漢字が覚えられる暗号小説です。灰色の数字をクリックし、数列解読しながら、お読みください。

土色の顔画(前半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「土色の顔」の前半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。23の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎回灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)公表せんとして、このような短編を膨大な事件の山から選んで書く際の話だ。そういった事件では、我が友人の類稀なる才能のために、私は否応なく不思議な舞台の観客となり、時によってはその登場人物となってしまう。そのせいで書く際には我知らず失敗談よりも成功談が多くなる。だが何も彼の名声のためではない――正直なところ、思案に余るような場合こそ、彼の力とその器の大きさに賞賛を送りたくなるのだが――まともな理由としてはやはり、彼が失敗するときは誰であろうとうまくいかず、話は永遠に結末へ至らぬままというのが大半であるからだ。しかしながら、時として、推理は間違っているのに、それでも真相が明らかになるということがたまにある。この種の事件は六つほど書き留めてあるが、『第二の血痕』とこれからお話しする物語のふたつが、もっとも興味深い一面を見せてくれる シャーロック・ホームズという男は、運動のための運動は滅多にしなかった。だが、はげしい肉体労働に彼ほど耐えうる人間はほとんどなく、また確かに同じ重量級では、私の見たうちでも拳闘家(ボクサー)として一流の部類に入るだろう。目的もなく体を動かすのは力の浪費であるとし、発揮するのは職業上役に立つという狙いがあるとき以外ほとんどない。それでいて疲れをまったく知らない。本来なら普段の鍛練を積まねばならぬはずなのだが、日々の食事もきわめて質素で、生活ぶりも厳格に過ぎるほど慎ましい。時折コカインを飲む以外の悪癖はなく、その薬物とて、事件が冴えなかったり、新聞に惹かれるものがなかったりして、日々に変化がないときに頼るに過ぎない。早春のある日、ホームズはのんびりとした気持ちで散歩に出、私も同行してリージェント・パークをぶらついた。 



(2)楡(にれ)の木から緑の若芽が吹き出しかけ、栗の木のぬめりとする枝先からはちょうど五つに重なる葉をつけ始めたところだった。二時間近く一緒に歩き回ったが、ろくに会話もしなかった。お互い勝手を知り合った仲だから、この方がちょうどいい。五時になろうという頃、我々は再びベイカー街へ戻ってきた。「すいません。」と戸を開けたとき小間使いの少年が言う。「お留守のあいだに男のお客さまがありました。」 ホームズはしまったというふうに私に目をやる。「これだから午後の散歩は。」とこぼし、「もうその人は帰ったのか?」「はい。」「中でお待ちするようにとは?」「いえ、中へお通ししたんです。」「どのくらい待っていた?」「三十分ほどです。とてもせっかちな方で、ここにいらっしゃるあいだ始終、歩き回ったり足踏みしておられて。僕は部屋の外でお待ちしていたのですが、それでもわかるくらいで。ですがとうとう廊下にお出になって、『もう、帰ってこないじゃないか』と、そうその方はおっしゃいました。『もうほんの少しだけお待ちいただけますか』と申し上げますと、その方は『じゃあ外で待ちます。ここじゃ息が詰まりそうで。じきに戻ります。』とおっしゃっていきなりお出になり、いろいろ申し上げたのですが、お引き留めできませんでした。」「いやいや、それで十分。」とホームズは言って、我々は部屋の中へ入った。「実に待ち遠しいね、まったく。ワトソン、僕は事件が欲しくてたまらなかった。どうも、その男が気を揉んでいたことからも、大事のようだ。おや! あの机にあるパイプ、君のではない。男の忘れ物か。よく使い込んだブライアで、軸が少し長い。愛煙家のあいだで琥珀と呼んでいるものだ。本物の琥珀の吸い口など、そういくつもロンドンにあるものかね。中に蠅がいるのがその証だと思っている輩もいる。



(3)ふん、いっぱしの商売人ともなれば、琥珀のまがい物に偽物の蠅を入れることくらいする。さておき、その男はよほど気が動転していたに相違ない。大切なはずのパイプを置き忘れるほどだ。」「どうすれば、大切なパイプという結論が出るんだね?」と私は訊いた。「何、僕の見積もりでは、そのパイプの元の値段は七から六ペンス。ところがほら、二度直しが入っている。一度は木の軸を、一度は琥珀のところを。いずれの直しもご覧の通り銀が巻いてある。パイプの値はもとより遥かに高くなっているはず。人というものは、自分から手当をしてやったパイプの方が、同じ額で買った同じものよりもずっと大切にする。」「次の推理は?」と私は先を促す。ホームズがそのパイプを手でいじくりながら、彼独特の思いに沈んだ目つきでじっと見ていたからだ。ホームズはパイプをつまみ上げ、細長い食指でその上を軽く叩く。ちょうど何かの骨について講義している大学教授がよくやるように。「パイプというのものは、時として意外なほど人の興味を惹く。」と言う。「これほどひとりひとりの個性が表れるものはない。まあ、懐中時計と靴ひもを抜いての話だが、今回はそれほど目立ったことも大事なことも教えてくれそうにない。この持ち主について確かなのは、体格の立派な男で左利き、歯は丈夫だが手癖が悪く、あとあえて節約生活を送る必要はないということだ。」我が友人の今の言葉は、声こそさりげなかったが、その目は私に向けられ、推理についてくるかどうか窺っているのがわかった。「男が裕福というのは、七シリングのパイプで吸うからかね?」と私。「銘柄はグロウヴナ・ミクスチュア、一オンス八ペンス。」とホームズは答え、小突いて手のひらに少量出してみせる。


(4)「その半値でも葉としては贅沢だから、あえて倹約する必要がない。」「なら他の点については?」「この男、パイプの火をランプやガス灯でつける癖がある。ほら、片側がすっかり焦げているだろう? もちろんマッチではこうはならない。マッチの火をパイプの縁にあてておく男などどこにいる。だがランプで火をつけるとあれば、どうやっても火皿を焦がしてしまう。しかも焦げているのはみな右側。そこでこの男が左利きだと推察した。君もパイプをランプへ持っていけば、ほら右利きなら自然と左側が火に当たるだろう? 反対の手でもできなくはないが、ぎくしゃくする。これを始終やっていた。それから琥珀のところを噛みつぶしている。それをするには、筋肉も力もあって、歯も丈夫でなくてはならぬ。さて、間違いでなければ、その人物が階段を上っている。ならばこのパイプよりも面白い何かが研究できよう。」 ほどなくして、部屋の入口が開き、背の高い若者が入ってきた。男は灰色のダーク・スーツを無難に着こなし、手には鳶色の中折帽を持っていた。私は三十くらいと見当をつけたが、実際はもういくつか上だったらしい。「すいません。」と男はまごつきつつも言う。「戸を叩いた方がいいとわかっていたんですが、ええ、わかってます叩かなきゃいけないんです。その、ちょっと気が動転してて、だから、今のことはそう考えてください。」男は眩暈がするというふうに手を額にかざし、座るというより倒れるといった調子で椅子に身を預けた。「見たところ、二晩ほどお休みになってませんね。」ホームズがいつものようにうち解けた調子で語りかける。「神経にこたえるでしょう。仕事、ましてや遊びなんかよりも。僕にできることがあれば、何なりと。」



(5)「相談に乗ってください、もうどうしてよいやら、僕の人生がめちゃくちゃになりそうなんです。」「僕を諮問探偵としてお雇いに?」「それ以上に、考えを伺いたいんです、賢いあなたに――道理を知るあなたに。これからどうすればいいのか知りたいんです。あなたなら絶対に出来ると思うんです。」 男は一気に言葉をまくし立てた。本人にとってはしゃべることすらつらく、もう気持ちだけで何とか持ちこたえているというふうに私には思えた。「微妙な問題なんです。」と男は言う。「誰だって、家庭の問題を他人に話すだけでも嫌なのに、初対面のお二人と、妻の振る舞いについて話し合うなんて、とんでもない。そんな羽目になるなんて、ひどい話です。でももう行き詰まってしまったんです。助けが必要なんです。」「そうですね、グラント・マンロウさん――」 とホームズが話し出すと、依頼人は椅子から飛び上がり、「えっ!」と大声を上げる。「僕の名前をご存じで?」「お名前を伏せておきたいのなら、帽子の裏地に名前を書くのはおやめになるようおすすめします。もしくは、自分の話している相手には、帽子の山の方を見せることです。まったくの話、この友人と私は、数多くの変わった秘密をこの部屋で伺ってきました。そして幸いにも、大勢の人々の悩みを晴らしてまいりました。あなたにも同じようにして差し上げることができるかと存じます。そこでお願いです。貴重なお時間ですから、一刻も早く、事の次第をお話しいただけませんか。」 依頼人は再び額に手をやった。相当気の重いことなのだろう。その身振りと表情のあちこちから、内気で人見知りする男だということがわかる。そして気持ちのどこかに恥ずかしさがあって、自分の傷をできれば見せずにおきたいようだ。



(6)そのときふと、男はぎゅっと両手を組み合わせる。恥も外聞もないと決意の体で語り出した。「こういう次第なんです、ホームズさん。僕は結婚してまして、もう三年になります。そのあいだ、妻と僕はお互いに深く愛し合い、幸せに暮らしていました。よくある新婚夫婦です。二人は似たもの同士で、そっくりです。考えも、言葉も、振る舞いも。ところが先日の月曜以来、突然、ふたりのあいだに壁ができたんです。僕は気づいたんです、妻の人生には、彼女の心には何かある。僕はちっとも知らなかったんです。町ですれ違う女の人のように。ふたりが離れてしまった、そのわけが知りたい。 そうです、先を続ける前にこれだけは念を押しておきたいのですが、ホームズさん、エフィは僕を愛してます。それについては絶対の自信があります。彼女は全身全霊をかけて僕を愛してくれています、まさに、今もっとも。わかります。感じます。議論の余地はありません。男というのは、女が愛しているときはそれだけですぐわかるのです。しかしふたりのあいだに秘密があります。これが晴れるまで、元と同じというわけにはいきません。」「早く次第を聞かせてください、マンロウさん。」とホームズはもどかしそうに言う。「でしたらエフィの過去について知ってることをお話しします。はじめて逢ったとき彼女は未亡人でした。それにしてはずいぶん若くて――二五でした。当時はまだヒーブロンという姓で、若い自分にアメリカに渡ってアトランタという町に住み、そこでヒーブロンという売れっ子弁護士と結婚しました。子どももひとり設けましたが、運悪く土地で黄熱おうねつが突発して、旦那も子どももそれで亡くなりました。旦那の死亡証明書も見たことがあります。それで彼女はアメリカにいるのがつらくなって、ミドルセックス州ピナにいる独り身の叔母のところへ帰ってきたんです。



(7)ついでですが、旦那は不自由しないだけのものを残していって、元本が約四五〇〇ポンドの株式を持っていて、旦那がずいぶん投資したらしく、平均で七分ぶの配当があります。ピナに来て六ヶ月経ったばかりの頃、僕は彼女と出逢いました。ふたりは互いに恋に落ち、数週ののち結婚を致しました。 僕自身はホップの商いをやってますが、七~八〇〇ポンドの収入があるので、自分たちだけでも不自由なく、ノーベリに年八〇ポンドのこじゃれた屋敷を持ってます。小さなところですが割合田舎らしく、それでいて町にも近いんです。すぐ近くには宿が一軒、人家が二軒、あと小屋がひとつ正面の草地の向こうにあるだけで、そのほかは駅に行くまでのあいだ一軒もありません。仕事で決まった時季に町へ行きますが、夏のあいだはそれもなく、そんなふうにふたりは田舎の一軒家で、妻と僕は思う存分、幸せに暮らしていたんです。そうです、この呪わしい事件が始まるまで、ふたりには何の影も差したことはなかったんです。 先を続ける前にこれだけは申し上げねばならないのですが、ふたりが結婚したとき、妻は自分の財産をすべて僕名義にしたんです。僕はむしろ反対でした。だって困ったことになりますよ、僕が事業で失敗したら。でも彼女の意志は強く、押し通されました。さて、六週間ほど前のことです。彼女が僕のところへ来て、『ジャック、』と言うのです。『いつかあなたの名義にしたとき、言ったでしょう。必要なときはいつでもそう言ってくれって。』『ああ、そもそも君のものだからね。』 と私が答えると、彼女はこう言うんです。『じゃあ……一〇〇ポンド欲しいんだけど。』 僕はちょっとためらいました。単に新しい服とか、そんなものが欲しいのかと思ってたんです。で、僕は訊ねました。



(8)『何に使うの?』 すると彼女は『まあ』と言って、冗談っぽく言うのです。『あなたは私の銀行さんなんでしょ。銀行の人は、質問なんてしないのよ。ねっ。』『本当に要るなら、もちろんあげるよ。』と僕は言いました。『そうよ、本当に要るの。』『でも、僕には何に使うのか教えてくれないの?』『いつか、きっとね。でも今はだ~め、ジャック。』 こんなわけで僕は納得するしかなく、まさに初めて、ついにふたりのあいだに秘密が入り込んだその時だったのです。僕は小切手を渡したきり、そんなことはすっかり忘れていました。のちに起こったことと無関係かもしれませんが、言っておいた方がよいと思ったので。 ええと、さきほど僕は、うちからそう遠くないところに小屋があると言いましたね。二軒のあいだにはちょうど野原があるんですが、向こうへ行こうと思うと大きな道に沿ってから脇道に入らないといけません。そこを過ぎたあたりは赤松の小さないい感じの森になっています。僕は好きで、よくそこを散歩します。木々がいつもそばにあると、いいものでしょう? その小屋ですが、この八ヶ月はずっと空き家だったんですが、もったいない物件で、小綺麗な二階建てで、古風な玄関で、周囲には忍冬スイカズラが絡みついていました。僕は何回となく立ち止まっては、これでちょっと気の利いた菜園用の小屋が作れると考えました。すると今週の月曜、夕暮れ時、僕が例によってうろついておりますと、その脇道から何も積んでいない幌付きの荷馬車がやってくるのに出くわしました。そして玄関脇の芝生に、絨毯とかが置いてありました。どうやら誰かがその小屋に越してきたらしいんです。いったん通り過ぎましたが、立ち止まり、よく暇人がやるように、小屋を眺め回しつつ、どんな人が僕らのご近所に来て住むんだろうと想像してみました。




(9)と、そのときふと見たものに、僕ははっとしました。誰かの顔が、上の階の窓から僕をのぞいているんです。その顔がどうこうというわけではないんです、ホームズさん、ただ背筋がぞっとしてしまって、距離も少しあって、特徴も分からなかったのですが、その顔はどこか不自然で、人間でないような、そんな気がして、僕は急いで近寄って、もっと近くで、僕をのぞいている奴を見てやろうと思ったんです。でも走り出すと急に顔は引っ込んで、まるで不意に部屋の闇の中へ引っ張られたみたいでした。この一件について何度も思い返しながら、その印象について詳しく考えようとしました。男の顔だったか女の顔だったのかは分かりません。遠すぎました。でもその色だけははっきり覚えています。血の気のない、死人のような土色。どこかぎこちなく、こわばっていて、気持ち悪いほどに不自然なんです。不安のあまり、僕はその小屋の新しい住人をちょっと見てやろうと心に決めました。近づいて戸を叩きますと、すぐ入口は開いて、のっぽでがりがり、いかつくて怖い面の女が出てきました。「何かご用?」女の言葉は北部訛りでした。「近所に住んでいる者です。向かいの。」と僕はあごを使って家を示しました。「お引っ越しを見掛けたものですから、何かお手伝いできることがあればと思いまして……」「いえ、お願いしたいときはこちらから参ります。」そう言って、目の前で戸をぴりゃりと。ぞんざいな断り方に腹が立ちましたが、そのままうちに帰ってきました。一晩中、何か他のことを考えようとしても、僕の心は窓際のお化けと、失礼なあの女のことに至るのです。お化けのことは妻に何も言わないでおこうと思いました。



(10)些細なことでも気にする性質たちですから。何も自分の受けた不愉快な気持ちをわざわざ彼女に与えなくてもと。でも話したんですよ、寝る前に。例の小屋がふさがったと。妻は返事しませんでした。 私は普段から安眠する方で、夜中は何があっても起きないというのがうちでのお決まりの冗談でした。ところが、その晩に限ってどうしたわけか、昼間の件で少々気が立っていたからか分かりませんが、普段のようにぐっすりと寝付けなかったんです。うとうとしていると、ぼんやりと何かが部屋に入ってきたような気がしました。そしてだんだんと分かってきたのは、服を着て、外套を引っかけ、帽子をかぶっている妻の姿です。口からむにゃむにゃと、驚きやら小言やらが寝言みたいな形で出てしまったのですが、その瞬間、ふと目をうっすら開けて蝋燭の光に照られている彼女の顔を見て、僕はびっくりして息を呑みました。あんな顔の彼女は、今まで見たことがありません――とても彼女とは思えません。真っ青で息を切らし、寝台の方をこっそり窺いながら、外套を押さえて、僕が物音で起きてしまったのかを確かめました。やがてぐっすり寝込んでいるものと思い込んで、そっと部屋から滑り出していってしまいました。そのあとすぐ、何かカチャリという音を耳にしたのですが、どうも正面玄関の蝶番(ちょうつがい)のようで。僕は寝台のふちに座って、木枠をなぐってみて夢じゃないかどうか確かめました。それから枕元の時計を手に取りました。明け方の三時です。いったい妻はこんな明け方の三時に田舎道へ出かけてどうするのでしょう? 座ったまま二十分間ほど、あれやこれやと考えてみて、それらしいわけを探してみました。考えるほど頭がこんがらがってしまいます。



(11)そうして頭を悩ませているうちに、また戸がゆっくりと静かに閉じられる音がして、階段を上がってくる妻の足音が。『どこへ行っていたんだい、エフィ?』彼女が入ってきたとき訊ねました。 妻はひどくびっくりして、何かひゃっという叫び声を上げました。その叫びよう、驚きようで、僕の心はざわざわと騒ぎ始めるのです。何か曰くありげでした。妻はいつも何でもしゃべる開けっ放しの性格で、それだけにぞくぞくっとするんです。あの彼女が、こっそり自分の部屋へ入ろうとして、旦那に声をかけられると声をあげて怯えるだなんて。『起きてたの、ジャック?』と苦笑いして、『夜中は起きないんじゃなかったの。』『どこに行ってたの?』と、僕は少し険しい声で訊ねてみました。『驚かせちゃったみたいね。』と言う彼女を見ると、手の指はぶるぶる震えて、外套の釦ボタンを外すこともできません。『えっとね、あたしもこんなことしたの初めて。実は、そう、何か息苦しくなっちゃって、絶対外の空気吸わなくちゃ、って思ったの。ほんっとに、外に出ないともう死んじゃう、って感じだったんだから。玄関のところでぼけっと立って、でももう大丈夫。』 そんな話でしたか、そのあいだ、ただの一度も僕の方を見ようとせず、声も普段の調子とはまったく違いました。はっきり分かりました。彼女は嘘をついている。僕は何も返事をせずに、壁の方に顔を向けて。心が裂けそうで、中にはもう毒々しい不信感、猜疑心が何千何百といっぱいで。いったい何を、妻は僕に隠しているのか。妙な外出のあいだ、どこにいたのか。はっきりするまでとても落ち着けません。でももう一度訊く勇気もありません。嘘であれ、一度説明を聞いた後でしたので。それからは朝になるまで、僕は悶々とのたうち回り、ああでもないこうでもない、どれも解答らしいものにはたどり着けません。



(12) 翌日は中心区シティに行くことになってましたが、心が千々に乱れ、仕事のことなんてもう手に付きません。また妻も落ち着きがないみたいで、わかるんです、こちらを窺うような目つきを、ちら、ちらっと。僕が昨日の言い訳を信じてないということがばれているようで。そして手を打たねばと考えているようで。――僕たちは朝食のあいだ一言も口をきかず、済むとすぐ、ひとり散歩に出かけました。朝の澄んだ空気のなかで、昨夜のことを考え直そうと。 水晶宮のあたりまで歩いていって、一時間ほど構内で時間をつぶし、ノーベリに帰ってきたのは一時でした。たまたま例の小屋の前を通ったので、しばらく立ち止まって、窓を見上げました。昨日、僕をじっと見ていた顔お化けをもう一度見られるかも、と思ったんです。立っていると、まさにびっくり、ホームズさん、ふいに戸が開いて、妻が出てきたんです。 驚きのあまり、言葉を失いました。でも僕の驚きなんてたいしたことは。目のあったときの、妻の顔ほどでは。妻はとっさに引っ込もうとする素振りを見せましたが、逃げも隠れも出来ないと観念して、こっちへ来ました。顔は真っ青で、目は怯えて、でもちぐはぐに、口元は微笑んでるんです。『そう、ジャック、今度いらっしゃったお隣さんへ、何かお手伝いできませんかって、ちょっとうかがってたとこなの。あたしの顔に何かついてる、ジャック? 何怒ってるの?』『そうか、昨日の夜はここだったんだな。』『何のこと?』と声がうわずります。『ここに来てた。絶対にそうだ。誰なんだ、一時間も会ってた奴らは?』『ここに来たのは初めてだけど。』『嘘と分かってて、どうしてそういうことを言うんだ?』と声を張り上げました。

サセックスの吸血鬼(後半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「サセックスの吸血鬼」の後半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。19の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎日1つ黒色から灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)ホームズがつぶさに読んでいた手紙は、先刻届いたものだった。済むと、本人としては大笑いに等しいあのいつもの乾いた含み笑いをし、その紙を私に投げてよこす。「現代と中世、現実と妄想の混ぜものとしては、思うにこれは極めつけだ。」と友人。「これをどう見るね、ワトソン?」私が読んだ文面は次の通り。
オールド・ジューリ四六
一一月一九日   吸血鬼の件
拝啓
 当社依頼人ロバート・ファーガソン氏(ミンシン横町レーンの紅茶卸ファーガソン&ミュアヘッド経営者)より同日付の書簡にて当社へ吸血鬼に関して照会がございました。当社の専門は機械類査定に限られ、本件は取扱業務外となるため、貴殿をご訪問の上、ご依頼することを薦めた次第。当社はマティルダ・ブリッグス案件でのご活躍を記憶するものにて。
敬具
モリソン=モリソン&ドッド EJC拝
「マティルダ・ブリッグスとは妙齢の女の名ではないよ、ワトソン。」ホームズの声はなつかしむよう。「船だ、スマトラの巨大ネズミの関わりでね、この話はまだ世間に出すには早いが。とはいえ僕らが吸血鬼の何を知ると。僕らなら取扱業務内とでも? 何であれ仕事がないよりましだが、まったく、グリム童話とでも向き合わされているようだ。手を伸ばしたまえ、ワトソン、Vの項目の確認だ。」私は反り返って、ご注文たるいつもの大備忘録を手に取る。ホームズは片膝に上手く載せ、ゆっくりと愛おしむように目を過去の事件簿の上に滑らせた。積もり積もった生涯の見聞とも結びつくものだ。「V……グローリア・スコット号の航海か。」と読み上げる友人。「あれはひどい事件だった。君も書き留めたね、懐かしい。ワトソン、出来たものは、僕としても褒められたものではないが。ヴィクタ・リンチ、偽造犯。毒トカゲ、別名ヒーラ。注目に値する案件、だ!


(2) ヴィットーリア、サーカスの美女。ヴァンダビルト強盗団。毒蛇。ヴァイゴル、ハマースミスの怪異。ほお! ほおお! 昔なじみの備忘録。君以上の働きだ。さて傾聴せよ、ワトソン。ハンガリーの吸血鬼信仰。さらなるは、トランシルヴァニアの吸血鬼。」熱心に紙をめくるも、しばらく読み耽ったのち、その厚い冊子を当てが外れたとうなりつつ放り下ろす。「ゴミだ、ワトソン、ゴミだ! 僕らにどう対処しろと! 心臓に杭を打たねば墓に鎮められぬ歩く死体なんぞ! 愚かしいにもほどがある。」「しかしだね。」と私。「吸血鬼も死人(しびと)とは限らんよ。生きた人間にも癖になる者がある。本にもな、たとえば若者の血を吸っておのれの若さを保とうとするご老体などが。」「その通りだ、ワトソン。先ほどの資料にも伝説への言及はある。とはいえ、そのようなもの真面目に取り上げたものか。当事務所は現在足をしかと地につけて立っており、今後もそうあらねばならぬ。世の中とは僕らでも手に余る。妖(あや)かし様お断り。残念ながらロバート・ファーガソン氏とはまともに取り合えそうもない。当人からと思われるこちらの手紙が、彼の頭痛の種に少しく光を当ててくれるやも。」友人は二通目の手紙を取り上げる。一通目に取り組むあいだ見向きもされず卓上に置かれていたものだ。これに目を通し始めるや、友人の顔に楽しげな笑みが浮かび、次第に強い興味と本意気を示す表情へと移り変わる。読んだあとは座ったまま、指から手紙をぶら下げ思案に耽った。やがてはっとしたように物思いから目覚め、「ランベリのチーズマン屋敷。ランベリの場所は、ワトソン?」「サセックス州、ホーシャムの南だ。」「そう遠くない、ね? それからチーズマン屋敷とは。」


(3)「私の知識によれば、ホームズ、その土地は古い館の多いところで、名は何世紀も前にそれらを建てた人々にちなんでいる。「そう遠くない、ね? それからチーズマン屋敷とは。」「私の知識によれば、ホームズ、その土地は古い館の多いところで、名は何世紀も前にそれらを建てた人々にちなんでいる。つまりオドリ屋敷なりハーヴィ屋敷なりキャリトン屋敷なり――まあ名前以外忘れられたかつての住人たちというわけだ。」「当たり前だ。」とホームズの素気ない返事。いつものことだ、性格は高慢ちきで自分本位、脳内へ新情報を書き入れるのは迅速にして正確だが、仕入れ先にはたいていお礼の言葉もない。「何にせよランベリのチーズマン屋敷のことなど、片付く頃には嫌でもわかろう。差出人は期待通りロバート・ファーガソン。時に、当人は君と知り合いだとか。」「私と!」「読むがよかろう。」 友人から手紙を手渡される。冒頭には今引き合いの住所があった。
 拝啓 ホームズ先生
 得意先の弁護士より貴方様を紹介されましたが、実のところ本件は並外れて扱いづらく、ご相談しづらい問題なのです。私は代理人で、当事者は友人、この紳士は五年ほど前ペルー人女性と結婚しました。ペルーの商人のひとり娘で、硝酸肥料の輸入つながりで出逢ったのです。ご婦人は美人でしたが、異国の生まれであること、宗教が違うことから、いつも夫婦のあいだでは好き嫌いや気持ちのすれ違いが起こりまして、そのためしばらくするとご婦人への愛も冷め、一緒になったのは間違いだったと思うようになったらしく。彼からして、ご婦人の人となりに首をかしげるところがあったのです。なおさら痛ましいのは――ご婦人がどこから見ても男子一身の愛を捧げるに足る貞淑な人物であることであります。


(4)さて要点につきましては、お伺いの際に明らかにするつもりです。正直のところ、この手紙は単に現状の概略をお伝えし、この件にご関心を持って頂けるか確認するためのものです。ご婦人はその優しく穏やかな気立てには、きわめて不釣り合いな、おかしな素振りを見せ始めたのです。紳士の結婚は二度目で、先妻とのあいだ息子がひとりおります。この子はもう一五で大変愛らしく優しい男の子ですが、不運にも幼い頃の事故で障害がありました。また、まったくいわれのない理由で、かわいそうにその子が今の妻に手を上げられたのが、二度目撃されております。一度などは鞭で打ち据えられたため、腕がみみず腫れになったほどです。このことでさえ、実の子に取った仕打ちに比べれば些細なことです。まだ一歳にも満たない可愛いお子さんなのに、一ヶ月ほど前のあるときのことです。乳母が数分この子から離れたすきに、痛みにうめく声があって、あわてて戻った乳母が部屋に飛び込んで目にしたのは、赤ん坊に覆い被さって、どうやら首筋に噛みついている様子の雇い主のご婦人です。首には小さな傷があり、そこから血の筋が垂れていました。ぞっとするあまり乳母は旦那様を呼ぼうとしましたが、ご婦人にやめてくれとせがまれ、何と口止め料として五ポンド渡されたそうです。言い訳は全くなく、その場は事が流されました。とはいえ、ひどく心残りだった乳母は、そのとき以来、奥様の動きに気を付け、情もあって赤ん坊をより近くから見張ることにしました。すると、こちらが見張っているときには、向こうからも見張られている気がして、さらに赤ん坊をひとりにしておくしかないときなどは、毎回手を出そうと待ち構えているというではありませんか。


(5)昼に夜に乳母が子どもを守り、昼に夜に母親が静かに監視しながら、羊を待つ狼のごとく待ち伏せていると。先生にはまったく途方もないことに思われましょうが、それでも取り合って下さいますようお願いします。ひとりの子どもの命と、ひとりの男の正気がかかっております。ついに来るある日、恐ろしいことに、旦那様にも事が露見してしまいました。もはや気が気でない乳母が、緊張に耐えられず、一切の胸のうちをぶちまけたのです。彼には突飛な話に思えましたし、今の貴方様とて同じでしょう。自分の知る奥様は愛の深い妻、義理の息子に手を上げることを除いては、情のある母親です。その女がどうして愛しい実の子を傷つけましょうか。乳母に告げます。お前は夢でも見ているのか、そんな疑いは馬鹿馬鹿しいにもほどがある、雇い主へのかくなる侮辱は到底許され得ない、と。ところが話の最中に、いきなり痛みに泣きじゃくる声が聞こえてきます。乳母と主人はふたり子ども部屋に駆け込みました。そのときの心境お察し下さい、ホームズ先生。何と彼の目の前で、奥様が乳児用寝台のわき、膝を突いた状態から立ち上がり、そしてむき出しになった子どもの首と敷布には、血があったとか。悲鳴を上げて、奥様の顔を光に当てると、唇のあたりは血にまみれておったそうで。彼女が――まさしく彼女本人が――かわいそうに、赤子の血を飲んだのです。これが事の次第です。ご婦人は自室に閉じこもりましたが、やはり言い訳ひとつもございません。旦那様は気も狂わんばかりです。彼も私も吸血鬼信仰については言葉以上のことは存じません。国の外の突飛な作り話ほどに思っておりました。それなのに、ここイングランドはサセックスのただなかで――


(6)いえ、このことはみな明朝ご相談できればと存じます。お会い頂けますか。取り乱した男のお力になって下さいますか。受けて頂けるなら、どうかランベリはチーズマン屋敷のファーガソンまでご電報を。明朝一〇時までにはお伺いする所存。
敬具 ロバート・ファーガソン
追伸 確かご友人のワトソンはブラックヒースでラグビーをされていたかと。そのとき私はリッチモンドのスリークォーターでした。申し上げられる自己紹介はこれくらいしかございません。「もちろん覚えているとも。」と言いながら私は手紙を下に置く。「でかボブ・ファーガソン、歴代でもリッチモンド一のスリークォーターだ。いつもお人好しのやつだったから、こうして友人の事件に首を突っ込むなど、あいつらしいな。」ホームズは感慨深げに私を見据えると、首を振った。「君は底知れないね、ワトソン。君にはまだ秘めたる可能性がある。文面の書き取りをよろしく。『貴君の案件喜んで調査する所存。』」「貴君とな!」「当事務所がぼんくらの巣と思われては困る。むろん差出人本人が当事者だ。その電報を送りたまえ、あとは朝まで寝かしておこう。」 時間通り明朝一〇時、ファーガソンが我々の部屋に乗り込んできた。私の記憶では、ひょろ長い身体に手足をぶらりと提げ、身のこなし素早く敵のバックスをかわす男だった。まさか全盛期は一流で知られた選手の無様な姿を見ることになろうとは、これほど痛ましいことはない。大柄の体格も崩れ、亜麻色の髪も薄くなり、肩も垂れている。とはいえ私も相手に同じ想いを抱かせたはずだ。「やあやあワトソン。」という彼の声は、変わらず太く、心のこもったものだった。「さすがにあのときの君とはいかないか、ほら君をロープの向こう、旧鹿苑の観衆のなかへ投げ込んだろ。こっちもちょっとは変わったが、この一日二日でめっきり老けてね。電報によればどうも、ホームズ先生、代理人のふりは無駄だったようで。」


(7)「直の方が話が早い。」とホームズ。「その通りです。とはいえ考えてもみてください、難しいですよ、自分が守り助ける義務のある女性のことを訴えるなんて。僕に何が。こんな話を警察に持ち込むなんてとても。それに子どもたちも守らねば。狂気ですか、ホームズ先生。血筋が何か? 似たような案件のご経験は? お願いです、ご助言を。もう途方に暮れて。」「ごもっともです、ファーガソンさん。さあお座りに、落ち着いて、いくつか質問にご回答を。僕が途方に暮れるまではまだまだ時間も充分、僕らで何かしらの解決策を必ずやお見つけ差し上げます。まずは、すでになさった対処について。御前様は今もお子様のおそばに?」「あれはすさまじい光景でした。実に情の深い女性なのです、ホームズ先生。女から男への全身全霊の愛ということなら、むろんあるわけで。本人も心から苦しんでいます、このおぞましい、この信じがたい秘密を私に知られたことで。口も開かず、責めても返す言葉もなく、ただ私をじっと見つめ、その瞳は取り乱し打ち拉がれたかのようで。そのあと自分の部屋へ駆け込み、閉じこもりました。以来、顔も合わせてくれず。彼女には結婚前からそば付きの女中がおりまして、名をドローレス――召使いというより友人です。食べ物はその者が運んで。」「ならばその子に差し迫った危険はないと?」「メイソンおばさん、乳母が夜も昼も絶対離れないと。私も信頼しきっております。ひとつ不安があるとすれば、幼いジャックのことで。かわいそうに、手紙でも申し上げましたが、二度手荒いことをされていて。」「だが怪我はない?」「ええ、打ち据えただけですから。身体の不自由な、害のない子だけに、不憫で。」


(8)ファーガソンのやつれた顔も、この少年の話をするときはほころんだ。「この子の有様を観たら誰だって心和らぐとご納得に。幼い頃、高いところから落ちて脊椎を痛めまして、ホームズ先生。けれども情の深い愛しい子なのです。」 ホームズは昨日の手紙を拾い上げて読み始める。「お屋敷にそのほか住み込みは、ファーガソンさん?」「最近入った召使いがふたり。馬番がひとり、このマイケルも屋敷で寝起きを。家内に私、息子のジャックに赤ん坊、ドローレス、あとメイソンおばさんで、全員です。」「となると、結婚の時点では御前様のことをよくご存じではなかった。」「知り合ってほんの数週間後で。」「女中のドローレスと御前様はどれくらいご一緒に?」「数年は。」「でしたら御前様の人となりはあなたよりドローレスの方がよくご存じ。」「はい、その通りかと。」ホームズは書き留める。「思うに、ここよりランベリにいた方が僕もお役に立てるかと。案件の出来からして、自ら調べるべきです。ご婦人がまだお部屋なら、出向いてもお邪魔にもご迷惑にもなりますまい。むろん僕らは宿を別に取ります。」 ファーガソンはほっとした素振り。「願ったり叶ったりです、ホームズ先生。お越しならヴィクトリア駅二時発にうってつけの列車が。」「もちろん伺います。さしあたり暇もありますから、これのみに全力を。ワトソン、むろん一緒に来ること。しかし発つ前にひとつふたつ確認したい点が。この問題のご婦人、聞く限り実の子、あなたの連れ子、どちらの子にも手をお上げのようですが。」「そうですよ。」「ところが手の上げ方は違っている、そうですね? あなたの連れ子には叩くだけ。」「一度は鞭で、もう一度は手でしたたかに。」


(9)「なぜぶったのか本人の弁解はなく?」「ただただ憎しみからです。本人も何度もそう口に。」「ふむ、継母としてはなくはありません。先妻への嫉妬、と申しましょうか。ご婦人はもとより嫉妬深い?」「ええ、大変やきもちで――南国生まれの激情がなせるわざです。」「しかし少年――確か一五で、おそらくは知恵はかなりついている。身体を動かすのは限度があるだけに。彼は手を上げられたことに一言も?」「ええ、ただ訳が分からないとだけ。」「ふたりには、仲が良いときも?」「いえ、お互い愛情なんてとても。」「しかしお話では彼は情が深いと。」「あれほど親になつく息子はそうおりません。何でも私の真似をして、わたしの言葉ふるまいを追いかけて。」 再びホームズは書き留め、座ったまましばらく物思いに耽る。「なるほど、あなたとお子さんは再婚まで大親友と。もはや同志にも似たものであったのでは?」「そりゃあもう。」「では、その情が深いというお子さんなら、きっと実の母の思い出も大切に。」「ひたむきなほどに。」「確かにたいへん興味深いお子さんかと。さて手を上げた件でもうひとつ。赤子への奇行と、連れ子へ手を上げたこと、これらは同時期のことでは?」「初回はそうです。妙な考えにでも取り憑かれたのか、どちらにも怒りを露わに。二回目の被害はジャックだけです。メイソンおばさんから赤ん坊については何も聞いてません。」「いかにも込み入ってきた。」「まったくついていけないのですが、ホームズ先生。」「そうでしょうとも。人とは仮説を立てた上で、時を待つか、それを論破する十二分の情報を待つかするもの。悪い癖です、ファーガソンさん。しかし本来の人間とは弱いもの。遺憾ながらここにいるわが親友は、僕の科学的手法を大げさに見ておりまして。とはいえ当座はこう言っておきます。


(10)この件、僕には不可解とも思えません。それでは二時ヴィクトリア駅でお目に掛かりましょう。」曇りで霧も深い一一月の夕べのこと、ランベリの宿チェカーズに荷を預け、我々は馬車で、曲がりくねった長いサセックスの泥道を抜け、ようやくファーガソンの住む、周囲に何もない古い地主屋敷へと辿り着く。大きいがまとまりのない建物で、中央の本館は古いが、両翼は新しくテューダー様式の煙突がいくつもそびえ、こけむしたホーシャム板の尖り屋根がついている。戸口は角が丸くすり減り、張り出し玄関を縁取る古い瓦には、元の建築主にあやかってチーズと人の判じ絵紋が記されていた。内部は、波打つ天井ががっしりした楢の梁に支えられ、床はたわんで反り返っているため平らでない。年月と老朽からくる匂いが、崩れかかった建物全体に充溢していた。 さて中央の大広間へファーガソンの案内で入る。ここでは、奥に一六七〇年とある、鉄柵付きの大暖炉のうちで、立派な薪の火が音を立てて燃えていた。その部屋をぐるりと見回すと、時代・場所様々なものの入り乱れ方が実におかしい。壁半分、鏡板(かがみいた)仕立ての部分は一七世紀の元持ち主のものと思われるが、裾部分の飾りには凝った今様の水彩で帯が引かれている。それでいて上部、楢の代わりに黄色い漆喰を用いたところに懸けられたのが、ずらりと揃った南米の武器具、階上のペルーのご婦人が持ち込んだに違いない。立ち上がったホームズは、あの本意気の際の興味津々ぶりを見せて、用心しつつあらためる。戻ってきたときの瞳は、どうにも思案気だった。「おや! おや!」とそのとき声。スパニエル犬が一匹、隅のかごで横になっていた。のろのろと主人へと近づくが、うまく歩けていない。


(11)後ろ足の動きが不自然で、尾は床についたままだ。ファーガソンの手をなめる。「どうしました、ホームズ先生?」「この犬、どこか具合でも?」「それが獣医も頭を痛めてまして。麻痺の一種で、脊髄膜炎だとか。まあ治まりつつあるので、じきに治るでしょう――だな、カーロ? そうだとばかりに垂れた尾がふるえる。犬は悲しげな目で我々を順に見やった。自分の話だとわかっているようだ。「症状は急に?」「一晩を境に。」「いつ頃から?」「四ヶ月ほど前です。」「目に付く。やはり裏がある。」「裏って何です、ホームズ先生?」「想定済みのことを確かめたまで。」「お願いです、どういう[#「どういう」に傍点]ことです、ホームズ先生? 先生にはほんの知的なパズルかもしれませんが、私には生きるか死ぬかなんです! 家内が殺人鬼になるかもしれない――息子は今も危険なんです! もてあそばずに、ホームズ先生、事は深刻なんですよ。」 大柄な元ラグビー選手は全身をふるわせている。ホームズは落ち着かせようと手を相手の腕に置いた。「僕はね、ファーガソンさん、何であれ解決そのものがあなたの苦しみになるやもと心配で。全力でお救いする所存。さしあたり申し上げられるのはこれのみですが、この館を発つ前にははっきりとした事もつかめるかと。」 「本当にお願いしますよ! すいませんが、みなさん、私は家内の部屋へ行って、変わりないか確かめなくては。」依頼人が数分不在のあいだ、ホームズは再び壁の珍しい品々を調べ出す。やがて戻ってきた屋敷の主人だったが、思わしくない顔を見せたので、進展がなかったに違いない。ただ連れてきた人物がひとり、長身細身の小麦肌の娘だ。ファーガソンは言う。


(12)「お茶の支度はできている、ドローレス。ご主人に不自由のないよう頼む。」「あの方、具合、悪い。」と声を上げる娘は、屋敷の主人を責めるような目で見つめていた。「何も、食べない、言う。具合、悪い。医者、見せる。ふたりだけ、医者いない、わたし、怖い。」ファーガソンが私の方へ、何か訴えるように目を向ける。「私なんぞで何かお役に立てますかな。」「ご主人さまは、医者に会ってくれるのか?」「わたし、連れてく。ほっとけない。医者、見せる。」「では君とすぐさま出向くとしよう。」 私はその娘についていった。その子は感情の高ぶるあまりふるえていた。階段をのぼり、古い廊下を奥へ。突き当たりに鉄のかすがいがついた大扉があった。これでは、さしものファーガソンでも妻のところへたやすくは押し入れない、本人もそのことに気づいただろう。娘が懐から鍵を取り出すと、厚く重い楢板が蝶番をきしませる。私が入室すると、うしろから娘も滑り込み、後ろ手に扉の錠をかける。寝台に横たわっている女性が高熱なのは間違いない。意識は朦朧としていたが、私がお邪魔すると、怯えつつも美しい両の瞳をあげて、不安げにこちらをにらむ。見知らぬ人物とわかってどうもほっとしたのか、ため息をついてまた枕に頭を沈める。励ましの言葉をかけながら近寄るも、じっとして動かないので、そのあいだに脈と熱を測った。どちらも値(あたい)は高かったが、個人的印象としては、どうもこの容態は、具体的な発作というよりむしろ心と気が高ぶったためになったものらしい。「こんな調子、一日、二日。心配、死ぬ?」と娘。その女性は火照った端正な顔を私に向ける。「夫はどこ?」「下で会いたがっていると思います。」


(13)「わたしは会いたくない、会うものですか。」ところがそのあとうなされて話がそれる。「鬼! 悪魔! あの悪魔、どうすれば!」「何かしてほしいことは?」「ない、誰も何もできない。終わり。みんな破滅。何をしても、破滅なの。」そのご婦人は妙な妄想にとりつかれたに相違ない。あの正直者のボブ・ファーガソンの人となりから、鬼や悪魔は見えそうにない。「奥様、旦那様は心からあなたをお愛しです。こんなことになって深く悲しんでおいでです。」 再びその女性は私にその見事な瞳を向ける。「わたしを愛している。ええ。でもわたしがあの人を? 愛してないとでも? あの人の心が砕けるくらいなら、わたしは犠牲になったっていい。それほど愛してるのに。それなのに、わたしのことを、あんなふうに、思うなんて――言うなんて。」「嘆いておいでですが、訳が分からないのです。」「ええ、そうでしょう。でも信じてさえくれれば。」「会いたくはない?」と私が持ち出しても。「ええ、ええ。あんな恐ろしい言葉、あんな形相、忘れられません。会いません。出てって。何もしていただかなくて結構。ひとつだけ伝えて。わたしの子どもを返して。生みの親はわたし。あの人に言えるのはそれだけ。」顔を壁に向けた女性は、それ以上は口を閉ざした。 私が階下の部屋へと引き返すと、ファーガソンとホームズはそのまま炉辺で座っていた。上でのやりとりのあらましを聞くファーガソンは、いかにも不機嫌だった。「あの女に子どもを渡せるもんか。また妙な気を起こされるか、知れたもんじゃない。焼き付いて離れない、あの子のわきから、口を血塗れにして立ち上がったあの姿!」思い出してぞっとする依頼人。


(14)「子どもはメイソンさんに預ければ大丈夫、そのままにしておくべきだ。」細身の女中は、この屋敷内で目にした唯一今風のものだが、その人物が茶を運んできた。給仕している最中に、扉が開いて少年がひとり部屋に入ってくる。目を引く子で、青白い顔に金髪、感じやすい水色の瞳が突如として情念の炎に燃えたのは、それが父親に注がれたときだった。駆け寄ったその子は、腕を父の首に回す。恋に恋する乙女が気のままにするように。「ああ、パパン。」と声を張る。「まだ帰ってないって思ってた。会えるんなら待ってればよかった。でもお顔見れて嬉しい!」 ゆっくりとその抱擁をほどくファーガソンは、いささか戸惑っているようだった。「いい子だねえ。」と心のこもった手でその亜麻色の頭をなでる。「早めに帰ってきたのは、友だちのホームズ先生とワトソン博士を口説いて、午後をこちらでご一緒してもらうことになったからなんだ。」「その人がホームズ先生、探偵の?」「ああ。」 少年は我々を穴の開くほど見つめたが、どうも私には敵をにらんでいるかのように感じられた。「もうひとりのお子さんは、ファーガソンさん?」と訊ねるホームズ。「ご令息とお近づきになっても?」「メイソンさんに赤ん坊を連れてきなさいと。」とファーガソン。少年は出ていくとき妙にぎこちない走り方をしたが、外科的な目には、背骨を痛めているせいだとわかる。まもなく帰ってくると、その後ろから背の高いやつれた女性がやってきた。腕に抱かれていたのはたいへん美しい赤子、黒目で金髪、サクソンとラテンの見事な融合だった。ファーガソンが首ったけなのはまるわかりだ。腕に抱えると、愛おしむようになで回したのだ。


(15)「この子を傷つけようとするやつがいると思うと。」とつぶやきながら目を下ろしたその先は天使の喉、そこに小さく腫れた赤い痕があった。まさにこの瞬間、たまたまホームズに目をやると、その表情はなぜかひどく張りつめていた。こわばる様はさながら古い大理石の彫刻のようで、父子に刹那視線を注いだが、すぐさま食い入るように部屋の反対側の何かを見つめる。その先を追いかけると、どうも窓越しに雫落ちるわびしい庭を見ているとしか思えない。なるほど鎧戸は外に半開きで、眺めも遮られているのに、にもかかわらずホームズが意識を集中させているその先は、紛れもなく窓なのである。そのあとほほえむと、また目を赤子へと戻した。丸い首には小さな腫れ痕。物も言わずホームズは、注意深くあらためる。最後に、前で振られていた赤子の丸くなった手と握手をした。「ごきげんよう、坊や。君の人生は不思議な始まり方をしてしまった。乳母は君か、できれば内々に少々話をしたいのだが。」 友人は乳母をわきへ連れていき、数分立ち入った話をしたようだ。聞き取れたのは最後の切れ端だけで、こうだった。「君の心配事はおそらく、まもなく解決される。」乳母は無口で気難しい類の人物らしいが、赤子を連れて引き下がった。「メイソンさんはいかなる人物で?」と訊ねるホームズ。「ご覧の通り、愛想はいまいちですが、心は純粋、子どものためを思ってます。」「君はあの人好きか、ジャック?」いきなりホームズは少年の方を向く。そのころころ表情の変わる顔がさっと曇り、首が振られる。「ジャッキーは好き嫌いが激しくて。」とファーガソンは少年に腕を回す。「幸い、私は好きの方ですが。」 少年は喉を鳴らして、父親の胸に頭を埋める。ファーガソンはゆっくりそれをほどく。


(16)「あっちへお行き、ジャッキー。」と言って、姿を消すまで温かい目で息子を見送る。「さてホームズ先生。」と少年が去ると話の続きだ。「正直のところ、あなたに無駄足を踏ませてしまったかもしれません。同情以外何をしていただけましょう。あなたの目から見てもさぞや扱いがたく、ややこしい案件でしょう。」「確かに扱いがたい。」と友人は楽しげなほほえみを見せる。「ですが今のところ、ややこしいところに出くわしては。これは一貫して、知性による演繹の対象。大量にある個々の事象からひとつひとつ、初めに行った演繹の裏付けがとれていく、そうしてこそ主観は客観となり、自信を持って目的地に着けたと言えましょう。実際ベイカー街を発つ以前に僕は辿り着いていましたから、残るはただ観察と確認のみ。」ファーガソンはその大きな手を、皺寄った額に当てる。「頼みますからホームズ先生。」と声もかすれがすれ。「この件の真相がわかっているなら、私を宙ぶらりんのまま放っとかんでください。もう無理です。何をすれば。筋道はどうでもいいんです、あなたが本当に答えを見つけさえしたんなら。」「むろん僕にはあなたへ説明する義務があり、じきに致します。しかし僕の流儀で案件を取り扱うことお許し願いたい。ご婦人との面会は叶うかな、ワトソン?」「具合は悪いが、頭の方ははっきりしておる。」「結構。彼女が立ち会って初めて事が片付く。さあ上の部屋へ。」「私とは会いたくなかろう。」と声を張るファーガソン。「そうでしょうとも。」とホームズは一枚の紙に数行走り書きをする。「ともかく君は立ち入りを許されている。ワトソン、この言伝(ことづて)をご婦人に渡してもらえるとありがたい。」


(17)私は再び昇り、私から言伝を渡されたドローレスが慎重に扉を開ける。一分して聞こえてきたのは、室内からの嗚咽で、そこには喜びと驚きが入り交じっていた。ドローレスが顔を出して、「会いたい、言う。聞きたい、言う。」呼びつけると、ファーガソンとホームズも上がってきた。我々が入室し、ファーガソンは一、二歩妻へと歩み寄る。ご婦人は寝台の上で身体を起こしていたが、手を突き出して相手を押しとどめた。依頼人は肘掛け椅子に座り込み、かたやホームズはご婦人に挨拶したあと、依頼人のわきに腰掛ける。ご婦人は驚きのあまり目を見開いていた。「ドローレスに外してもらっても大丈夫かと。」とホームズ。「ああ結構です、マダム。あなたがいてほしいと望むなら異存ありません。さてファーガソンさん、僕も引く手あまたのせわしい身、やり口は単刀直入を旨としております。手術素早いほど痛み少なし。まずあなたの心落ち着くことから申し上げたい。御前様は実に善良で愛情深い女性で、現在不当な扱いを受けております。」 ファーガソンは喜びの声とともに身を起こす。「ご証明を、ホームズ先生。そうすればいつまでも恩に着ますよ。」「そうしたいのですが、そうすれば、あなたを別の角度から深く傷つけることに。」「家内を潔白にして下さるのなら、そんなことどうでも。これに比べれば地球上のあらゆるものも下らんです。」「では言わせて頂きますが、この一連の推理はベイカー街で頭によぎったもの。吸血鬼なる考えは僕には荒唐無稽。イングランドでもそのような犯罪例は実際にない。とはいえあなたの見たことは精密。あなたの目に映ったこのご婦人は、乳児用の寝台のわきから身を起こしたとき、口が血まみれだったと。」


(18)「はい。」「そのとき思い浮かばなかったのですか? 血の流れるその傷跡、吸われたのは何か別の理由からで、血を飲むためではなかったのではと。イングランド史にも女王がひとりいませんか、その種の傷から毒を吸い出した人物が。」「毒!」「南米のご家庭。目で見るより先に、壁に武器があるのではと直感を。他の毒の可能性もあれ、思い当たったのはそれ。伺うと空(から)の小さな矢筒が鳥を撃つ弓のわきに、まさに我が意を得たり。もし子どもがクラーレなり何か他の邪悪な薬なりに浸された矢の一本に刺されようものなら、意味するところは死。その毒が吸い出されない限りは。そしてあの犬! 人があのような毒を使うとなれば、まずその効力が切れてないか確かめるため、試してみませんか。犬のことは予見できなかったといえ、少なくとも見ればわかります。解釈にも符号していました。もうおわかりですね。御前様はこういった攻撃を恐れていたのです。その現場を目にして子どもの命は救えたものの、ただあなたに事の真相をなかなか言い出せない。というのも、あなたの連れ子への愛の深さは重々承知、そのことであなたの心を傷つけては思ったのです。」「ジャッキー!」「先刻あなたが赤子を抱えたとき、僕の目は彼にありました。顔がくっきりと、鎧戸を後ろにした窓硝子に映ったのです。見えたのは、すさまじい嫉妬、すさまじい憎悪、あのようなもの、僕とて人の顔にそう見たことがない。」「おおジャッキー!」「向き合わねばなりません、ファーガソンさん。それがあなたへの歪んだ愛、狂おしいまでに肥大した愛であるだけに、いっそう苦しいものです。おそらくは亡き母への愛もその行動へ駆り立てた。


(19)彼のその魂は、あの素敵な赤子への憎しみの虜。かたや健やかで美しいのに、自分ときたらひ弱で正反対。」「おお主よ! 信じられん!」「僕の話で合ってますか、マダム?」 ご婦人はすすり泣いており、顔を枕に埋めていた。さて旦那の方へ向き直り、「どういえばよかったのか、ボブ。きっとあなたの痛手になるって。こらえて、わたし以外の誰かから伝えてもらった方がいいって。この魔法の力か何かをお持ちの紳士が、すべてご存じと知らせてくださったとき、ほっとして。」「思うに、ジャッキー坊ちゃまへの処方としましては、一年間の海上生活が相応かと。」と椅子から腰を上げつつホームズは言う。「ただひとついまだおぼろげなことが、マダム。ジャッキー坊ちゃまに手を上げた件は今や明々白々。母親としての我慢にも限度が。しかしこの二日お子さんをよく手放せましたね。」「メイソンさんには打ち明けて、ご存じで。」「まさしく想像の通り。」 ファーガソンは寝台のかたわらで立ち尽くし、息も荒く震えながらも手を伸ばす。「そろそろお暇する時間かな、ワトソン。」とホームズのささやき声。「君があの気の利かないドローレスの肘を取るというのなら、僕ももう片方を取ろう。ほら、よし。」そして後ろ手に扉を閉めながらもう一言。「思うに、あとのことは本人らに任せたがよかろう。」 私がこの件について付け加えることはあとひとつだけ。それはホームズが、この物語の発端に対して、締めとして書いた返事だ。中身はかくのごとし。
ベイカー街
一一月二一日   吸血鬼の件
拝復
 一九日付のご来信について、当方、貴社依頼人ロバート・ファーガソン氏(ミンシン横町の紅茶卸ファーガソン&ミュアヘッド経営)の調査を請け負い、案件を無事解決したことを恐れながらここに申し上げます。このたびのご推薦恐悦至極。
敬答
シャーロック・ホームズ


アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle
大久保ゆう訳

サセックスの吸血鬼(前半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「サセックスの吸血鬼」の前半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。19の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎日1つ黒色から灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)ホームズがつぶさに読んでいた手紙は、先刻届いたものだった。済むと、本人としては大笑いに等しいあのいつもの乾いた含み笑いをし、その紙を私に投げてよこす。「現代と中世、現実と妄想の混ぜものとしては、思うにこれは極めつけだ。」と友人。「これをどう見るね、ワトソン?」私が読んだ文面は次の通り。
オールド・ジューリ四六
一一月一九日   吸血鬼の件
拝啓
 当社依頼人ロバート・ファーガソン氏(ミンシン横町レーンの紅茶卸ファーガソン&ミュアヘッド経営者)より同日付の書簡にて当社へ吸血鬼に関して照会がございました。当社の専門は機械類査定に限られ、本件は取扱業務外となるため、貴殿をご訪問の上、ご依頼することを薦めた次第。当社はマティルダ・ブリッグス案件でのご活躍を記憶するものにて。
敬具
モリソン=モリソン&ドッド EJC拝
「マティルダ・ブリッグスとは妙齢の女の名ではないよ、ワトソン。」ホームズの声はなつかしむよう。「船だ、スマトラの巨大ネズミの関わりでね、この話はまだ世間に出すには早いが。とはいえ僕らが吸血鬼の何を知ると。僕らなら取扱業務内とでも? 何であれ仕事がないよりましだが、まったく、グリム童話とでも向き合わされているようだ。手を伸ばしたまえ、ワトソン、Vの項目の確認だ。」私は反り返って、ご注文たるいつもの大備忘録を手に取る。ホームズは片膝に上手く載せ、ゆっくりと愛おしむように目を過去の事件簿の上に滑らせた。積もり積もった生涯の見聞とも結びつくものだ。「V……グローリア・スコット号の航海か。」と読み上げる友人。「あれはひどい事件だった。君も書き留めたね、懐かしい。ワトソン、出来たものは、僕としても褒められたものではないが。ヴィクタ・リンチ、偽造犯。毒トカゲ、別名ヒーラ。注目に値する案件、だ!


(2) ヴィットーリア、サーカスの美女。ヴァンダビルト強盗団。毒蛇。ヴァイゴル、ハマースミスの怪異。ほお! ほおお! 昔なじみの備忘録。君以上の働きだ。さて傾聴せよ、ワトソン。ハンガリーの吸血鬼信仰。さらなるは、トランシルヴァニアの吸血鬼。」熱心に紙をめくるも、しばらく読み耽ったのち、その厚い冊子を当てが外れたとうなりつつ放り下ろす。「ゴミだ、ワトソン、ゴミだ! 僕らにどう対処しろと! 心臓に杭を打たねば墓に鎮められぬ歩く死体なんぞ! 愚かしいにもほどがある。」「しかしだね。」と私。「吸血鬼も死人(しびと)とは限らんよ。生きた人間にも癖になる者がある。本にもな、たとえば若者の血を吸っておのれの若さを保とうとするご老体などが。」「その通りだ、ワトソン。先ほどの資料にも伝説への言及はある。とはいえ、そのようなもの真面目に取り上げたものか。当事務所は現在足をしかと地につけて立っており、今後もそうあらねばならぬ。世の中とは僕らでも手に余る。妖(あや)かし様お断り。残念ながらロバート・ファーガソン氏とはまともに取り合えそうもない。当人からと思われるこちらの手紙が、彼の頭痛の種に少しく光を当ててくれるやも。」友人は二通目の手紙を取り上げる。一通目に取り組むあいだ見向きもされず卓上に置かれていたものだ。これに目を通し始めるや、友人の顔に楽しげな笑みが浮かび、次第に強い興味と本意気を示す表情へと移り変わる。読んだあとは座ったまま、指から手紙をぶら下げ思案に耽った。やがてはっとしたように物思いから目覚め、「ランベリのチーズマン屋敷。ランベリの場所は、ワトソン?」「サセックス州、ホーシャムの南だ。」「そう遠くない、ね? それからチーズマン屋敷とは。」


(3)「私の知識によれば、ホームズ、その土地は古い館の多いところで、名は何世紀も前にそれらを建てた人々にちなんでいる。「そう遠くない、ね? それからチーズマン屋敷とは。」「私の知識によれば、ホームズ、その土地は古い館の多いところで、名は何世紀も前にそれらを建てた人々にちなんでいる。つまりオドリ屋敷なりハーヴィ屋敷なりキャリトン屋敷なり――まあ名前以外忘れられたかつての住人たちというわけだ。」「当たり前だ。」とホームズの素気ない返事。いつものことだ、性格は高慢ちきで自分本位、脳内へ新情報を書き入れるのは迅速にして正確だが、仕入れ先にはたいていお礼の言葉もない。「何にせよランベリのチーズマン屋敷のことなど、片付く頃には嫌でもわかろう。差出人は期待通りロバート・ファーガソン。時に、当人は君と知り合いだとか。」「私と!」「読むがよかろう。」 友人から手紙を手渡される。冒頭には今引き合いの住所があった。
 拝啓 ホームズ先生
 得意先の弁護士より貴方様を紹介されましたが、実のところ本件は並外れて扱いづらく、ご相談しづらい問題なのです。私は代理人で、当事者は友人、この紳士は五年ほど前ペルー人女性と結婚しました。ペルーの商人のひとり娘で、硝酸肥料の輸入つながりで出逢ったのです。ご婦人は美人でしたが、異国の生まれであること、宗教が違うことから、いつも夫婦のあいだでは好き嫌いや気持ちのすれ違いが起こりまして、そのためしばらくするとご婦人への愛も冷め、一緒になったのは間違いだったと思うようになったらしく。彼からして、ご婦人の人となりに首をかしげるところがあったのです。なおさら痛ましいのは――ご婦人がどこから見ても男子一身の愛を捧げるに足る貞淑な人物であることであります。


(4)さて要点につきましては、お伺いの際に明らかにするつもりです。正直のところ、この手紙は単に現状の概略をお伝えし、この件にご関心を持って頂けるか確認するためのものです。ご婦人はその優しく穏やかな気立てには、きわめて不釣り合いな、おかしな素振りを見せ始めたのです。紳士の結婚は二度目で、先妻とのあいだ息子がひとりおります。この子はもう一五で大変愛らしく優しい男の子ですが、不運にも幼い頃の事故で障害がありました。また、まったくいわれのない理由で、かわいそうにその子が今の妻に手を上げられたのが、二度目撃されております。一度などは鞭で打ち据えられたため、腕がみみず腫れになったほどです。このことでさえ、実の子に取った仕打ちに比べれば些細なことです。まだ一歳にも満たない可愛いお子さんなのに、一ヶ月ほど前のあるときのことです。乳母が数分この子から離れたすきに、痛みにうめく声があって、あわてて戻った乳母が部屋に飛び込んで目にしたのは、赤ん坊に覆い被さって、どうやら首筋に噛みついている様子の雇い主のご婦人です。首には小さな傷があり、そこから血の筋が垂れていました。ぞっとするあまり乳母は旦那様を呼ぼうとしましたが、ご婦人にやめてくれとせがまれ、何と口止め料として五ポンド渡されたそうです。言い訳は全くなく、その場は事が流されました。とはいえ、ひどく心残りだった乳母は、そのとき以来、奥様の動きに気を付け、情もあって赤ん坊をより近くから見張ることにしました。すると、こちらが見張っているときには、向こうからも見張られている気がして、さらに赤ん坊をひとりにしておくしかないときなどは、毎回手を出そうと待ち構えているというではありませんか。


(5)昼に夜に乳母が子どもを守り、昼に夜に母親が静かに監視しながら、羊を待つ狼のごとく待ち伏せていると。先生にはまったく途方もないことに思われましょうが、それでも取り合って下さいますようお願いします。ひとりの子どもの命と、ひとりの男の正気がかかっております。ついに来るある日、恐ろしいことに、旦那様にも事が露見してしまいました。もはや気が気でない乳母が、緊張に耐えられず、一切の胸のうちをぶちまけたのです。彼には突飛な話に思えましたし、今の貴方様とて同じでしょう。自分の知る奥様は愛の深い妻、義理の息子に手を上げることを除いては、情のある母親です。その女がどうして愛しい実の子を傷つけましょうか。乳母に告げます。お前は夢でも見ているのか、そんな疑いは馬鹿馬鹿しいにもほどがある、雇い主へのかくなる侮辱は到底許され得ない、と。ところが話の最中に、いきなり痛みに泣きじゃくる声が聞こえてきます。乳母と主人はふたり子ども部屋に駆け込みました。そのときの心境お察し下さい、ホームズ先生。何と彼の目の前で、奥様が乳児用寝台のわき、膝を突いた状態から立ち上がり、そしてむき出しになった子どもの首と敷布には、血があったとか。悲鳴を上げて、奥様の顔を光に当てると、唇のあたりは血にまみれておったそうで。彼女が――まさしく彼女本人が――かわいそうに、赤子の血を飲んだのです。これが事の次第です。ご婦人は自室に閉じこもりましたが、やはり言い訳ひとつもございません。旦那様は気も狂わんばかりです。彼も私も吸血鬼信仰については言葉以上のことは存じません。国の外の突飛な作り話ほどに思っておりました。それなのに、ここイングランドはサセックスのただなかで――


(6)いえ、このことはみな明朝ご相談できればと存じます。お会い頂けますか。取り乱した男のお力になって下さいますか。受けて頂けるなら、どうかランベリはチーズマン屋敷のファーガソンまでご電報を。明朝一〇時までにはお伺いする所存。
敬具 ロバート・ファーガソン
追伸 確かご友人のワトソンはブラックヒースでラグビーをされていたかと。そのとき私はリッチモンドのスリークォーターでした。申し上げられる自己紹介はこれくらいしかございません。「もちろん覚えているとも。」と言いながら私は手紙を下に置く。「でかボブ・ファーガソン、歴代でもリッチモンド一のスリークォーターだ。いつもお人好しのやつだったから、こうして友人の事件に首を突っ込むなど、あいつらしいな。」ホームズは感慨深げに私を見据えると、首を振った。「君は底知れないね、ワトソン。君にはまだ秘めたる可能性がある。文面の書き取りをよろしく。『貴君の案件喜んで調査する所存。』」「貴君とな!」「当事務所がぼんくらの巣と思われては困る。むろん差出人本人が当事者だ。その電報を送りたまえ、あとは朝まで寝かしておこう。」 時間通り明朝一〇時、ファーガソンが我々の部屋に乗り込んできた。私の記憶では、ひょろ長い身体に手足をぶらりと提げ、身のこなし素早く敵のバックスをかわす男だった。まさか全盛期は一流で知られた選手の無様な姿を見ることになろうとは、これほど痛ましいことはない。大柄の体格も崩れ、亜麻色の髪も薄くなり、肩も垂れている。とはいえ私も相手に同じ想いを抱かせたはずだ。「やあやあワトソン。」という彼の声は、変わらず太く、心のこもったものだった。「さすがにあのときの君とはいかないか、ほら君をロープの向こう、旧鹿苑の観衆のなかへ投げ込んだろ。こっちもちょっとは変わったが、この一日二日でめっきり老けてね。電報によればどうも、ホームズ先生、代理人のふりは無駄だったようで。」


(7)「直の方が話が早い。」とホームズ。「その通りです。とはいえ考えてもみてください、難しいですよ、自分が守り助ける義務のある女性のことを訴えるなんて。僕に何が。こんな話を警察に持ち込むなんてとても。それに子どもたちも守らねば。狂気ですか、ホームズ先生。血筋が何か? 似たような案件のご経験は? お願いです、ご助言を。もう途方に暮れて。」「ごもっともです、ファーガソンさん。さあお座りに、落ち着いて、いくつか質問にご回答を。僕が途方に暮れるまではまだまだ時間も充分、僕らで何かしらの解決策を必ずやお見つけ差し上げます。まずは、すでになさった対処について。御前様は今もお子様のおそばに?」「あれはすさまじい光景でした。実に情の深い女性なのです、ホームズ先生。女から男への全身全霊の愛ということなら、むろんあるわけで。本人も心から苦しんでいます、このおぞましい、この信じがたい秘密を私に知られたことで。口も開かず、責めても返す言葉もなく、ただ私をじっと見つめ、その瞳は取り乱し打ち拉がれたかのようで。そのあと自分の部屋へ駆け込み、閉じこもりました。以来、顔も合わせてくれず。彼女には結婚前からそば付きの女中がおりまして、名をドローレス――召使いというより友人です。食べ物はその者が運んで。」「ならばその子に差し迫った危険はないと?」「メイソンおばさん、乳母が夜も昼も絶対離れないと。私も信頼しきっております。ひとつ不安があるとすれば、幼いジャックのことで。かわいそうに、手紙でも申し上げましたが、二度手荒いことをされていて。」「だが怪我はない?」「ええ、打ち据えただけですから。身体の不自由な、害のない子だけに、不憫で。」


(8)ファーガソンのやつれた顔も、この少年の話をするときはほころんだ。「この子の有様を観たら誰だって心和らぐとご納得に。幼い頃、高いところから落ちて脊椎を痛めまして、ホームズ先生。けれども情の深い愛しい子なのです。」 ホームズは昨日の手紙を拾い上げて読み始める。「お屋敷にそのほか住み込みは、ファーガソンさん?」「最近入った召使いがふたり。馬番がひとり、このマイケルも屋敷で寝起きを。家内に私、息子のジャックに赤ん坊、ドローレス、あとメイソンおばさんで、全員です。」「となると、結婚の時点では御前様のことをよくご存じではなかった。」「知り合ってほんの数週間後で。」「女中のドローレスと御前様はどれくらいご一緒に?」「数年は。」「でしたら御前様の人となりはあなたよりドローレスの方がよくご存じ。」「はい、その通りかと。」ホームズは書き留める。「思うに、ここよりランベリにいた方が僕もお役に立てるかと。案件の出来からして、自ら調べるべきです。ご婦人がまだお部屋なら、出向いてもお邪魔にもご迷惑にもなりますまい。むろん僕らは宿を別に取ります。」 ファーガソンはほっとした素振り。「願ったり叶ったりです、ホームズ先生。お越しならヴィクトリア駅二時発にうってつけの列車が。」「もちろん伺います。さしあたり暇もありますから、これのみに全力を。ワトソン、むろん一緒に来ること。しかし発つ前にひとつふたつ確認したい点が。この問題のご婦人、聞く限り実の子、あなたの連れ子、どちらの子にも手をお上げのようですが。」「そうですよ。」「ところが手の上げ方は違っている、そうですね? あなたの連れ子には叩くだけ。」「一度は鞭で、もう一度は手でしたたかに。」


(9)「なぜぶったのか本人の弁解はなく?」「ただただ憎しみからです。本人も何度もそう口に。」「ふむ、継母としてはなくはありません。先妻への嫉妬、と申しましょうか。ご婦人はもとより嫉妬深い?」「ええ、大変やきもちで――南国生まれの激情がなせるわざです。」「しかし少年――確か一五で、おそらくは知恵はかなりついている。身体を動かすのは限度があるだけに。彼は手を上げられたことに一言も?」「ええ、ただ訳が分からないとだけ。」「ふたりには、仲が良いときも?」「いえ、お互い愛情なんてとても。」「しかしお話では彼は情が深いと。」「あれほど親になつく息子はそうおりません。何でも私の真似をして、わたしの言葉ふるまいを追いかけて。」 再びホームズは書き留め、座ったまましばらく物思いに耽る。「なるほど、あなたとお子さんは再婚まで大親友と。もはや同志にも似たものであったのでは?」「そりゃあもう。」「では、その情が深いというお子さんなら、きっと実の母の思い出も大切に。」「ひたむきなほどに。」「確かにたいへん興味深いお子さんかと。さて手を上げた件でもうひとつ。赤子への奇行と、連れ子へ手を上げたこと、これらは同時期のことでは?」「初回はそうです。妙な考えにでも取り憑かれたのか、どちらにも怒りを露わに。二回目の被害はジャックだけです。メイソンおばさんから赤ん坊については何も聞いてません。」「いかにも込み入ってきた。」「まったくついていけないのですが、ホームズ先生。」「そうでしょうとも。人とは仮説を立てた上で、時を待つか、それを論破する十二分の情報を待つかするもの。悪い癖です、ファーガソンさん。しかし本来の人間とは弱いもの。遺憾ながらここにいるわが親友は、僕の科学的手法を大げさに見ておりまして。とはいえ当座はこう言っておきます。

踊る人形(後半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「踊る人形」の前半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。29の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎日1つ黒色から灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)ホームズは黙り込んだまま、その細く長い身体を猫背にして、何時間も化学実験室に向かっていた。何かひどくいやな臭いのするものを生成しているのだ――深々とうつむくその様が、私には、ひょろ長い怪鳥(けちょう)に見えた。くすんだ灰色の毛と、黒い鶏冠を持った怪鳥――「だからワトソン――」とホームズが突然口を開く。「君は、南アフリカの証券への投資を思いとどまった。」私は驚きのあまり身を震わせた。このホームズの不思議な力に慣れているとはいえ、どうして私の胸のうちの考えに潜り込めたのか、皆目見当がつかなかった。「いったい、どうしてそのことを?」と、私は聞き返す。ホームズは椅子をくるりと回し、手に試験管を持ったまま、その深くくぼんだ瞳を面白そうに輝かせるのであった。「さあワトソン、ぐうの音も出まい」「まったくだ。」「では、この件について、君に証文を書いてもらわねば。」「なぜかね?」「五分後には、君はきっと『ひどく簡単な話だ』などと言うからだ。」「いやいや、そんなことは言わんよ。」「その、ワトソンくん。」ホームズは試験管を立てかけて、教授が講堂で学生たちに講義でもするていで話し出した。「それぞれ前後をつなげて、ひとつひとつ単純に考えれば、筋道だった推理も、決してそう難しいことではない。たとえば、そのような推理をしておいて、その筋の真ん中を少し向こうへやって、聞き手にその始まりと結論だけを見せようものなら、人をあっと言わせることができるわけだが、まあ、ほんのこけおどしだ。さよう、難しいことではない。君の左の人差し指と親指の間のすり切れた皮膚を考えれば、君が金鉱の株の購入を思いとどまったと確信できる。」



(2)「どういう脈略かね。」「そう思って当然。だが、僕にはその深い脈略を手短に説明できる。そこには、ごく単純な連鎖のあいだの、失われた輪がある。一、君は左の人差し指と親指の間にチョークをつけて、昨晩クラブから帰ってきた。二、君はビリヤードの際、キューがすべらないよう、いつもその部分にチョークをつける。三、君のビリヤードの相手は、サーストンだけ。四、君は四週間前、サーストンから、ある南アフリカの株式について一ヶ月期限のオプションを持っているが、できれば君と共同購入したいと持ちかけられた、と言った。五、君の小切手帳は、僕の錠の下りた引き出しの中だが、君はその鍵を欲しいと言っていない。六、かくして君は、投資を思いとどまった。」「まったく、ひどく簡単な話じゃないか!」と私は叫んだ。「無論ね!」と、ホームズが少し機嫌を悪くする。「どんな問題も、いったん君に解き明かせば、みな子どもだましという。だが、ここにいまだ解かれぬものがある。これをどう思うね、ワトソンくん?」ホームズは一枚の紙を机の上に放り出して、また化学の分析の方に向き直った。私はそれを見て驚いた。紙の上には、でたらめな象形文字のようなものが書かれていたのだ。「おい、ホームズ、子どもの落書きかね!」と私は大声で言った。「ほう、そう考えるかね。」「では何だと言うんだ?」「まさにそれを、ノーフォーク州リドリング・ソープ荘園のヒルトン・キュービット氏が、しきりに知りたがっている。この謎かけが今朝の第一便で来て、本人はその次の列車で来ることになっている。ベルの音だ、ワトソン。その人だとしても、僕は驚かぬよ。」重々しい足取りが階段に聞こえたかと思ううちに、一人の紳士が入ってきた。



(3)背が高く、血色も良い、ひげも綺麗に剃った紳士で、その澄んだ目、健康なほおは、ベイカー街の霧の中からはるか離れたところで暮らす人を思わせた。その紳士が部屋の中に入ってきたとき、どこか、きつくさわやかですがすがしい、東海岸独特の香りが漂ってくるようだった。紳士が我々ふたりと握手を交わし、さて腰掛けようとしたとき、不思議な記号の書かれた紙に目をとめた。私が見たあと、机の上に置きっぱなしにしてあったのだ。「ああホームズさん、これをどうお考えですか?」と紳士は声を振り絞る。「あなたは奇妙奇天烈なことがたいへんお好きだそうですが、きっとこれより奇妙なものはご覧になったことがないでしょう。前もってお送りすれば、あらかじめお考えになられるだろうと思ったのです。」「確かに、いくぶん妙ではあります。」とホームズが言う。「初見では、子どものいたずら描きのようにも見える。でたらめな人形が大勢で、書かれた紙の上を並んで踊っているようでもある。なにゆえ、かくも異形なオブジェを、重くお考えになるのですか?」「それは私じゃないんです、ホームズさん。その、私の妻が。これを見て、妻が卒倒しまして。あれは何も言いませんが、目がおびえているのです。ですから、私は、これを最後まで調べたいと思ったのです。」 ホームズは紙切れを取り上げて、日の光に透かしてみせた。それはメモ帳から破り取ったもので、鉛筆で絵が描かれていた。ホームズはしばらくのあいだ、それを調べていたが、やがて丁寧に折りたたみ、自分の手帳のあいだに挟んだ。「これは実に興味深い、まれな事件となりましょう。」ホームズが言った。「ヒルトン・キュービットさん、お手紙のうちで、二三、具体的なことを書いておいででしたが、この友人、ワトソン博士のためにもう一度お話いただけると幸いです。」



(4)「どうも私は話し下手でして、」その依頼人は緊張のため、その硬く大きな手をもじもじさせながら話を始めた。「わかりにくいところは、その都度お訊ねください。昨年、私が結婚したところから始めましょう――いえ、まずその前にお耳に入れておきたいのですが、私の家は、決して裕福ではありませんが、ここ約五世紀の間は今のリドリング・ソープに住んでいて、ノーフォークのあたりでは第一の旧家だということです。昨年の記念祭の折、私はロンドンへ来て、ラッセル・スクエアの宿泊所に滞在しました。それは私の教区で牧師をやっているパーカーさんが滞在していた関係からです。そうするとそこに、アメリカの若いご婦人がいて――パトリックという名前で――エルシィ・パトリックです。いろいろあって私どもは知り合い、帰らねばならぬころには、もう、これでもかというくらいに、恋に落ちておりました。それで私どもは早速、結婚の手続きをすませ、夫婦としてノーフォークに帰りました。おかしいと思われるでしょう、ホームズさん。こんな旧家の人間が、こんなふうにして、相手の過去も家族も知らないままに結婚してしまうなんて……しかし、妻をご覧になり、人となりを知ってくだされば、ご理解いただけるかと思います。とにかくあれは真面目です、エルシィは。私が訊ねさえすれば、包み隠さず言ってくれたと思っています。『わたくしには、とても厭な思い出がございます。』と妻は言うのです。『どうにかして忘れたいと思っております。過去のことは、できれば口にしたくもありません。とても、つらいことですから。ヒルトンさん、あなたが私を求めてくださるなら、あなたはひとりの女を、人として恥ずべきことなど何ひとつない女を得ることになりましょう。その代わり、あなたは、わたくしの言葉を信じて、妻になるより前のことは口を閉ざしても構わない、



(5)
そうおっしゃってくださらねばなりません。もしそれでこのお約束が無理だとおっしゃるなら、どうぞわたくしをこのまま残してノーフォークへお帰りください。』これは私どもの結婚の前日、妻が私に言った言葉です。それで私は妻の言葉をそのまま受け入れて、その後もこの約束をかたく守ってきました。そしてその後私どもはこの一年のあいだ、結婚生活を続けて参りましたが、私どもは実に幸福でした。しかし一ヶ月ほど前、六月の末に、私ははじめてわざわいの兆しを見たのです。その頃、妻はアメリカからの手紙を受け取りました。アメリカの消印があったんです。そのとき、妻の顔は気絶しそうなほどに真っ青で、手紙を読むと、それをそのまま火の中に投げ込んでしまいました。その後、妻は別段そのことについて何も言いませんでしたし、私もまた約束に従って、そのことについては一言も触れませんでした。しかし妻は、それ以来ずっと、何か不安げで――何ごとかにびくびくしているようでした。どうか頼ってくれ。ここに最高の伴侶がいるじゃないか……でも、妻が言い出さなくては、こちらから切り出せない。わかってください、妻は誠実な女性なのです、ホームズさん、もし過去に何かいざこざがあるとしても、妻の落ち度ではないはずです。私はノーフォークの田舎者にすぎませんが、それでも英国随一の旧家だと、妻も存じておりますし、結婚前から認めておりました。まさかその妻が、私の家名を汚すなどありえません。それは絶対です。さていよいよ話が奇怪な部分に進むのですが、一週間ほど前――そうです、先週の火曜日です――私はガラス窓の上に、この紙にあるようなでたらめな、小さな踊る人形が描かれているのを発見しました。それはチョークで殴り描きされていて、私は馬番の少年がやったのだと思ったのですが、その坊主は、全く知らないと言い張るのです。



(6)
とにかく夜に描かれたものでした。私は洗い落としてから、このことを妻に話しました。ところが驚いたことに、妻はそんなものをまじめに取り合って、もしまた描かれたらぜひ見たいと言うのです。それから一週間は描かれなかったのですが、ちょうど昨日の朝、また私は、庭の日時計の上に、この紙切れが置かれているのを見つけました。私がそれをエルシィに見せますと、卒倒して倒れてしまったのです。それ以来、妻はぼうっとしてしまって、いつも何かにおびえた目をするのです。それから私はホームズさんに手紙を書いて、この紙切れをお送りした次第です。こんなもの、まさか警察に訴えても笑いものにされて取り合ってくれないでしょうし、あなたでしたらどうすべきか教えてくださると思ったのです。私は決して裕福ではありませんが、何かが妻をおびえさせているのだとしたら、全財産をかけても妻も守ってやりたいと思うのです。」善良な男だ――古き良きイギリス人――素朴で実直、そして温和、目は大きく熱意のこもった青色、顔は大きく端正。ホームズは集中してこの話を聞いていたが、そのあと、しばし黙って思案に沈んでいた。「ですが、キュービットさん。」ようやく口を開く。「最善の策は、直接奥さまにお訊ねになり、秘密を打ち明けてもらうことではないでしょうか。」ヒルトン・キュービットはその大きな頭を振った。「約束は約束です、ホームズさん。もしエルシィが話していいと思うくらいなら、向こうから話してくれます。また話したくないことなら、強要したくありません。それでも、私には私でできることがあるはず――なのです。」「ならば全力でご相談にあずかります。ではまず、近所に不審な人物を見たという話は?」「ありません。」「たいへん閑静なところかと存じますが、新顔などが現れたという噂は?」



(7)
「ごく近所で、ありました。しかし近場に海水浴場がありますので、よく地主どもが人を泊めるのです。」「この絵文字は、確かに何か意味がある。もしまったくのでたらめとすればお手上げですが、ここに規則があるなら、必ず暴くことができます。ですがこれだけではなにぶん短くて、いかんともしがたく、またお聞かせいただいた事柄も、まだ漠として何とも調べようがありません。おすすめしたいのは、一度ノーフォークにお帰りになって、注意深く監視をし、再度この踊る人形が現れた際には、それを正確に写し取ることです。先の窓ガラスに描かれたものの写しを見ることかなわないとは、残念至極です。辺りに不審者がないかどうかも、じゅうぶん注意願います。新たな証拠が手に入りましたら、またおいでください。これがあなたに対しての、僕の最善の答えです。それではヒルトン・キュービットさん、もし新展開でもありましたら、そのときはいつでも出立して、ノーフォークのお宅でお目にかかりましょう。」この会見ののち、シャーロック・ホームズは深く考え込んでしまった。そして二三日の間、手帳から例の記号の描かれた紙切れを取り出しては、じっと熱心に見つめるのであった。二週間ばかりのあいだ、ホームズはそのことをおくびにも出さなかったが、ある日の午後、私が外出しようとするところを呼び止めたのであった。「ここにいた方が賢明だ、ワトソン。」「どうしてかね?」「今朝、ヒルトン・キュービットから電報が来た。ほら、あのキュービットだ、踊る人形の。彼は一時二十分にリバプール街に着くはずで、まもなくここに来る。電報から察するに、何か大事が起きたらしい。」やがて二輪馬車が全速力で、駅から依頼人のノーフォークの紳士を乗せてやってきた。憔悴した様子で、目は疲れ、額には皺を寄せている。



(8)「息が詰まりそうな事態で、ホームズさん。」依頼人は半病人よろしく、肘掛椅子にもたれかかった。「落ち着きません。得体の知れない人物がどこか近くに潜んでいて、何かをたくらみ、さらに妻がじわじわと殺されていくと考えるだけで、もう、身体がもちません。そんな状況下で、妻は弱りつつあるのです。まさに私の目の前で。」「奥さまはまだ何も?」「ええ、ホームズさん、言いません。何か言いたげにはするんですが、やはり決心がつかないのか。助けようともしたんです。でも私が不器用なもんですから、余計こわがらせるだけで。妻が、私の家系のこと、地域における名声、また汚れなき名誉などに言い及ぶこともあって、いよいよ本題に入るのだと思ううちに、話がよそに逸れてしまって。」「何かご自身でお気づきになったことは?」「たくさんあります、ホームズさん。何枚か新しい踊る人形を、ぜひご覧ください。それに、人影を見たんです。」「それは、この記号を描いた張本人ですか?」「ええ。その現場を見たのです。とにかく、一から順番に話しますね。私がこの前お訪ねして帰って、その翌朝にまた新しい踊る人形の一群を見たのです。それは、物置の黒い扉の上にチョークで描かれていました。そこから芝生を挟んだ向かいの窓から、まっすぐ見えるのです。正確に写し取りました、これです。」依頼人は一枚の紙を卓上に広げた。これがその絵の写しである。「素晴らしい!」とホームズは言った。「素晴らしい! どうぞ次を。」「写し取ったあと、その絵を消してしまったのですが、その次の次の朝、また別のものが描かれてありました。この写しになります。」ホームズは手をこすり合わせ、ほくそ笑んだ。「データが次々と集まっています。」「それから三日経って、紙の上になぐり描かれた一枚の伝言が、日時計の上にある小石に立てかけてありました。これです。ご覧の通り、



(9)さきほどのとまったく同じです。それでこのあと、私はひとつ待ち伏せてやろうと思い立ちまして、リヴォルヴァを用意して書斎から芝生や庭を見張りました。午前二時頃、私は窓際に腰掛けていて、外は月明かり以外まったく光がありません。そのとき、ふと背後に人の気配を感じました。化粧着を着た妻がおりまして、私に寝室に帰るよう言うのですが、私は素直に、このふざけたいたずらの張本人を突き止めるつもりだと告げました。そうすると妻は、きっとつまらないいたずらなのだから、深く気にとめないでと言うのです。『どうしてもお気になさるのでしたら、ヒルトン、いっそ旅に出ましょう――ふたりで。そうすれば、わずらわしいことからも逃れられますから。』私は言いました。『なに、ほんのいたずらのために自分の家から逃げたとあっては、まったく世間の笑いものではないか。』『とにかく寝室に戻りましょう。』と妻が言います。『色々考えるのは、朝でもよろしいでしょう?』そのとき、妻の顔にさっと月の光が差して、いっそう青白く見えました。妻の手が私の肩をぐっとつかんだとき、物置小屋の陰で、何か動いているのに目がとまりました。何かさっと動く黒い影が、角のあたりをはい回って、戸口の前にうずくまったのです。私はやにわに拳銃を持って飛び出そうとすると、妻は両腕でしっかりと私を抱きとめて、ふるえるような力で押さえるのです。私は妻を振り放そうとしましたが、妻も必死で、やっと振り払って物置へ行ったときには、もう姿がありませんでした。しかし、確かに何かのいた形跡があって、扉の上には、例の踊る人形があったのです。前二回と同じ絵で、さきほどの紙に写した通りです。それから周囲をくまなく探しましたが、何の痕跡もありません。しかしまだ驚くことがありまして、そやつはその後も現れたらしく、




(10)翌朝になって、私が例の扉を見ると、昨夜見たものの下にさらにいくつか描かれていたのです。」「今までのものと別のものですか?」「ええ、とても短いものですが写してきました、これです。」依頼人はまた一枚の紙を取り出した。「教えてください、」とホームズが言う――目を見れば、その興奮が見て取れる――「最初のものにただ付け足されていたのか、それとも別のものとして描かれたように見えましたか?」「前のとは、別の板に描かれていました。」「素晴らしい! これは何より大切な証拠となりましょう。欲しいものは揃いました。さて、ヒルトン・キュービットさん、その興味深い話をお続けください。」「もうこの先はないのですが、ホームズさん、ただ、私はその日の晩に妻を叱りまして、私が曲者をつかまえようと出て行くのを引き留めたんですからね。そうすると妻は、私が怪我をしてはいけないからと言い訳するのです。その瞬間、心によぎったんです。妻が案じているのは私でなく、向こうの怪我なのではないかと。つまり、妻は相手が何者かを知っていて、その変な暗号もわかっている。しかし、妻の声の調子なんですよ、ホームズさん、目の色も、どうも嘘をついているとは思えないんです。それで私は、やはり本当に妻が心配したのは、私の身であったのだと考えます。これでもう話は終わりましたが、さてどうすればいいのか、ご助言いただきたいです――私の考えとしては、小姓どもを五、六人茂みに潜ませて、出てきた曲者をしたたか打ちのめせば、以後私どもに近寄ることもないかと存じますが。」「そんな単純な手で収まりはつきますまい。」とホームズは言う。「ロンドンにはどの程度ご滞在で?」「今日中には帰宅を。妻を一晩中ひとりにしておくなんて、とんでもない。おびえきって、必ず帰ってきてくれと申すのです。」



(11)「それが正しいかと。ご逗留なら、一両日中にはご同行しようかと思いましたが――では、この紙はあずからせてください。近いうちにお訪ねして、この事件に多少の光明を投げかけることができるかと思います。」シャーロック・ホームズは、この依頼人が立ち去るまでその職業的な冷静を保っていたが、ホームズを熟知する私には、ホームズの内なる興奮が見て取るようにわかる。ヒルトン・キュービットの広い背中が扉の向こうに消えると、すぐさまホームズは机に走り寄り、例の踊る人形の紙を自分の前に並べて、込み入った計算にじっと取り組むのであった。時間ばかり、何枚も数字と文字を書くホームズの姿を、私はながめていた。その仕事に没頭するあまり、私の存在などどこへやらという風であった。時には順調で口笛を吹いたり口ずさんだり、また時には難渋してじっと座り込み、眉をひそめ目をうつろにさせることもあった。やがて最後には椅子から飛び上がり喜びの声を上げ、手をこすり合わせながら部屋中を歩き回る。それからホームズは海外宛の長い電報を書く。「これの返事が思った通りなら、君はまたひとつ愛くるしい事件を君の記録に加えられるよ、ワトソン。」と言う。「明日にはふたりでノーフォークへ行き、あの依頼人が思い悩む謎に対して、はっきりしたことが告げられるものと思う。」正直、私は心躍る思いだった。しかしわかっている、ホームズはいつも自分の頃合と流儀で種明かしをしたい人間なのだ。だから、解き明かすのにちょうどいい時がくるまで待つことにした。だが返信はなかなか来なかった。もどかしくも二日が過ぎ、ホームズは呼び鈴にずっと耳を傾けていた。二日目の夕べに、ヒルトン・キュービットから手紙が一通届いた。それによれば、その後の身辺は静穏だが、その日の朝、また日時計の上に長い書き込みがあったからと、その写しが同封されていた。



(12)ホームズは数分のあいだ、この奇怪な帯状の絵に見入っていたが、突然声を上げて立ち上がった。驚きとおののきが入り交じり、顔が憔悴している。「様子を見すぎたか。」とホームズは言った。「今夜の北ウォールシャム行きの汽車は?」私は時刻表を繰ってみた。最終電車が出たばかりだ。「では朝食を早めにとって、朝一の汽車に乗らねば。」とホームズが言う。「可及的速やかな行動だ。来た! 待望の外電だ。ちょっと待って、ハドソンさん、返事が必要――いや、思った通りだ。この知らせが来た以上、一刻の猶予もならぬ。ヒルトン・キュービットに事の次第を知らせねば。これこそ、あのノーフォークの地主にからみついている、怪しく危険な蜘蛛の糸なのだ。」まさにその言葉の通りだった。単なる子どもだましに思えたお話の、あの暗澹たる結末に筆が及んだら、私はあのとき感じた戦慄をもう一度味わうことになろう。読者諸君にはどうにかしていい話を聞かせたいと思うのだが、以下が事実の記録であり、このリドリング・ソープ荘園という名が、たった数日でイングランドのありとあらゆる家庭で口の端にのぼることになった物語を、私は続けねばならない。我々が北ウォールシャムで下車し、行き先を言うやいなや、駅長が我々の前に走ってきた。「ロンドンからおいでの警察の方々ですね?」ホームズの顔に、当惑の色がさす。「いったいなにゆえそうお思いに?」「実はさきほど、マーティン警部がノリッジからお越しになったものですから。ですがお医者さまでいらっしゃるかもしれませんね。奥さんはまだ生きてます――さっきうかがったところでは。まだ間に合います――まあ、いずれ首を括られるでしょうが……」ホームズの顔が不安にか「実はリドリング・ソープ荘園に向かう途中で、何が起こったのかまだ知らないのです。」「恐ろしい事件ですよ。」と駅長が言う。



(13)「ヒルトン・キュービット氏とその奥さんが撃たれたのです。奥さんが旦那さんを撃って、それから自分も撃ったというのが、召使いの話です。旦那さんの方は息がなく、奥さんももうだめでしょう。どうもまったく、ノーフォークの旧家、名門の末裔だというのに……」ホームズは一語も発せず馬車へ駆け込み、それから七マイル以上の道中、決して口を開かなかった。私は、ホームズがこれほど落胆しているのを、そう見たことがない。町から車に揺られているあいだずっと落ち着かない様子で、朝刊にただじっと不安な視線を落とすホームズを、私は横からながめていた。そして予想した中でも最悪の結果に至っていることがわかった瞬間には、茫然自失のていであった。座席にもたれかかり、ホームズは先の見えない物思いに沈む。もちろん馬車の両側には、興味深い眺望が広がってはいる。つまり、我々が今走っているのは、イングランドでも有数の田園地帯である。まばらな人家がその現在の人口を思わせ、一方で、どちらを向いても、尖塔を持つ教会が、緑広がる風景のなかにいくつもそびえ立っている。旧東アングリア王国の栄枯盛衰を物語るながめだ。やがて北海の紫がかった水面が、ノーフォークの緑の海岸線の向こうに見えてくる。すると御者は、むちで樹木から突き出ている煉瓦と木でできた二つの破風をさして、「あれがリドリング・ソープ荘園です」と言った。ポルチコ型の玄関先へ乗り付けると、私はその屋敷を正面から見やった。わきにはテニスのできる芝地と黒い物置小屋、台座付きの日時計があり、今回の不思議な事件を思い起こさせた。隣では、口ひげをととのえた、身のこなしの軽いひとりの小柄な男が、ちょうど二輪馬車を降りたところであった。その男は、ノーフォーク警察のマーティン警部であると自己紹介したが、我が友の名を聞いたときはかなり驚いた様子だった。



(14)「これはホームズ先生、犯罪は今朝三時に行われたばかりなのですが、ロンドンから聞きつけて私と同時に現場に着くなんて、いったいどうやって?」「先を読んだのです。防げればと思いやってきました。」「では大事な証拠をすでにお持ちで。わからんのですよ、ふたりはたいへんむつまじい夫婦だという評判なので。」「証拠と言っても、踊る人形があるのみです。」とホームズは答え、「いずれご説明に及びましょう。何にせよ、この悲劇には手遅れですが、正義が行われるためにも、今持っている知識を活用したいと思います。警部のお気持ちは、捜査は共同、別々、どちらがよろしいです?」「一緒にやらせていただけるなんて、とても光栄です、ホームズ先生。」警部は熱意を込めて言った。「ぐずぐずせず、早速聞き取りと邸内の捜査を始めましょう。」マーティン警部は物わかりもよく、我が友人を自由にやらせてくれ、ただその結果を見守るだけで満足のようだった。地元の医者である白髪の老人が、ちょうどヒルトン・キュービット夫人の部屋から降りてきた。その話によれば、傷は深いが命に別状はないとのこと。弾が額を割っており、意識を取り戻すにはしばらく時間がかかるそうだ。誰かに撃たれたのか、彼女が自分で撃ったのか、医者ははっきりとした所見を述べなかった。しかし至近距離から発砲されたことは確かだった。室内には拳銃が一丁だけあり、弾倉がふたつ空になっていた。ヒルトン・キュービット氏は心臓を打ち抜かれていた。判断しがたいのは、旦那が妻を撃ってから自殺したのか、それとも妻が犯人なのか、ということだ。なぜなら、リヴォルヴァはふたりのあいだの床に落ちていたからである。「遺体はそのまま?」とホームズは医者に訊ねた。「はい、奥さんのほかは何も。けが人を床の上に放ってはおけませんからの。」「先生はいつ頃おいでです?」「四時ですな。」「誰かと一緒に?」


(15)「ええ、そこのお巡りと。」「で、何も触れていない。」「そうですとも。」「賢明な処置です。誰に呼ばれました?」「女中のソーンダズです。」「その女が第一発見者ですか?」「その女と、炊事をやっとるキングのおかみです。」「ふたりは今どこに?」「台所じゃないかの。」「では、早速ふたりの話をうかがわねば。」樫の板壁と高い窓のある古い広間が、聴取の場所にあてられた。古風な大型の椅子にホームズは腰掛け、そのやつれた顔に鋭い眼光を光らせる。私はその目に、ついに救えなかった依頼人に報いるまでは、命をかけても捜査にのぞむという決意の色を読み取った。そこへ、身だしなみのよいマーティン警部、白髪の老医師、私、ぼんやりした村の巡査が、妙な同席人として加わるのだった。 そのふたりの女はわかりやすく話してくれた。ふたりは何かバーンという音に目を覚ましたが、一分ほどしてさらにもう一発が聞こえた。ふたりは隣り合わせの部屋で寝ており、キングのおかみがソーンダズの部屋へかけこんだ。そしてふたりが一緒に階段を下りると、書斎の扉が開いていて、ローソクが一本、卓上にともっていた。そしてふたりの雇い主が、うつぶせになって部屋の真ん中に倒れていた。息はなかった。窓のそばにその妻がうずくまっており、壁に頭をもたせかけていた。重傷で顔じゅう血で真っ赤だった。ぜいぜい息をするだけで、何も言えない状態だった。室内はもちろん、廊下にも煙が充満し、火薬の臭いがした。部屋の窓は確かに閉められて、内側から鍵もかかっていた。ふたりの女は、この点に関して自信をもって保証した。ふたりはすぐに医者と駐在所に人をやって、それから馬番と手伝いの少年の手を借りて、負傷した女主人を自室へ移した。彼女とその夫は、いったんは床についている。女の方は普段着だが――男の方は寝間着の上に、化粧着を重ねていた。書斎の中は一切動かされた形跡がなかった。


(16)ふたりの知る限り、夫婦のあいだに諍いのあったためしはなく、ふたりは仲むつまじいとしか思えなかった。以上のことは女中たちの証言の大要であるが、マーティン警部に答えた言葉では、扉という扉はすべて内側からしっかりと鍵がかけられてあって、誰かが家の中から逃げ出したはずはない、とのことであった。それからホームズの問いに対しては、火薬の臭いがしたのは、一番上の自分たちの部屋を飛び出したときであった、と答えた。「この事実を、よく覚えておいてください。」と、ホームズは捜査仲間に言った。「今度は、部屋を徹底的に検分する時間です。」書斎は小さな部屋であった。三方には本棚があり、書き物机は何の変哲もない窓に向かって置かれ、そこから庭が見渡せた。まず我々は第一にこの不幸な地主の遺体を調べた。そのがっしりとした体躯が、部屋を横切るように倒れていた。着衣は乱れており、あわてて起きたことを思わせた。弾は正面から撃たれ、心臓を打ち抜いたあと、体内に残ったらしい。即死で苦しむ暇もなかったはずだ。硝煙は化粧着(ガウン)にも手にも残っていなかった。老医師の話では、妻も顔にはそのあとがあるものの、手にはなかったとのことだ。「手にないだけでは何もわからない。――もっともあれば、一目瞭然だが。」とホームズは言った。「弾の込め方がまずくて火薬が後ろへ吹っ飛ばない限り、何発でも跡を残さず撃つことができる。キュービット氏の遺体はもう動かしてもよろしいでしょう。それから先生、夫人を撃った弾は、まだ摘出してませんね?」「そのためには大手術が要りますからな。しかしリヴォルヴァには四発残っておって、二発で二人負傷、勘定はぴったりですな。」「一見は。」というホームズの声。「しかし、あの窓の縁を貫いている弾も、しっかり勘定に入れねば。」さっと振り返り、ホームズはやせた長い指で一点を指さした。



(17)下側の窓枠、床から一インチのところに、何かに貫かれた穴があった。「本当だ!」警部が声を張り上げた。「どうしてあんなものに目がとまったのですか?」「探していたからです。」「これは恐ろしい!」老医師は言った。「仰せの通りですな。三発目が撃たれとるとすれば、第三者がおるわけで、だが、何者がここにおって、なんぞの方法で逃げたんかの?」「それこそ、今取り組んでいる問題です。」とシャーロック・ホームズが言った。「ほら、マーティン警部、女中たちが部屋を出てすぐ火薬の臭いがしたと言ったとき、この点はきわめて重要だと言っておきましたね?」「ええ、先生。しかし、よくわからなかったのです。」「つまり、発砲されたとき、部屋の扉も窓も開いていたということです。でなくば、あの速さで火薬の煙が家中に立ちこめるわけがない。ふっと、ひとかぜ部屋を吹き抜けねば。ドアと窓が開いていたのは、ほんのわずかな時間なのです。」「なぜわずかだと……?」「ロウの流れ跡がありません。」「見事だ!」警部は叫んだ。「見事です!」「惨劇のときまさに窓が開いていたとすれば、間違いなく現場には第三者がおり、開いていた窓の外に立って、そこから中へ向けて発砲。そしてその者へ向けて撃った一発が窓枠に当たったはず。見ると、そこに果たせるかな弾痕があった!」「ですが、窓が閉められ鍵までかかっていたのはどういうわけでしょう?」「女というものは、どんなときでも反射的に窓をしめて鍵をかけてしまうのです。しかし、む! 何かな?」書斎の机に、婦人用のハンドバッグがあった。小型でしゃれた鰐皮、銀の細工があった。ホームズは中身をひっくり返したが、イングランド銀行の五十ポンド紙幣二十枚が、伸縮ゴムでしばられていたが――それだけだった。「保管しておきましょう。公判で必要でしょうから。」と言いながら、ホームズは詰め直したバッグを警部に手渡した。



(18)「では、次はこの三発目の弾に焦点を当ててみましょう。これはもっとも、木の裂け具合を見ても、室内から撃たれたものです。炊事婦のキングさんに話がある。さて、キングさん。あなたは何かバーンという『大きな』音がしたと言ったが、これは一発目が二発目より大きかったということですか?」「はあ、その音で目が覚めたのですが、よくはわかりかねます。とにかく大きかったかと。」「一度に二発撃ったとは考えられませんか?」「何とも言いかねます。」「僕の考えでは間違いないのだが、さてマーティン警部、もうこの部屋でわかることはこれ以上ないかと。家の周囲をめぐって、庭にあるはずの新たな証拠を見に行きましょう。」書斎の窓の下から花壇が続いているのだが、我々はそこに近づいてみて、あっと驚かされた。花は踏みにじられ、軟らかな土の上には、足跡が至る所についていた。それは男性の大きな足跡で、とりわけつま先の尖った靴のものであった。ホームズが草木のあいだを、猟犬が撃たれた鳥を探すがごとく調べた結果、満足げな声とともに前へかがみ、小さな真鍮の筒を拾い)「思った通りだ。」ホームズが言った。「蹴子(しゅうし)付きのリヴォルヴァなら、ここに三発目の薬莢があるはず。ですから、マーティン警部、これで事件もほぼ解決です。」この地元警部の顔からは、ただあっけにとられたのがわかるだけだった。ホームズの捜査があまりに手際よく、巧みであったからだ。最初のうちは立場上、多少口を挟もうとしていたが、今はもう観念して、ホームズの行くところに疑いもなくついてくるだけであった。「容疑者は誰でしょう?」と警部が訊ねた。「いずれお話しします。この問題には、まだ数点説明しかねることがあるのです。しかしここまで来ましたから、そのままやりきってしまった方がよいでしょう。それからすべての種明かしを、一度にするということで。」


(19)「どうぞどうぞご随意に、ホームズさん。犯人逮捕さえできれば。」「秘密にしたいというわけではなく、物事を進めながら長く込み入った説明をするのは難しいのです。事件の筋はすべて僕の手中にあります。万一ご婦人に意識が戻らずとも、昨晩の事件を再構成し、正義を行うことができます。まず、この付近の宿で、『エルリッジ』という名のものがあるか、確かめられますか?」召使いたちによく訊ねてみたが、聞いたことのある者はいなかった。馬番の少年だけ手がかりを持っていて、記憶によれば、そういう名前の農場主が、数マイル先、東ラストンの方角にいるらしかった。「さびれた農場かね?」「ええ、さびれまくりです。」「では、その人たちは、夜の事件のことをまだ何も知らない?」「ええ、たぶん。」ホームズはほんのしばらく考えをめぐらせると、ふしぎな笑みを浮かべるのであった。「では君、馬の用意をして、ひとつ書き付けをそのエルリッジ農場へ持って行ってくれないか。」ホームズは懐から、踊る人形の紙切れをすべて取り出し、前に並べてしばらく書斎の机に向かった。やがて一枚の書き付けをその少年に渡し、これをこの宛名の人に手渡し、またどんな質問をされても決して答えないよう、くれぐれも言い含めた。書き付けの表面を見ると、宛名が、いつものホームズの綺麗な筆跡とは似つかない、めちゃくちゃな字で書き殴ってあった。ノーフォーク州、東ラストン、エルリッジ農場、エイブ・スレイニ宛とされていた。「ひとつ警部、」とホームズは声を張る。「電報で護送隊を要請した方がよいかと存じます。僕の計算が確かなら、警部はこれから極悪犯を州刑務所へ送らねばなりません。書き付けを持って行くこの少年に、その電報を届けさせましょう。午後にロンドン行きの汽車があれば、ワトソン、うまく乗れそうだ。


(20)愉快な化学分析を終わらせてしまいたいし、この捜査もまもなく幕切れとなる。」その少年が出発すると、次にシャーロック・ホームズは召使いたちに指示を与えた。もしヒルトン・キュービット夫人を訪ねて来る者があっても、決してその容態を知らせてはならないこと、そしてその者を早速応接間へ通すこと――こういったことを熱心に言い含めた。それが終わると、もう仕事も手を離れたから、いずれまた何かが出てくるまで安楽に過ごそう、と言いながら、我々を応接間の方へ導いた。老医師は往診に出たので、残ったのは警部と私だけだった。「では、これから一時間ばかり、楽しく有意義に過ごすお手伝いを致しましょう。」ホームズはこう言って、机に椅子を引き寄せ、踊る人形のおふざけを記録した紙切れを、最初から最後まですべてその前に広げた。「ワトソン、友人である君に、ぼくはつぐなわなければならぬ。持ち前の好奇心を満足させずに待たせてしまった。そして警部、あなたにとって、この事件の全容は、刑事としてたいへん知りたいとお感じになっているはずです。ですからまずは、その物珍しい背景からお話ししましょう。その関係で、事件前にヒルトン・キュービット氏がベイカー街の私のところへご相談に来られたのです。」そしてホームズは、ここまで書いたような事実を手短に説明した。「私の目の前に、このような奇妙なものがあります。誰だって笑います。これが、あの恐ろしい悲劇の前触れだとわからなければ。私はそれなりに暗号の類型を熟知しておりまして、その主題でつまらない小論を書いたこともあり、その中で百六十種の暗号法を分析してはいたのですが、正直、今回のものは私も初めて見ました。


(21)この方法を考えた連中の意図としては、この絵が何かを伝えるということは隠して、単に子どもが気まぐれに描いたものだと思わせたいというのがあるのでしょう。しかし、いったん記号が文字の代用とわかれば、あとは暗号のどんな類型にも通用する規則を当てはめるだけで、容易に解くことが可能です。最初に見せられた伝言は短すぎたので、ただこうとしか言い切れませんでした。つまり、両手を挙げたこの人形は、アルファベットのEであると。ご存じの通り、Eというのは英語のアルファベットで最もよく使われ、その頻度は、どんな短文にもたくさん見つかるほどです。最初の伝言にある十五の文字のうち、同じものが四つ、さすればこれをEとするのが合理的です。また、見ると、ある場合には旗を持つ記号があり、ある場合には持っていない。すると考えられるのは、この旗の現れ方を考慮すると、旗には文を単語に区切る役割があるのかもしれぬ。私はこの仮説を受け入れ、ひとまずEを表すのは、両手を挙げた人形であると考えました。しかしここからが本当に難しいところです。英語の語順では、Eのあとに決まってこれが来るというものがない。ある印刷用紙一枚の文章でとった平均順位も、短い文の中では逆転するかもしれない。およそのことを言えば、T、A、O、I、N、S、H、R、D、Lというのが出やすい順だ。だが、T、A、O、Iなどはたいへん拮抗している。ここで組み合わせを考えて意味を見いだそうとしてはきりがない。そこで私は新たなデータを待った。ヒルトン・キュービット氏に会った二回目、二つの短文と、ひとつの伝言をいただいたが、後者には旗がないので、単語だと踏んだ。このような並びです。さて、単語としてはこれまでの仮定から、Eが二番目と四番目にある、


(22)五文字の言葉だとわかります。切り離すという意味のSEVERか、梃子のLEVER、もしくは打ち消しのNEVER。異論ないかと思いますが、最後のネヴァーが何かの返事として、もっともありそうですし、状況から考えて、あのご婦人が描いた返事かもしれません。これらがすべて正しいとすれば、残り三つの記号は、N、V、Rということになる。これでもまだ難しいところが残っているのだが、いくつかの文字についてよいことを思いついた。つまりこうだ、もし私の読み通り、これがあのご婦人と昔親密にしていた者からのメッセージだとすれば、この両端にEがあり、中に三文字ある組み合わせは、ELSIE、『エルシィ』という名前をまさに指しているのかもしれぬ。よく調べてみれば、この組み合わせが三度、伝言の末尾に現れている。とすれば、これはエルシィ宛の文章に相違ない。こうしてL、S、Iがわかった。しかし何を伝えようとしているのか? たった四文字だけが、エルシィという名の前に描かれていて、末尾はE。きっとCOME、『来い』という意味に相違ない。他にも末尾がEの四文字を考えたが、この状況に見合うものは他にない。そうしてさらにC、O、Mがものになったので、再び最初の伝言に挑んでみた。単語に区切って、未知の文字を点に置き換えてみると、次のようなものになる。・M ・ERE ・・E SL・NE・すると、最初の文字はAしかありえない。この短い文章の中で三度も出るのだから。これはたいへん有益な発見だ。さらに二つ目の言葉には、明らかにHがはいる。そうするとこうなる。AM HERE A・E SLANE・つまり、この穴にわかっている名をうめると、AM HERE ABE SLANEY『エイブ・スレイニ参上』という意味だ。


(23)かなりの文字がわかったので、相当の確信を持って、第二の文章に進もう。こんなふうになる。A・ ELRI・ESここで、TとGをうめると、何とか意味が通じる。『アット・エルリッジ』おそらくこの名は書き手のいる家の名か、宿の名であろう。」マーティン警部と私は、このわかりやすく完璧な説明を、のめり込まんばかりに聞き入っていた。我が友は、この難事件を完全に見とおせるだけの結論を、かくも見せつけたのだ。「先生、それからどうなされたのですか?」と警部が訊ねる。「どう推理しても、このエイブ・スレイニなる人物はアメリカ人です。名前の綴りもアメリカ式であるし、そもそもこの事件の発端はアメリカから来た手紙でした。またどう見ても、この件には何か隠れた犯罪があると思うのです。ご婦人が過去のことをほのめかしたり、旦那への告白を拒んだり、この二点はその方を向いています。そこで私は友人のウィルスン・ハーグリーヴへ外電を打ちました。彼はニューヨーク警視庁の人間で、一度ならずロンドンの事件の知識を教えてやったのです。エイブ・スレイニという名前を知っているかと聞いたところ、こう返事が来ました。『シカゴ一危険な悪党』。この答えを得たちょうどその夜、ヒルトン・キュービットがスレイニからの最後の伝言を送ってきました。わかっている文字を当てはめると、こうなります。ELSIE ・RE・ARE TO MEET THY GO・ここにPとDを加えて、伝言は完成です。『エルシィ、汝の神に会う覚悟をしろ』。悪党が説得から脅しへ進んだことがわかり、私はシカゴの悪党どものやり方を知っているだけに、すぐにでも言葉を実行に移すことがわかりました。


(24)私は友人であり相棒でもあるワトソン博士とともにノーフォークへ駆けつけたのですが、悲しいことに、着いたのは最悪の事件が起こったあとでした。」「あなたと事件を一緒に取り組めて光栄です。」警部は心から言った。「ただ失礼かもしれませんが、正直申しあげて、あなたは私立探偵ですからよいかもしれませんが、私には組織の職務というものがあります。そのエルリッジにいるエイブ・スレイニなる男が本当に下手人だとして、私がこうしているうちに逃げられでもしたら、私としてはもう大弱りなのですが。」「ご心配なく。逃げることなど致しません。」「なぜおわかりで?」「逃げることはすなわち、罪の自白です。」「では捕まえに行きましょう。」「じき、ここへ来ます。」「えっ、なぜわざわざ?」「手紙でそう頼んだからです。」「そんなバカな、ホームズさん! 来いと言って来るやつがありますか。そんなことをしたら、かえって疑って逃げてしまうじゃありませんか。」「僕も、あの手紙の作り方は知っているつもりです。」とシャーロック・ホームズは言った。「事実、間違いではなさそうです、その紳士がご自身で邸内へおいでですから。」一人の男が玄関へ続く道を、大股に歩いてくる。背が高く、顔は浅黒く端正。灰色のフラノのスーツに身を包み、パナマ帽という出で立ち。もじゃもじゃのあごひげに、大きく前にとんがった鼻。籐の杖を振り回しながら男がやってくる。我が物顔で小道をふんぞり歩き、堂々と呼び鈴を響かせるのであった。「どうやら諸君、」ホームズが静かに言う。「我々はドアの影に潜んだ方が賢明のようだ。あのような男が相手では、用心に越したことはない。


(25)手錠も必要です、警部。話すのは、僕にお任せ願いましょう。」一分のあいだ、我々は息を殺して待った。これもまた、忘れることの出来ないひとときだ。やがて扉が開き、その男が中に入る。と思ううちに、ホームズが拳銃を男の頭に狙いつけ、マーティンが素早く手錠をはめた。あっという間の出来事だったので、男も手も足も出せず、しばらくしてようやく捕まったことに気づく有様だった。その男は我々を、次から次と、その黒く鋭い目でにらみつけた。そして、苦々しく笑い声を上げる。「なるほど、あんた方にしてやられたわ。厄介なことにでくわしちまったらしい。だが俺はヒルトン・キュービット夫人の手紙に応じてここへ来たんだぜ。まさか、あいつも一枚噛んでるってことはないよな? この罠を仕掛けるのに協力なんてしてないよな?」「ヒルトン・キュービット夫人は深い傷を負って、今危篤だ。」その男はしわがれ声で、家中に響き渡るような、悲しみの叫びを上げた。「ふざけやがって!」男は吠えた。「おれは男をやったんだ、あいつじゃない。どうして愛しいエルシィをやるもんか! ちょっとはおどかしたかもしれないが――神様もお許しのはずだ!――おれは、あいつの綺麗な髪一本すら触っちゃいねえ。取り消せ――さあ! 怪我なんかしちゃいねえと!」「ご婦人は負傷した状態で見つかった、死んだ夫のそばで。 男は深いうめき声を上げながら、長椅子にへたり込み、手錠のかかった両手で顔を覆った。五分ほど黙り込んでいたが、また顔を起こして、今度は観念して静かに語り出した。「隠すことなんか、何ひとつないんだ。」男は言葉を続ける。「俺が男を撃ったのなら、あの男も俺に撃ったんだ。殺しの罪じゃあない。あんた方が、俺があいつを傷つけたっていうんなら、俺とあいつのことをよく知らねえってことだ。 


(26)いいか、この世でどんな男がどんな女を愛するよりも、俺はあいつを愛していたんだ。俺にはあいつをもらう権利がある。何年か前、あいつは俺に誓ったんだ。横入りしやがったこのイギリス人こそ何様のつもりだ!いいか、俺にはあいつへの優先権がある、おれはそれを主張しただけだ。」「ご婦人が君の手から逃げ出したのは、その君の本性に気づいたからだ。」とホームズの厳しい声。「ご婦人は君を避けるためアメリカを飛び出し、立派な英国紳士と結婚した。君はご婦人につきまとい追いかけ、彼女の人生を苦しみに変えた。その理由は、ご婦人に敬愛する夫を捨てさせるため。さらにその理由は、おのれと逃避行させるため。憎しみ嫌う男と一緒に。その結果、君はひとりの気高い男に死をもたらし、その妻を自殺に追いやった。以上がこの一件についての君の行状だ、エイブ・スレイニ。その報いは、法から受けたまえ。」「エルシィが死ぬなら、どうなろうが知ったこっちゃねえ。」とアメリカ人は言った。そして片方の手を開いて、手の上に乗るしわくちゃの書き付けをのぞきこんだ。「見てくれよ。」男は声を張り上げた。目には疑いの色が満ちている。「まさか俺を担ごうって腹じゃないだろうな? あんた方の言うように、ご婦人が怪我をしてるんなら、誰がこいつを描いたんだ?」「僕が描いた。君をここへ呼ぶために。」「お前が描いたって? おれら一味のほかは、誰一人この踊る人形の秘密を知らねえはずだ。どうやって描きやがった?」「人の作りしものならば、また人は解くことができる。」とホームズ。「君をノリッジへ運ぶ馬車がこっちに向かっている、スレイニくん。しかしまだ、おのれの生んだ悲劇に対して、多少の罪滅ぼしをする時間はある。


(27)知っているかね? 実はヒルトン・キュービット夫人は、その夫の殺害に関して、大きな疑いをかけられているのだ。そして、ここへ来た私がたまたま持ち合わせていた知識で、運良く告発を免れえたのだ。君がご婦人に対してできる最後のつぐないとして、ご婦人はこの惨劇の結果について、直接にも間接にも、決して責任がないことを全世界に対して明らかにしたまえ。」「願ってもないことだ。」そのアメリカ人は言った。「俺も、自分にできる最善は、ありのままのことをしゃべっちまうことだと思います。」「職務上忠告しておくが、自分に不利な証拠として扱われることもあるぞ。」警部は、大英帝国刑法の崇高なる公正のため、口を挟んだ。スレイニは肩をすくめて、「運に任せるさ。」と言ってから、語り始めた。「まずあんた方にご理解いただきたいのは、俺とあいつは幼なじみってことです。俺たち七人はシカゴで徒党を組んでて、エルシィの父親は一味のボスでした。頭の切れる男で、パトリックのおやじと呼んだもんです。その暗号を考え出したのもおやじで、普通はガキのいたずらにしか見えません。たまたま鍵を持っちまったあんたは例外さ。そんで、エルシィは俺らの稼業にちょっと気づいちまって、こんな仕事にはたえきれねえって、ちっとばかり自分で作ったまともな金を持って、俺たちをまいてロンドンへ逃げちまったんです。あいつと俺はそんとき婚約済みで、俺は思うんですが、俺だって別の商売をやってりゃあ、結婚してくれたはずです。要は、裏の仕事にどうしてもかかわりたくなかったってことですよ。俺があいつの居場所をつきとめたときには、もうこのイギリス人と結婚したあと。手紙を出したんですが、返事はなし。



(28)そんで俺はわざわざやってきて、手紙も無駄でしたから、あの伝言を目のとまるところに置いたんです。とにかく、俺がここに来てもう一ヶ月です。あの農場にとまって、地下室を借りてたんで、夜は自由に出入りできたし、誰一人気づかなかった。俺はあれこれエルシィをそそのかしてみました。確かに伝言は読んでるらしく、一度は返事をくれましたからね。そこで俺は調子に乗って、あいつを脅し始めたんです。するとあいつは一通の手紙をよこして、俺に立ち去るよう頼み込んできました。夫の身辺で不名誉なことが起きるかと思うと、気が気でないってね。あいつは夫の寝静まった午前三時に抜け出して、突き当たりの窓まで出て話すっから、それきり立ち去って、静かに暮らさせてくれ、って言ってきました。実際あいつが来たとき、あいつは金を持ってきて、その金で俺をどこかへやっちまおうとしたんです。そんで、俺はかっとなって、あいつの腕を取って、窓から引きずりおろそうとしました。と、その瞬間、あいつの旦那がリヴォルヴァを持って飛び出してきました。エルシィは床の上にくずおれていたんで、俺たちは顔と顔を向き合わせた格好だったんです。俺も武器を持ってたんで、拳銃を取り出して、旦那を脅かして逃げようとしました。けど向こうが撃ちやがって、外れて、俺も同時にぶっ放して、向こうが倒れちまいました。俺は庭を踏み越えていったんですが、走りながら、後ろの方で窓を閉める音が聞こえました。神に誓って、みなさん、偽りはひとつもねえ。あとはもう、あの少年がこの手紙を持ってきて、俺はカケスみたいにここへのこのこやってきて、あんた方に捕まった、それだけです。」馬車はもう、アメリカ人が話すうちに着いていた。



(29)その中には制服の巡査がふたりいた。マーティン警部は立ち上がり、犯人の肩に手をかけた。「さあ行こう。」「ひと目あいつに!」「ダメだ、まだ意識が戻ってない。シャーロック・ホームズ先生。今度も大事件があったときは、そばでご一緒する幸運にめぐまれたいものです。」我々は窓際に立って、馬車の遠ざかってゆくのをながめた。私が振り返ると、犯人が卓上に投げていった、くちゃくちゃの紙切れが目に入る。それはホームズが犯人をおびき寄せた書き付けであった。「それが読めるかね、ワトソン。」と、ホームズはほほえんだ。そこには文字でなく、踊る人形が次のように短く描かれていた。「僕が説明した暗号表を用いれば、すぐわかる。」とホームズは言う。「ごく単純に『すぐに来い』(COME HERE AT ONCE)。こうやって呼べば、あの男も断るまいと確信していた。何しろあの男は、あのご婦人以外に書ける者があろうとは思ってもみなかったのだ。かくして、ワトソンくん、かつて悪の手先であったこの踊る人形を、僕らは最後に改心させることができた。そして僕も、君の備忘録の中に、またひとつ不思議な事件を加えるという約束を果たせたというわけだ。三時四十分の汽車に乗れば、ベイカー街に戻って夕食にありつける気がする。」 結びの言葉を一言だけ。アメリカ人、エイブ・スレイニは、ノリッジの冬季巡回裁判で死刑を宣告されたが、軽減に値する事由があり、ヒルトン・キュービット氏が先に撃ったことが確実であったので、刑を改めて懲役刑とされた。ヒルトン・キュービット夫人については、その後、快癒の知らせを受け取ったものの、再婚もせず、余生を救貧事業と亡き夫の遺産管理に捧げていると聞くのみである。


アーサー・コナン・ドイル 
三上於菟吉訳 大久保ゆう改訳

踊る人形(前半}

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「踊る人形」の前半文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。29の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎日1つ黒色から灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)ホームズは黙り込んだまま、その細く長い身体を猫背にして、何時間も化学実験室に向かっていた。何かひどくいやな臭いのするものを生成しているのだ――深々とうつむくその様が、私には、ひょろ長い怪鳥(けちょう)に見えた。くすんだ灰色の毛と、黒い鶏冠を持った怪鳥――「だからワトソン――」とホームズが突然口を開く。「君は、南アフリカの証券への投資を思いとどまった。」私は驚きのあまり身を震わせた。このホームズの不思議な力に慣れているとはいえ、どうして私の胸のうちの考えに潜り込めたのか、皆目見当がつかなかった。「いったい、どうしてそのことを?」と、私は聞き返す。ホームズは椅子をくるりと回し、手に試験管を持ったまま、その深くくぼんだ瞳を面白そうに輝かせるのであった。「さあワトソン、ぐうの音も出まい」「まったくだ。」「では、この件について、君に証文を書いてもらわねば。」「なぜかね?」「五分後には、君はきっと『ひどく簡単な話だ』などと言うからだ。」「いやいや、そんなことは言わんよ。」「その、ワトソンくん。」ホームズは試験管を立てかけて、教授が講堂で学生たちに講義でもするていで話し出した。「それぞれ前後をつなげて、ひとつひとつ単純に考えれば、筋道だった推理も、決してそう難しいことではない。たとえば、そのような推理をしておいて、その筋の真ん中を少し向こうへやって、聞き手にその始まりと結論だけを見せようものなら、人をあっと言わせることができるわけだが、まあ、ほんのこけおどしだ。さよう、難しいことではない。君の左の人差し指と親指の間のすり切れた皮膚を考えれば、君が金鉱の株の購入を思いとどまったと確信できる。」



(2)「どういう脈略かね。」「そう思って当然。だが、僕にはその深い脈略を手短に説明できる。そこには、ごく単純な連鎖のあいだの、失われた輪がある。一、君は左の人差し指と親指の間にチョークをつけて、昨晩クラブから帰ってきた。二、君はビリヤードの際、キューがすべらないよう、いつもその部分にチョークをつける。三、君のビリヤードの相手は、サーストンだけ。四、君は四週間前、サーストンから、ある南アフリカの株式について一ヶ月期限のオプションを持っているが、できれば君と共同購入したいと持ちかけられた、と言った。五、君の小切手帳は、僕の錠の下りた引き出しの中だが、君はその鍵を欲しいと言っていない。六、かくして君は、投資を思いとどまった。」「まったく、ひどく簡単な話じゃないか!」と私は叫んだ。「無論ね!」と、ホームズが少し機嫌を悪くする。「どんな問題も、いったん君に解き明かせば、みな子どもだましという。だが、ここにいまだ解かれぬものがある。これをどう思うね、ワトソンくん?」ホームズは一枚の紙を机の上に放り出して、また化学の分析の方に向き直った。私はそれを見て驚いた。紙の上には、でたらめな象形文字のようなものが書かれていたのだ。「おい、ホームズ、子どもの落書きかね!」と私は大声で言った。「ほう、そう考えるかね。」「では何だと言うんだ?」「まさにそれを、ノーフォーク州リドリング・ソープ荘園のヒルトン・キュービット氏が、しきりに知りたがっている。この謎かけが今朝の第一便で来て、本人はその次の列車で来ることになっている。ベルの音だ、ワトソン。その人だとしても、僕は驚かぬよ。」重々しい足取りが階段に聞こえたかと思ううちに、一人の紳士が入ってきた。



(3)背が高く、血色も良い、ひげも綺麗に剃った紳士で、その澄んだ目、健康なほおは、ベイカー街の霧の中からはるか離れたところで暮らす人を思わせた。その紳士が部屋の中に入ってきたとき、どこか、きつくさわやかですがすがしい、東海岸独特の香りが漂ってくるようだった。紳士が我々ふたりと握手を交わし、さて腰掛けようとしたとき、不思議な記号の書かれた紙に目をとめた。私が見たあと、机の上に置きっぱなしにしてあったのだ。「ああホームズさん、これをどうお考えですか?」と紳士は声を振り絞る。「あなたは奇妙奇天烈なことがたいへんお好きだそうですが、きっとこれより奇妙なものはご覧になったことがないでしょう。前もってお送りすれば、あらかじめお考えになられるだろうと思ったのです。」「確かに、いくぶん妙ではあります。」とホームズが言う。「初見では、子どものいたずら描きのようにも見える。でたらめな人形が大勢で、書かれた紙の上を並んで踊っているようでもある。なにゆえ、かくも異形なオブジェを、重くお考えになるのですか?」「それは私じゃないんです、ホームズさん。その、私の妻が。これを見て、妻が卒倒しまして。あれは何も言いませんが、目がおびえているのです。ですから、私は、これを最後まで調べたいと思ったのです。」 ホームズは紙切れを取り上げて、日の光に透かしてみせた。それはメモ帳から破り取ったもので、鉛筆で絵が描かれていた。ホームズはしばらくのあいだ、それを調べていたが、やがて丁寧に折りたたみ、自分の手帳のあいだに挟んだ。「これは実に興味深い、まれな事件となりましょう。」ホームズが言った。「ヒルトン・キュービットさん、お手紙のうちで、二三、具体的なことを書いておいででしたが、この友人、ワトソン博士のためにもう一度お話いただけると幸いです。」



(4)「どうも私は話し下手でして、」その依頼人は緊張のため、その硬く大きな手をもじもじさせながら話を始めた。「わかりにくいところは、その都度お訊ねください。昨年、私が結婚したところから始めましょう――いえ、まずその前にお耳に入れておきたいのですが、私の家は、決して裕福ではありませんが、ここ約五世紀の間は今のリドリング・ソープに住んでいて、ノーフォークのあたりでは第一の旧家だということです。昨年の記念祭の折、私はロンドンへ来て、ラッセル・スクエアの宿泊所に滞在しました。それは私の教区で牧師をやっているパーカーさんが滞在していた関係からです。そうするとそこに、アメリカの若いご婦人がいて――パトリックという名前で――エルシィ・パトリックです。いろいろあって私どもは知り合い、帰らねばならぬころには、もう、これでもかというくらいに、恋に落ちておりました。それで私どもは早速、結婚の手続きをすませ、夫婦としてノーフォークに帰りました。おかしいと思われるでしょう、ホームズさん。こんな旧家の人間が、こんなふうにして、相手の過去も家族も知らないままに結婚してしまうなんて……しかし、妻をご覧になり、人となりを知ってくだされば、ご理解いただけるかと思います。とにかくあれは真面目です、エルシィは。私が訊ねさえすれば、包み隠さず言ってくれたと思っています。『わたくしには、とても厭な思い出がございます。』と妻は言うのです。『どうにかして忘れたいと思っております。過去のことは、できれば口にしたくもありません。とても、つらいことですから。ヒルトンさん、あなたが私を求めてくださるなら、あなたはひとりの女を、人として恥ずべきことなど何ひとつない女を得ることになりましょう。その代わり、あなたは、わたくしの言葉を信じて、妻になるより前のことは口を閉ざしても構わない、



(5)
そうおっしゃってくださらねばなりません。もしそれでこのお約束が無理だとおっしゃるなら、どうぞわたくしをこのまま残してノーフォークへお帰りください。』これは私どもの結婚の前日、妻が私に言った言葉です。それで私は妻の言葉をそのまま受け入れて、その後もこの約束をかたく守ってきました。そしてその後私どもはこの一年のあいだ、結婚生活を続けて参りましたが、私どもは実に幸福でした。しかし一ヶ月ほど前、六月の末に、私ははじめてわざわいの兆しを見たのです。その頃、妻はアメリカからの手紙を受け取りました。アメリカの消印があったんです。そのとき、妻の顔は気絶しそうなほどに真っ青で、手紙を読むと、それをそのまま火の中に投げ込んでしまいました。その後、妻は別段そのことについて何も言いませんでしたし、私もまた約束に従って、そのことについては一言も触れませんでした。しかし妻は、それ以来ずっと、何か不安げで――何ごとかにびくびくしているようでした。どうか頼ってくれ。ここに最高の伴侶がいるじゃないか……でも、妻が言い出さなくては、こちらから切り出せない。わかってください、妻は誠実な女性なのです、ホームズさん、もし過去に何かいざこざがあるとしても、妻の落ち度ではないはずです。私はノーフォークの田舎者にすぎませんが、それでも英国随一の旧家だと、妻も存じておりますし、結婚前から認めておりました。まさかその妻が、私の家名を汚すなどありえません。それは絶対です。さていよいよ話が奇怪な部分に進むのですが、一週間ほど前――そうです、先週の火曜日です――私はガラス窓の上に、この紙にあるようなでたらめな、小さな踊る人形が描かれているのを発見しました。それはチョークで殴り描きされていて、私は馬番の少年がやったのだと思ったのですが、その坊主は、全く知らないと言い張るのです。



(6)
とにかく夜に描かれたものでした。私は洗い落としてから、このことを妻に話しました。ところが驚いたことに、妻はそんなものをまじめに取り合って、もしまた描かれたらぜひ見たいと言うのです。それから一週間は描かれなかったのですが、ちょうど昨日の朝、また私は、庭の日時計の上に、この紙切れが置かれているのを見つけました。私がそれをエルシィに見せますと、卒倒して倒れてしまったのです。それ以来、妻はぼうっとしてしまって、いつも何かにおびえた目をするのです。それから私はホームズさんに手紙を書いて、この紙切れをお送りした次第です。こんなもの、まさか警察に訴えても笑いものにされて取り合ってくれないでしょうし、あなたでしたらどうすべきか教えてくださると思ったのです。私は決して裕福ではありませんが、何かが妻をおびえさせているのだとしたら、全財産をかけても妻も守ってやりたいと思うのです。」善良な男だ――古き良きイギリス人――素朴で実直、そして温和、目は大きく熱意のこもった青色、顔は大きく端正。ホームズは集中してこの話を聞いていたが、そのあと、しばし黙って思案に沈んでいた。「ですが、キュービットさん。」ようやく口を開く。「最善の策は、直接奥さまにお訊ねになり、秘密を打ち明けてもらうことではないでしょうか。」ヒルトン・キュービットはその大きな頭を振った。「約束は約束です、ホームズさん。もしエルシィが話していいと思うくらいなら、向こうから話してくれます。また話したくないことなら、強要したくありません。それでも、私には私でできることがあるはず――なのです。」「ならば全力でご相談にあずかります。ではまず、近所に不審な人物を見たという話は?」「ありません。」「たいへん閑静なところかと存じますが、新顔などが現れたという噂は?」



(7)
「ごく近所で、ありました。しかし近場に海水浴場がありますので、よく地主どもが人を泊めるのです。」「この絵文字は、確かに何か意味がある。もしまったくのでたらめとすればお手上げですが、ここに規則があるなら、必ず暴くことができます。ですがこれだけではなにぶん短くて、いかんともしがたく、またお聞かせいただいた事柄も、まだ漠として何とも調べようがありません。おすすめしたいのは、一度ノーフォークにお帰りになって、注意深く監視をし、再度この踊る人形が現れた際には、それを正確に写し取ることです。先の窓ガラスに描かれたものの写しを見ることかなわないとは、残念至極です。辺りに不審者がないかどうかも、じゅうぶん注意願います。新たな証拠が手に入りましたら、またおいでください。これがあなたに対しての、僕の最善の答えです。それではヒルトン・キュービットさん、もし新展開でもありましたら、そのときはいつでも出立して、ノーフォークのお宅でお目にかかりましょう。」この会見ののち、シャーロック・ホームズは深く考え込んでしまった。そして二三日の間、手帳から例の記号の描かれた紙切れを取り出しては、じっと熱心に見つめるのであった。二週間ばかりのあいだ、ホームズはそのことをおくびにも出さなかったが、ある日の午後、私が外出しようとするところを呼び止めたのであった。「ここにいた方が賢明だ、ワトソン。」「どうしてかね?」「今朝、ヒルトン・キュービットから電報が来た。ほら、あのキュービットだ、踊る人形の。彼は一時二十分にリバプール街に着くはずで、まもなくここに来る。電報から察するに、何か大事が起きたらしい。」やがて二輪馬車が全速力で、駅から依頼人のノーフォークの紳士を乗せてやってきた。憔悴した様子で、目は疲れ、額には皺を寄せている。



(8)「息が詰まりそうな事態で、ホームズさん。」依頼人は半病人よろしく、肘掛椅子にもたれかかった。「落ち着きません。得体の知れない人物がどこか近くに潜んでいて、何かをたくらみ、さらに妻がじわじわと殺されていくと考えるだけで、もう、身体がもちません。そんな状況下で、妻は弱りつつあるのです。まさに私の目の前で。」「奥さまはまだ何も?」「ええ、ホームズさん、言いません。何か言いたげにはするんですが、やはり決心がつかないのか。助けようともしたんです。でも私が不器用なもんですから、余計こわがらせるだけで。妻が、私の家系のこと、地域における名声、また汚れなき名誉などに言い及ぶこともあって、いよいよ本題に入るのだと思ううちに、話がよそに逸れてしまって。」「何かご自身でお気づきになったことは?」「たくさんあります、ホームズさん。何枚か新しい踊る人形を、ぜひご覧ください。それに、人影を見たんです。」「それは、この記号を描いた張本人ですか?」「ええ。その現場を見たのです。とにかく、一から順番に話しますね。私がこの前お訪ねして帰って、その翌朝にまた新しい踊る人形の一群を見たのです。それは、物置の黒い扉の上にチョークで描かれていました。そこから芝生を挟んだ向かいの窓から、まっすぐ見えるのです。正確に写し取りました、これです。」依頼人は一枚の紙を卓上に広げた。これがその絵の写しである。「素晴らしい!」とホームズは言った。「素晴らしい! どうぞ次を。」「写し取ったあと、その絵を消してしまったのですが、その次の次の朝、また別のものが描かれてありました。この写しになります。」ホームズは手をこすり合わせ、ほくそ笑んだ。「データが次々と集まっています。」「それから三日経って、紙の上になぐり描かれた一枚の伝言が、日時計の上にある小石に立てかけてありました。これです。ご覧の通り、



(9)さきほどのとまったく同じです。それでこのあと、私はひとつ待ち伏せてやろうと思い立ちまして、リヴォルヴァを用意して書斎から芝生や庭を見張りました。午前二時頃、私は窓際に腰掛けていて、外は月明かり以外まったく光がありません。そのとき、ふと背後に人の気配を感じました。化粧着を着た妻がおりまして、私に寝室に帰るよう言うのですが、私は素直に、このふざけたいたずらの張本人を突き止めるつもりだと告げました。そうすると妻は、きっとつまらないいたずらなのだから、深く気にとめないでと言うのです。『どうしてもお気になさるのでしたら、ヒルトン、いっそ旅に出ましょう――ふたりで。そうすれば、わずらわしいことからも逃れられますから。』私は言いました。『なに、ほんのいたずらのために自分の家から逃げたとあっては、まったく世間の笑いものではないか。』『とにかく寝室に戻りましょう。』と妻が言います。『色々考えるのは、朝でもよろしいでしょう?』そのとき、妻の顔にさっと月の光が差して、いっそう青白く見えました。妻の手が私の肩をぐっとつかんだとき、物置小屋の陰で、何か動いているのに目がとまりました。何かさっと動く黒い影が、角のあたりをはい回って、戸口の前にうずくまったのです。私はやにわに拳銃を持って飛び出そうとすると、妻は両腕でしっかりと私を抱きとめて、ふるえるような力で押さえるのです。私は妻を振り放そうとしましたが、妻も必死で、やっと振り払って物置へ行ったときには、もう姿がありませんでした。しかし、確かに何かのいた形跡があって、扉の上には、例の踊る人形があったのです。前二回と同じ絵で、さきほどの紙に写した通りです。それから周囲をくまなく探しましたが、何の痕跡もありません。しかしまだ驚くことがありまして、そやつはその後も現れたらしく、




(10)翌朝になって、私が例の扉を見ると、昨夜見たものの下にさらにいくつか描かれていたのです。」「今までのものと別のものですか?」「ええ、とても短いものですが写してきました、これです。」依頼人はまた一枚の紙を取り出した。「教えてください、」とホームズが言う――目を見れば、その興奮が見て取れる――「最初のものにただ付け足されていたのか、それとも別のものとして描かれたように見えましたか?」「前のとは、別の板に描かれていました。」「素晴らしい! これは何より大切な証拠となりましょう。欲しいものは揃いました。さて、ヒルトン・キュービットさん、その興味深い話をお続けください。」「もうこの先はないのですが、ホームズさん、ただ、私はその日の晩に妻を叱りまして、私が曲者をつかまえようと出て行くのを引き留めたんですからね。そうすると妻は、私が怪我をしてはいけないからと言い訳するのです。その瞬間、心によぎったんです。妻が案じているのは私でなく、向こうの怪我なのではないかと。つまり、妻は相手が何者かを知っていて、その変な暗号もわかっている。しかし、妻の声の調子なんですよ、ホームズさん、目の色も、どうも嘘をついているとは思えないんです。それで私は、やはり本当に妻が心配したのは、私の身であったのだと考えます。これでもう話は終わりましたが、さてどうすればいいのか、ご助言いただきたいです――私の考えとしては、小姓どもを五、六人茂みに潜ませて、出てきた曲者をしたたか打ちのめせば、以後私どもに近寄ることもないかと存じますが。」「そんな単純な手で収まりはつきますまい。」とホームズは言う。「ロンドンにはどの程度ご滞在で?」「今日中には帰宅を。妻を一晩中ひとりにしておくなんて、とんでもない。おびえきって、必ず帰ってきてくれと申すのです。」



(11)「それが正しいかと。ご逗留なら、一両日中にはご同行しようかと思いましたが――では、この紙はあずからせてください。近いうちにお訪ねして、この事件に多少の光明を投げかけることができるかと思います。」シャーロック・ホームズは、この依頼人が立ち去るまでその職業的な冷静を保っていたが、ホームズを熟知する私には、ホームズの内なる興奮が見て取るようにわかる。ヒルトン・キュービットの広い背中が扉の向こうに消えると、すぐさまホームズは机に走り寄り、例の踊る人形の紙を自分の前に並べて、込み入った計算にじっと取り組むのであった。時間ばかり、何枚も数字と文字を書くホームズの姿を、私はながめていた。その仕事に没頭するあまり、私の存在などどこへやらという風であった。時には順調で口笛を吹いたり口ずさんだり、また時には難渋してじっと座り込み、眉をひそめ目をうつろにさせることもあった。やがて最後には椅子から飛び上がり喜びの声を上げ、手をこすり合わせながら部屋中を歩き回る。それからホームズは海外宛の長い電報を書く。「これの返事が思った通りなら、君はまたひとつ愛くるしい事件を君の記録に加えられるよ、ワトソン。」と言う。「明日にはふたりでノーフォークへ行き、あの依頼人が思い悩む謎に対して、はっきりしたことが告げられるものと思う。」正直、私は心躍る思いだった。しかしわかっている、ホームズはいつも自分の頃合と流儀で種明かしをしたい人間なのだ。だから、解き明かすのにちょうどいい時がくるまで待つことにした。だが返信はなかなか来なかった。もどかしくも二日が過ぎ、ホームズは呼び鈴にずっと耳を傾けていた。二日目の夕べに、ヒルトン・キュービットから手紙が一通届いた。それによれば、その後の身辺は静穏だが、その日の朝、また日時計の上に長い書き込みがあったからと、その写しが同封されていた。



(12)ホームズは数分のあいだ、この奇怪な帯状の絵に見入っていたが、突然声を上げて立ち上がった。驚きとおののきが入り交じり、顔が憔悴している。「様子を見すぎたか。」とホームズは言った。「今夜の北ウォールシャム行きの汽車は?」私は時刻表を繰ってみた。最終電車が出たばかりだ。「では朝食を早めにとって、朝一の汽車に乗らねば。」とホームズが言う。「可及的速やかな行動だ。来た! 待望の外電だ。ちょっと待って、ハドソンさん、返事が必要――いや、思った通りだ。この知らせが来た以上、一刻の猶予もならぬ。ヒルトン・キュービットに事の次第を知らせねば。これこそ、あのノーフォークの地主にからみついている、怪しく危険な蜘蛛の糸なのだ。」まさにその言葉の通りだった。単なる子どもだましに思えたお話の、あの暗澹たる結末に筆が及んだら、私はあのとき感じた戦慄をもう一度味わうことになろう。読者諸君にはどうにかしていい話を聞かせたいと思うのだが、以下が事実の記録であり、このリドリング・ソープ荘園という名が、たった数日でイングランドのありとあらゆる家庭で口の端にのぼることになった物語を、私は続けねばならない。我々が北ウォールシャムで下車し、行き先を言うやいなや、駅長が我々の前に走ってきた。「ロンドンからおいでの警察の方々ですね?」ホームズの顔に、当惑の色がさす。「いったいなにゆえそうお思いに?」「実はさきほど、マーティン警部がノリッジからお越しになったものですから。ですがお医者さまでいらっしゃるかもしれませんね。奥さんはまだ生きてます――さっきうかがったところでは。まだ間に合います――まあ、いずれ首を括られるでしょうが……」ホームズの顔が不安にか「実はリドリング・ソープ荘園に向かう途中で、何が起こったのかまだ知らないのです。」「恐ろしい事件ですよ。」と駅長が言う。



(13)「ヒルトン・キュービット氏とその奥さんが撃たれたのです。奥さんが旦那さんを撃って、それから自分も撃ったというのが、召使いの話です。旦那さんの方は息がなく、奥さんももうだめでしょう。どうもまったく、ノーフォークの旧家、名門の末裔だというのに……」ホームズは一語も発せず馬車へ駆け込み、それから七マイル以上の道中、決して口を開かなかった。私は、ホームズがこれほど落胆しているのを、そう見たことがない。町から車に揺られているあいだずっと落ち着かない様子で、朝刊にただじっと不安な視線を落とすホームズを、私は横からながめていた。そして予想した中でも最悪の結果に至っていることがわかった瞬間には、茫然自失のていであった。座席にもたれかかり、ホームズは先の見えない物思いに沈む。もちろん馬車の両側には、興味深い眺望が広がってはいる。つまり、我々が今走っているのは、イングランドでも有数の田園地帯である。まばらな人家がその現在の人口を思わせ、一方で、どちらを向いても、尖塔を持つ教会が、緑広がる風景のなかにいくつもそびえ立っている。旧東アングリア王国の栄枯盛衰を物語るながめだ。やがて北海の紫がかった水面が、ノーフォークの緑の海岸線の向こうに見えてくる。すると御者は、むちで樹木から突き出ている煉瓦と木でできた二つの破風をさして、「あれがリドリング・ソープ荘園です」と言った。ポルチコ型の玄関先へ乗り付けると、私はその屋敷を正面から見やった。わきにはテニスのできる芝地と黒い物置小屋、台座付きの日時計があり、今回の不思議な事件を思い起こさせた。隣では、口ひげをととのえた、身のこなしの軽いひとりの小柄な男が、ちょうど二輪馬車を降りたところであった。その男は、ノーフォーク警察のマーティン警部であると自己紹介したが、我が友の名を聞いたときはかなり驚いた様子だった。



(14)「これはホームズ先生、犯罪は今朝三時に行われたばかりなのですが、ロンドンから聞きつけて私と同時に現場に着くなんて、いったいどうやって?」「先を読んだのです。防げればと思いやってきました。」「では大事な証拠をすでにお持ちで。わからんのですよ、ふたりはたいへんむつまじい夫婦だという評判なので。」「証拠と言っても、踊る人形があるのみです。」とホームズは答え、「いずれご説明に及びましょう。何にせよ、この悲劇には手遅れですが、正義が行われるためにも、今持っている知識を活用したいと思います。警部のお気持ちは、捜査は共同、別々、どちらがよろしいです?」「一緒にやらせていただけるなんて、とても光栄です、ホームズ先生。」警部は熱意を込めて言った。「ぐずぐずせず、早速聞き取りと邸内の捜査を始めましょう。」マーティン警部は物わかりもよく、我が友人を自由にやらせてくれ、ただその結果を見守るだけで満足のようだった。地元の医者である白髪の老人が、ちょうどヒルトン・キュービット夫人の部屋から降りてきた。その話によれば、傷は深いが命に別状はないとのこと。弾が額を割っており、意識を取り戻すにはしばらく時間がかかるそうだ。誰かに撃たれたのか、彼女が自分で撃ったのか、医者ははっきりとした所見を述べなかった。しかし至近距離から発砲されたことは確かだった。室内には拳銃が一丁だけあり、弾倉がふたつ空になっていた。ヒルトン・キュービット氏は心臓を打ち抜かれていた。判断しがたいのは、旦那が妻を撃ってから自殺したのか、それとも妻が犯人なのか、ということだ。なぜなら、リヴォルヴァはふたりのあいだの床に落ちていたからである。「遺体はそのまま?」とホームズは医者に訊ねた。「はい、奥さんのほかは何も。けが人を床の上に放ってはおけませんからの。」「先生はいつ頃おいでです?」「四時ですな。」「誰かと一緒に?」


(15)「ええ、そこのお巡りと。」「で、何も触れていない。」「そうですとも。」「賢明な処置です。誰に呼ばれました?」「女中のソーンダズです。」「その女が第一発見者ですか?」「その女と、炊事をやっとるキングのおかみです。」「ふたりは今どこに?」「台所じゃないかの。」「では、早速ふたりの話をうかがわねば。」樫の板壁と高い窓のある古い広間が、聴取の場所にあてられた。古風な大型の椅子にホームズは腰掛け、そのやつれた顔に鋭い眼光を光らせる。私はその目に、ついに救えなかった依頼人に報いるまでは、命をかけても捜査にのぞむという決意の色を読み取った。そこへ、身だしなみのよいマーティン警部、白髪の老医師、私、ぼんやりした村の巡査が、妙な同席人として加わるのだった。 そのふたりの女はわかりやすく話してくれた。ふたりは何かバーンという音に目を覚ましたが、一分ほどしてさらにもう一発が聞こえた。ふたりは隣り合わせの部屋で寝ており、キングのおかみがソーンダズの部屋へかけこんだ。そしてふたりが一緒に階段を下りると、書斎の扉が開いていて、ローソクが一本、卓上にともっていた。そしてふたりの雇い主が、うつぶせになって部屋の真ん中に倒れていた。息はなかった。窓のそばにその妻がうずくまっており、壁に頭をもたせかけていた。重傷で顔じゅう血で真っ赤だった。ぜいぜい息をするだけで、何も言えない状態だった。室内はもちろん、廊下にも煙が充満し、火薬の臭いがした。部屋の窓は確かに閉められて、内側から鍵もかかっていた。ふたりの女は、この点に関して自信をもって保証した。ふたりはすぐに医者と駐在所に人をやって、それから馬番と手伝いの少年の手を借りて、負傷した女主人を自室へ移した。彼女とその夫は、いったんは床についている。女の方は普段着だが――男の方は寝間着の上に、化粧着を重ねていた。書斎の中は一切動かされた形跡がなかった。
プロフィール

米澤章夫

Author:米澤章夫

小説文解読パズル」考案者

沢山の方々のご訪問ありがとうございます。
このブログの本文は、小説文解読パズル(Seesaaブログ)
の出題元となっています。段落内の漢字が出題されますので、よくお読みください。

ところで、どんなトレーニング、学習にせよ「面白い」と感じている時は集中力は増します。集中力が増せば効果も増します。本ブログはこの理屈に基づいた漢字暗記法を公開しております。ブログには小説文中の任意の漢字または漢字と送り仮名の音が数字化されており、小説文を読みながら、それらの数列を数字に分割し、分割した数字を漢字の「読み」「綴り」に戻していくうちに、それらの記憶を強化できるというものです。分割するたびに、いろんな漢字が脳裏によみがえり、答え合わせをすることで「綴り」を確認することができます。前後の句と比較することで、その「使い方」を確認することもできます。以上のことから、「記憶の呼び戻しは、数列解読過程にある」と言っても過言ではありません。あなたも「数列にどんな言葉が隠されているのか」推理してみませんか。そして、漢字の記憶を呼び戻してみませんか。

鳥取市在住。ブロとも大歓迎です。

バズル作り、ゲーム作りが第一の趣味

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「パズルで脳トレ講座」オンライン講師
講座のパズルは、私が考えたもので、お絵かきロジック、スケルトン、ナンプレ、面分割パズル、ペントミノ、迷路パズル、経路パズル、ループ、推理パズル、虫食い算、最適化パズルなど、既存のパズルの周辺を考えたものから、まったく新しい発想、形式のものまで41種類もあります。本講座は「飽きずに楽しく遊べる場を提供し、論理的思考力向上のお手伝いをさせていただく」というコンセプトで作られています。ぜひ、皆様にもおす
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