「ない、誰も何もできない。終わり。みんな破滅。何をしても、破滅なの。」そのご婦人は妙な妄想にとりつかれたに相違ない。あの正直者のボブ・ファーガソンの人となりから、鬼や悪魔は見えそうにない。「奥様、旦那様は心からあなたをお愛しです。こんなことになって深く悲しんでおいでです。」 再びその女性は私にその見事な瞳を向ける。「わたしを愛している。ええ。でもわたしがあの人を? 愛してないとでも? あの人の心が砕けるくらいなら、わたしは犠牲になったっていい。それほど愛してるのに。それなのに、わたしのことを、あんなふうに、思うなんて――言うなんて。」「嘆いておいでですが、訳が分からないのです。」「ええ、そうでしょう。でも信じてさえくれれば。」「会いたくはない?」と私が持ち出しても。「ええ、ええ。あんな恐ろしい言葉、あんな形相、忘れられません。会いません。出てって。何もしていただかなくて結構。ひとつだけ伝えて。わたしの子どもを返して。生みの親はわたし。あの人に言えるのはそれだけ。」顔を壁に向けた女性は、それ以上は口を閉ざした。 私が階下の部屋へと引き返すと、ファーガソンとホームズはそのまま炉辺で座っていた。上でのやりとりのあらましを聞くファーガソンは、いかにも不機嫌だった。「あの女に子どもを渡せるもんか。また妙な気を起こされるか、知れたもんじゃない。焼き付いて離れない、あの子のわきから、口を血塗れにして立ち上がったあの姿!」思い出してぞっとする依頼人。


(14)「子どもはメイソンさんに預ければ大丈夫、そのままにしておくべきだ。」細身の女中は、この屋敷内で目にした唯一今風のものだが、その人物が茶を運んできた。給仕している最中に、扉が開いて少年がひとり部屋に入ってくる。目を引く子で、青白い顔に金髪、感じやすい水色の瞳が突如として情念の炎に燃えたのは、それが父親に注がれたときだった。駆け寄ったその子は、腕を父の首に回す。恋に恋する乙女が気のままにするように。「ああ、パパン。」と声を張る。「まだ帰ってないって思ってた。会えるんなら待ってればよかった。でもお顔見れて嬉しい!」 ゆっくりとその抱擁をほどくファーガソンは、いささか戸惑っているようだった。「いい子だねえ。」と心のこもった手でその亜麻色の頭をなでる。「早めに帰ってきたのは、友だちのホームズ先生とワトソン博士を口説いて、午後をこちらでご一緒してもらうことになったからなんだ。」「その人がホームズ先生、探偵の?」「ああ。」 少年は我々を穴の開くほど見つめたが、どうも私には敵をにらんでいるかのように感じられた。「もうひとりのお子さんは、ファーガソンさん?」と訊ねるホームズ。「ご令息とお近づきになっても?」「メイソンさんに赤ん坊を連れてきなさいと。」とファーガソン。少年は出ていくとき妙にぎこちない走り方をしたが、外科的な目には、背骨を痛めているせいだとわかる。まもなく帰ってくると、その後ろから背の高いやつれた女性がやってきた。腕に抱かれていたのはたいへん美しい赤子、黒目で金髪、サクソンとラテンの見事な融合だった。ファーガソンが首ったけなのはまるわかりだ。腕に抱えると、愛おしむようになで回したのだ。


(15)「この子を傷つけようとするやつがいると思うと。」とつぶやきながら目を下ろしたその先は天使の喉、そこに小さく腫れた赤い痕があった。まさにこの瞬間、たまたまホームズに目をやると、その表情はなぜかひどく張りつめていた。こわばる様はさながら古い大理石の彫刻のようで、父子に刹那視線を注いだが、すぐさま食い入るように部屋の反対側の何かを見つめる。その先を追いかけると、どうも窓越しに雫落ちるわびしい庭を見ているとしか思えない。なるほど鎧戸は外に半開きで、眺めも遮られているのに、にもかかわらずホームズが意識を集中させているその先は、紛れもなく窓なのである。そのあとほほえむと、また目を赤子へと戻した。丸い首には小さな腫れ痕。物も言わずホームズは、注意深くあらためる。最後に、前で振られていた赤子の丸くなった手と握手をした。「ごきげんよう、坊や。君の人生は不思議な始まり方をしてしまった。乳母は君か、できれば内々に少々話をしたいのだが。」 友人は乳母をわきへ連れていき、数分立ち入った話をしたようだ。聞き取れたのは最後の切れ端だけで、こうだった。「君の心配事はおそらく、まもなく解決される。」乳母は無口で気難しい類の人物らしいが、赤子を連れて引き下がった。「メイソンさんはいかなる人物で?」と訊ねるホームズ。「ご覧の通り、愛想はいまいちですが、心は純粋、子どものためを思ってます。」「君はあの人好きか、ジャック?」いきなりホームズは少年の方を向く。そのころころ表情の変わる顔がさっと曇り、首が振られる。「ジャッキーは好き嫌いが激しくて。」とファーガソンは少年に腕を回す。「幸い、私は好きの方ですが。」 少年は喉を鳴らして、父親の胸に頭を埋める。ファーガソンはゆっくりそれをほどく。


(16)「あっちへお行き、ジャッキー。」と言って、姿を消すまで温かい目で息子を見送る。「さてホームズ先生。」と少年が去ると話の続きだ。「正直のところ、あなたに無駄足を踏ませてしまったかもしれません。同情以外何をしていただけましょう。あなたの目から見てもさぞや扱いがたく、ややこしい案件でしょう。」「確かに扱いがたい。」と友人は楽しげなほほえみを見せる。「ですが今のところ、ややこしいところに出くわしては。これは一貫して、知性による演繹の対象。大量にある個々の事象からひとつひとつ、初めに行った演繹の裏付けがとれていく、そうしてこそ主観は客観となり、自信を持って目的地に着けたと言えましょう。実際ベイカー街を発つ以前に僕は辿り着いていましたから、残るはただ観察と確認のみ。」ファーガソンはその大きな手を、皺寄った額に当てる。「頼みますからホームズ先生。」と声もかすれがすれ。「この件の真相がわかっているなら、私を宙ぶらりんのまま放っとかんでください。もう無理です。何をすれば。筋道はどうでもいいんです、あなたが本当に答えを見つけさえしたんなら。」「むろん僕にはあなたへ説明する義務があり、じきに致します。しかし僕の流儀で案件を取り扱うことお許し願いたい。ご婦人との面会は叶うかな、ワトソン?」「具合は悪いが、頭の方ははっきりしておる。」「結構。彼女が立ち会って初めて事が片付く。さあ上の部屋へ。」「私とは会いたくなかろう。」と声を張るファーガソン。「そうでしょうとも。」とホームズは一枚の紙に数行走り書きをする。「ともかく君は立ち入りを許されている。ワトソン、この言伝(ことづて)をご婦人に渡してもらえるとありがたい。」


(17)私は再び昇り、私から言伝を渡されたドローレスが慎重に扉を開ける。一分して聞こえてきたのは、室内からの嗚咽で、そこには喜びと驚きが入り交じっていた。ドローレスが顔を出して、「会いたい、言う。聞きたい、言う。」呼びつけると、ファーガソンとホームズも上がってきた。我々が入室し、ファーガソンは一、二歩妻へと歩み寄る。ご婦人は寝台の上で身体を起こしていたが、手を突き出して相手を押しとどめた。依頼人は肘掛け椅子に座り込み、かたやホームズはご婦人に挨拶したあと、依頼人のわきに腰掛ける。ご婦人は驚きのあまり目を見開いていた。「ドローレスに外してもらっても大丈夫かと。」とホームズ。「ああ結構です、マダム。あなたがいてほしいと望むなら異存ありません。さてファーガソンさん、僕も引く手あまたのせわしい身、やり口は単刀直入を旨としております。手術素早いほど痛み少なし。まずあなたの心落ち着くことから申し上げたい。御前様は実に善良で愛情深い女性で、現在不当な扱いを受けております。」 ファーガソンは喜びの声とともに身を起こす。「ご証明を、ホームズ先生。そうすればいつまでも恩に着ますよ。」「そうしたいのですが、そうすれば、あなたを別の角度から深く傷つけることに。」「家内を潔白にして下さるのなら、そんなことどうでも。これに比べれば地球上のあらゆるものも下らんです。」「では言わせて頂きますが、この一連の推理はベイカー街で頭によぎったもの。吸血鬼なる考えは僕には荒唐無稽。イングランドでもそのような犯罪例は実際にない。とはいえあなたの見たことは精密。あなたの目に映ったこのご婦人は、乳児用の寝台のわきから身を起こしたとき、口が血まみれだったと。」


(18)「はい。」「そのとき思い浮かばなかったのですか? 血の流れるその傷跡、吸われたのは何か別の理由からで、血を飲むためではなかったのではと。イングランド史にも女王がひとりいませんか、その種の傷から毒を吸い出した人物が。」「毒!」「南米のご家庭。目で見るより先に、壁に武器があるのではと直感を。他の毒の可能性もあれ、思い当たったのはそれ。伺うと空(から)の小さな矢筒が鳥を撃つ弓のわきに、まさに我が意を得たり。もし子どもがクラーレなり何か他の邪悪な薬なりに浸された矢の一本に刺されようものなら、意味するところは死。その毒が吸い出されない限りは。そしてあの犬! 人があのような毒を使うとなれば、まずその効力が切れてないか確かめるため、試してみませんか。犬のことは予見できなかったといえ、少なくとも見ればわかります。解釈にも符号していました。もうおわかりですね。御前様はこういった攻撃を恐れていたのです。その現場を目にして子どもの命は救えたものの、ただあなたに事の真相をなかなか言い出せない。というのも、あなたの連れ子への愛の深さは重々承知、そのことであなたの心を傷つけては思ったのです。」「ジャッキー!」「先刻あなたが赤子を抱えたとき、僕の目は彼にありました。顔がくっきりと、鎧戸を後ろにした窓硝子に映ったのです。見えたのは、すさまじい嫉妬、すさまじい憎悪、あのようなもの、僕とて人の顔にそう見たことがない。」「おおジャッキー!」「向き合わねばなりません、ファーガソンさん。それがあなたへの歪んだ愛、狂おしいまでに肥大した愛であるだけに、いっそう苦しいものです。おそらくは亡き母への愛もその行動へ駆り立てた。


(19)彼のその魂は、あの素敵な赤子への憎しみの虜。かたや健やかで美しいのに、自分ときたらひ弱で正反対。」「おお主よ! 信じられん!」「僕の話で合ってますか、マダム?」 ご婦人はすすり泣いており、顔を枕に埋めていた。さて旦那の方へ向き直り、「どういえばよかったのか、ボブ。きっとあなたの痛手になるって。こらえて、わたし以外の誰かから伝えてもらった方がいいって。この魔法の力か何かをお持ちの紳士が、すべてご存じと知らせてくださったとき、ほっとして。」「思うに、ジャッキー坊ちゃまへの処方としましては、一年間の海上生活が相応かと。」と椅子から腰を上げつつホームズは言う。「ただひとついまだおぼろげなことが、マダム。ジャッキー坊ちゃまに手を上げた件は今や明々白々。母親としての我慢にも限度が。しかしこの二日お子さんをよく手放せましたね。」「メイソンさんには打ち明けて、ご存じで。」「まさしく想像の通り。」 ファーガソンは寝台のかたわらで立ち尽くし、息も荒く震えながらも手を伸ばす。「そろそろお暇する時間かな、ワトソン。」とホームズのささやき声。「君があの気の利かないドローレスの肘を取るというのなら、僕ももう片方を取ろう。ほら、よし。」そして後ろ手に扉を閉めながらもう一言。「思うに、あとのことは本人らに任せたがよかろう。」 私がこの件について付け加えることはあとひとつだけ。それはホームズが、この物語の発端に対して、締めとして書いた返事だ。中身はかくのごとし。
ベイカー街
一一月二一日   吸血鬼の件
拝復
 一九日付のご来信について、当方、貴社依頼人ロバート・ファーガソン氏(ミンシン横町の紅茶卸ファーガソン&ミュアヘッド経営)の調査を請け負い、案件を無事解決したことを恐れながらここに申し上げます。このたびのご推薦恐悦至極。
敬答
シャーロック・ホームズ


アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle
大久保ゆう訳
プロフィール

米澤章夫

Author:米澤章夫

小説文解読パズル」考案者

沢山の方々のご訪問ありがとうございます。
このブログの本文は、小説文解読パズル(Seesaaブログ)
の出題元となっています。段落内の漢字が出題されますので、よくお読みください。

ところで、どんなトレーニング、学習にせよ「面白い」と感じている時は集中力は増します。集中力が増せば効果も増します。本ブログはこの理屈に基づいた漢字暗記法を公開しております。ブログには小説文中の任意の漢字または漢字と送り仮名の音が数字化されており、小説文を読みながら、それらの数列を数字に分割し、分割した数字を漢字の「読み」「綴り」に戻していくうちに、それらの記憶を強化できるというものです。分割するたびに、いろんな漢字が脳裏によみがえり、答え合わせをすることで「綴り」を確認することができます。前後の句と比較することで、その「使い方」を確認することもできます。以上のことから、「記憶の呼び戻しは、数列解読過程にある」と言っても過言ではありません。あなたも「数列にどんな言葉が隠されているのか」推理してみませんか。そして、漢字の記憶を呼び戻してみませんか。

鳥取市在住。ブロとも大歓迎です。

バズル作り、ゲーム作りが第一の趣味

本文の下に「拍手」「いいね」のボタンがあります。それらを押していただくと、大変嬉しいです。

facebook

コメントもしていただくととっても嬉しいです!


「パズルで脳トレ講座」オンライン講師
講座のパズルは、私が考えたもので、お絵かきロジック、スケルトン、ナンプレ、面分割パズル、ペントミノ、迷路パズル、経路パズル、ループ、推理パズル、虫食い算、最適化パズルなど、既存のパズルの周辺を考えたものから、まったく新しい発想、形式のものまで41種類もあります。本講座は「飽きずに楽しく遊べる場を提供し、論理的思考力向上のお手伝いをさせていただく」というコンセプトで作られています。ぜひ、皆様にもおす
すめしたいと思います。お試しパズルを用意
していますので、まずは、そちらをお試しください(無料)。
ネット講座ナレッジサーブ広告


最新トラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード

QR