漢字が覚えられる暗号小説です。灰色の数字をクリックし、数列解読しながら、お読みください。

赤毛連盟

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「赤毛連盟」の全文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。30の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎日1つ黒色から灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)昨年の秋のある日、友人のシャーロック・ホームズ君を訪ねると、彼は非常に太った赤ら顔の年配の紳士、燃えるような赤い髪の紳士と話しこんでいた。私が邪魔を詫びて退出しかけると、ホームズはいきなり私を部屋へ引き入れ、私の後ろにドアを閉めたのである。「まったくいい時に来てくれたよ、ワトソン君」と彼は気持ちよく言った。「仕事中かと思って。」「そうだよ。まさにその通りだ。」「それなら私は隣室で待っててもいいんだ。」「とんでもない。この紳士はね、ウィルソンさん、僕が大成功を収めた事件の多くで仲間であり、助手を務めてくれてまして、きっとあなたの事件でも非常に僕の助けになると思います。」太った紳士は椅子から半ば腰を上げ、ひょいとお辞儀をし、脂肪の奥の小さな目から少し不審そうにすばやく視線を走らせた。「長椅子でどうだい」とホームズは言い、判事のような気分の時の習慣として、自分の肘掛け椅子に戻り、指先を組み合わせた。「わかってるよワトソン君、君も僕同様、奇怪なこと、慣習や日常生活の単調な繰り返しを外れたことが好きなのは。僕のちょっとした冒険を記録しようなんて、それからそう言ってかまわなければ、いささか尾ひれまでつけようなんて思い立つ君の熱心さを見れば、君のそういう趣味がわかるよ。」「君の事件には実際、非常な興味を持ち続けてきたよ」と私は言った。「君は覚えているかな、いつだか僕が言ったろう、ちょうどミス・メアリー・サザーランドが出したきわめて簡単な問題を調査する前に、不思議な現象、異常な事態の組み合わせは人生そのものに求めるべきである、それは常に、どんなに想像をたくましくするよりもはるかに大胆なものなのだ、と。」「失礼だが僕が疑問を呈した主張だね。」


(2)「そうだったね、博士、でもね、そうは言っても必ず君も僕と同じ意見に変わるさ、そうでなければ僕は君の前で事実の上に事実を積み重ね続けるからね、君の理屈がそれらに押しつぶされ、僕が正しいと認めるまで。さて、こちらのジェイベズ・ウィルソンさんがご親切にも今朝僕を訪ねてきて話を始められたんだが、それは僕が長いこと聞いてきた中でも飛び切り奇妙なものの一つになりそうなんだ。君も 知っている僕の意見だが、最も不思議な、最も独特な事柄というものは多くの場合、大きな犯罪よりも小さな犯罪に関係していて、実際、往々にしてそこでは何か明確な犯罪が行われたのかどうか疑問の余地が あることもある。僕の聞いた限りでは今回の事件が犯罪にあたるかどうか僕には言えないが、事の成り行きは間違いなく、僕がこれまでに聞いたものとしては最も奇妙な部類に属するね。できましたらウィルソンさん、大変すみませんがお話をもう一度初めからお願いできませんか。単に友人のワトソン博士が初めの部分を聞 いていないからというだけでなく、異常な性質の話ですので、ぜひともあなたの口からできる限り詳しく 聞きたいと思いますので。通例僕はわずかでも事の成り行きを示す話を聞いてしまえば、記憶に浮かぶ何千もの類似の事件に導かれて進むことができます。今回の場合、さまざまな事実は、僕の信ずる限り、他に類を見ないものと認めざるをえません。」恰幅のいい依頼人は少し誇らしそうに胸を張り、汚れてしわくちゃになった新聞をオーバーの内ポケットから引っ張り出した。彼が頭を前に突き出し、ひざの上で紙面を平らにし、広告欄に目を走らせた時、 私はその人をじっくり観察し、友のやり方にならって、その洋服や外観が示すものを読み取ろうと努力した。


(3)しかし私がその観察から得たものはあまり多くなかった。私たちの客は太りすぎでもったいぶってのんびりしていて、平凡な平均的イギリス商人のあらゆる特色を身につけていた。彼はかなりだぶだぶの灰色 のチェック柄のズボン、あまりきれいともいえない黒いフロックコートを身につけ、前のボタンをはずし、茶色のベストには重い真ちゅうのアルバートの鎖、四角い穴の開いた小さな金属が装飾としてぶら下がっていた。すりきれたシルクハット、ビロードの襟にしわのよったあせた茶色のオーバーはそばの椅子の上に置かれていた。要するに、私が見ても、燃えるように赤い頭と、その顔に表れた極度の無念、不満の表情を除くと、注目すべきところは何もない人だった。シャーロック・ホームズの鋭い目が私のしていたことを見て取り、私の探求する視線に気づいた彼は微笑みながら首を振った。「この方が手仕事の経験があり、嗅ぎ煙草を吸い、フリーメーソンの会員であり、中国へおいでになったことがあり、最近相当量の書き物をなさったという明白な事実のほかには僕には何も引き出せないな。」ジェイベズ・ウィルソン氏はびっくりして椅子から飛び上がり、人差し指を新聞においたまま、目を友に向けた。「いったいぜんたいどうしてそんなことがみんなわかったんですか、ホームズさん?」と彼は尋ねた。「どうして、いやたとえば私が手仕事をしたことがわかりました?まったく本当のこってす、私は船大工から始めたんですから。」「あなたの手ですよ、ねえ。右手がたっぷり一回り左手より大きい。そちらで仕事をしたので筋肉がより発達しているんです。」「それじゃあ嗅ぎ煙草は、それにフリーメーソンは?」


(4)「どうしてわかったかはお話しするまでもない他愛ないことです、特に、あなたが結社の厳しい規則に大いに反して弧とコンパスの飾りピンを使用されてるのですから。」「ああ、そうか、忘れてました。しかし書き物のことは?」「五インチばかりすっかりテカテカになった右の袖口、机にのせるひじの近くにすべすべのつぎのあたった左、それらの示すものがほかに何かありますか?」「なるほど、だが中国は?」「あなたの右手首の真上にある魚の刺青は中国でしかできないものです。僕は刺青の模様についてつまらん研究をしたことがありましてね、その主題の文献に寄稿したことさえあるんです。その魚の鱗を微妙なピンクに色づける見事な方法はまったく中国独特のものです。加えて、中国のコインが時計の鎖からぶらさがっているのを見れば、いっそう簡単なことです。」ジェイベズ・ウィルソン氏は大いに笑った。「いや驚いた!」と彼は言った。「初めは気の利いたことをするもんだと思ったが、なあに、結局何のことはなかった。」「僕はねえ、ワトソン、」ホームズは言った、「説明するのは間違いだという気がしてきたよ。『およそ未知なるものはすばらしい』だからねえ、こう率直にやっては僕のささやかな評判も、まあこの程度のものだけどね、沈没の憂き目を見ることになるね。広告は見つかりませんか、ウィルソンさん?」「いや、ちょうど見つけました」と彼は太くて赤い指を広告欄の真ん中に立てて答えた。「ここです。 これがすべての始まりです。ちょっとご自分で読んでみてくださいな。」私は彼から新聞を受け取り、以下のものを読んだ。


(5) 赤毛連盟へ
米国ペンシルバニア州レバノン、故エゼキヤ・ホプキンズの遺贈による連盟に現在欠員あり。メンバー には純粋に名目上の貢献に対して週四ポンドの俸給の権利を与える。赤髪の心身健康な二十一歳以上の男 子すべてに資格あり。申し込みは本人が月曜十一時、フリート街、ポープス・コート七番地、連盟事務所のダンカン・ロスまで。 「いったいこれはどういう意味だ?」私はこのとっぴな告知に二度、目を通した後思わず叫んだ。ホームズは機嫌のよい時の癖で、くすくす笑い、椅子の上で身をよじった。「これはちょっと変わってるじゃないか、え?」と彼は言った。「さてウィルソンさん、先へ進んでご自身、ご家族、この広告があなたの運勢に与えた影響についてお話しください。君は、博士、まずその新聞と日付を書き留めてくれたまえ。」「1890年4月27日のモーニング・クロニクル。ちょうど二ヶ月前だ。」「結構。さ、ウィルソンさん。」「ええと、あなたにお話しした通りなんですが、シャーロック・ホームズさん」とジェイベズ・ウィルソンは額の汗を拭きながら言った。「私はシティーの近くのコバーグスクエアで小さな質屋の店をやってます。あまり大きな商売じゃなく、近頃ではちょうど私が暮らす分しか出ません。前には二人店員を雇っておけたんですがね、今じゃ一人がやっとです。その払いをするのも大変なところなんですが、その男は商売を覚えるためにと半分の給料で喜んで来てるんです。」「そのありがたい若者の名は?」とシャーロック・ホームズは尋ねた。「名前はヴィンセント・スポールディングですが、と言っても、そんなに若くはないんです。歳はわかりません。あれより気の利いた店員は望めませんよ、


(6)ホームズさん。それにあれがもっといい仕事にありつけるし、私のやれるものの二倍は稼げるってことも、私ゃよくわかってるんですがね。でもなにしろあれが満足 なら、どうしてこっちで知恵をつけてやらなきゃならんのです?」「そうですとも。相場の上限を取らずにこようという従業員を持ってあなたはとても幸運のようですね。 この時代、雇い主がやたらに経験できることではないですよ。お宅の店員もその広告並みに珍しいんじゃないですか。」「ああ、あの男にも欠点があるんです」とウィルソン氏は言った。「写真となるとあんな奴はいませんや。いろいろ覚えなきゃならん時にカメラを持って絶えずパチパチやっては巣穴にもぐるウサギのように地下にもぐりこんで撮った写真を現像してるんです。それがあの男の欠点ですが、だいたいにおいて働き者です。悪いこともしませんし。」「まだお宅にいるんでしょうね?」「ええ。あの男と、それから簡単な料理を少しと家の掃除をする十四の娘、家にはそれだけです。なにしろ私はやもめですし子供もできなかったんでね。とても静かに暮らしてます、私たち三人は。住処を確保して支払いを済ます、ほかに何もないにしてもね。面倒なことの起こりはその広告です。スポールディングですよ、あれがちょうど八週間前、店に下りてきて、ほら、その新聞を手に持って、言うじゃありませんか、『いやあ、ウィルソンさん、俺の髪が赤かったらなあ。』『なぜそんなことを?』と私ゃ尋ねる。『なに、』奴は言う、『ここでも赤い髪の男の連盟に一つ空きがあるんです。これを手に入れりゃあ誰 でも相当の金になるし、人間より欠員のが多いとかで、管財人は金をどうしたものか困り果てているそうですよ。


(7)俺の髪の毛の色が変わりさえすりゃあなあ、ちょっとしたうまい仕事がすっかり俺が行くのを待ってるんだがなあ。』『何だって、そりゃ何のことだ?』と私は尋ねました。だってねえホームズさん、私はすごく出不精でね、それに仕事のほうがやってきてこっちは出かけなくてもすむんで、私は何週間もドアマットの向こうへ足を踏み出さないことがよくあります。そんなわけで外で何が起こっているかあまり知らないし、 いつもニュースを楽しみにしてるんです。『赤い髪の男の連盟のことを聞いたことがないんですか?』とあれは目を見開いて訊きました。『全然。』『へえ、そりゃ驚いた、自分が欠員を一つ埋める資格があるのに。』『それでそれにはどんな値打ちがあるんだい?』と私は尋ねました。『ああ、ほんの年二百ですがね、でも仕事はわずかだし、必ずしもほかの仕事の大した支障にならないんです。』ねえ、容易におわかりでしょうが、その話に私は耳をそばだてました。商売は何年もあまりうまくいってないし、余分な二百があればずいぶん役に立ちますから。『すっかり聞かしてくれよ』と私は言いました。『なにね、』彼はその広告を示しながら言いました、『自分で見てくださいよ、連盟に欠員とあるでしょ、それに詳しいことの問い合わせ先も。俺の知ってる限りじゃあ、連盟はアメリカ人のエゼキヤ・ ホプキンズという百万長者が創ったとかで、なかなか変わった人だったそうです。本人が赤毛で赤毛の男すべてにいたく思いを馳せていたんですね。それで死んだ時、莫大な財産を管財人に託して、利息は赤い髪をした男に楽な仕事を提供することに当てるよう、指示を残したんです。すばらしい給料で、やることはほんの少しって話しですよ。』


(8)『でもなあ、』私は言いました、『たっくさんの赤毛の男が応募するだろうなあ。』『ご主人が考えるほどたくさんじゃないですよ』と彼は答えました。『だってねえ実際ロンドン市民で成 人男子に限られるんですから。このアメリカ人は若い頃ロンドンから世に出て、懐かしい街に善行を施したいんです。それにまた、髪の毛が明るい赤や暗い赤、本当に鮮やかな燃えるような炎の赤以外の赤だったら申し込んでも無駄ですってよ。さあ、申し込みたかったらウィルソンさん、ちょっと行ってみるこってす。でもたぶんあれだな、数百ポンドのためにわざわざやるほどのことはないですね。』さて、事実、見ればおわかりでしょうが、ねえ、私の髪はこれ以上はない鮮やかな色合いですから、これに関しちゃあ今まで負けたことがないし、どんな相手がいるにしても勝算は十分と思われました。ヴィンセント・スポールディングはこの話をよく知っているようなので役に立つこともあるかもしれん、と 私は思い、そのままその日はシャッターを下ろし、すぐに一緒について出てくるように彼に命じました。あれも休日になるのは大喜びですから、私たちは店を閉め、広告にある住所へと出かけました。あんな光景は二度と見たいと思いませんね、ホームズさん。北から、南から、東から、西から少しでも 髪の赤い男という男が広告に応じてどやどやとシティーに踏み入ってきてるんです。フリート街は赤毛の人間でふさがるし、ポープス・コートは行商のオレンジの荷車のようでした。私はね、あの広告たった一つで国中から来たってあんなにたくさん集まるとは思いませんでしたよ。わら、レモン、オレンジ、レン ガ、アイリッシュセッター、レバー、粘土--濃淡さまざまな色合いでした。


(9)しかしですね、スポールデ ィングの言ったように、本当に鮮明な炎の色合いというのはあまり多くはありませんでした。どれだけ人が待っているかを見た私はあきらめてやめるところでしたが、スポールディングが聞き入れませんでした。あいつがどうやってやったのか想像もつきませんが、押したり引いたりぶつかったりして、ついにあいつは私を群集から抜け出させ、その事務所に通じる階段のまん前まで連れていきました。階段には希望を持って上がるもの、落胆して下りるもの、二つの流れがありました。しかし私たちは何とかうまく割り込んで、まもなく事務所に入っていました。」「あなたのなさった経験はとても愉快ですね」と、依頼人が一息つき、嗅ぎ煙草をたっぷりつま んで記憶を新たにするところで、ホームズが言った。「どうかその非常におもしろいお話を続けてください。」「事務所には椅子が二つとモミのテーブルのほか何もなく、テーブルの後ろに私よりもさらに赤い髪をした小柄な男が座っていました。彼は近づいてくる志願者に簡単な言葉をかけ、それから必ず彼らを不適格とする欠点を何か見つけ出してしまうのです。やはり空席を勝ち取るのはそれほどたやすいことではなさそうでした。それがですね、私たちの番になるとその小さな男が私に対してほかの誰よりも断然好意的になりまして、私たちが入るとドアを閉めて、私たちと内密の話をしようというわけなのです。『こちらはジェイベズ・ウィルソンさんで、』と私の連れが言いました、『連盟の欠員を埋めたいと思っているんです。』『しかも立派に適格ですね』とあちらは答えました。


(10)『すべての条件を満たしてます。これほどすばらしいのは見た覚えがありません。』男は一歩後にさがり、片方に小首をかしげ、すっかり恥ずかしくなるほど私の髪をじっと見つめるのです。それから突然突進し、私の手を固く握り、心から私の合格を祝ってくれました。『躊躇(ちゅうちょ)しては不正になりますので』と男は言いました。『しかし、あなたはきっと私が露骨な警戒をするのを許してくださるでしょう。』そう言うと男は両手で私の髪をつかみ、私が痛くて叫び声を上げるまでぐいぐい引っ張ったんです。『目に涙が出てますね』と言って男は私を放しました。『すべて申し分ないとわかりました。しかし気をつけませんとね、かつらで二度、ペンキで一度、だまされたことがあるんですよ。靴屋の蝋のことでは人間の本性に愛想がつきるような話もあるんです。』彼は窓に歩み寄り、そこから声を 限りに欠員は満たされたと叫びました。失望のうめきが下から聞こえ、人々は皆さまざまな方向へぞろぞろと消えていき、私とその支部長を除いて赤い髪は見えなくなりました。『私は、』その人は言いました、『ダンカン・ロスです。私自身も我々の高潔な恩人の遺した基金の受給者の一人です。あなたは結婚なさってますか、ウィルソンさん?ご家族はありますか?』私はないと答えました。たちまち男の顔が曇りました。『なんとまあ!』あの人は重々しく言いました、『それは本当に重大なことなんです!そうおっしゃるのを聞いて残念です。この基金はもちろん、赤い髪を持つ者たちの維持ばかりでなく、その繁栄と広がりのためにあるのです。あなたが独身とは実に運が悪い。』私も浮かない顔になりましたよ、ホームズさん、だって結局私はその空席を手にする運命じゃなかった と思いましたから。


(11)しかししばらく考えてからあの人はそれでかまわないと言いました。『ほかの場合なら、』あの人は言いました、『この欠点は致命的になりかねませんが、あなたのような 髪を持った方ではひいき目に見て拡大解釈しなければなりますまい。いつから新しい職務に取り掛かれますか?』『ええ、それが困るんですが、既に店もありまして』と私は言いました。『ああ、そりゃ心配いりませんや、旦那!』とヴィンセント・スポールディングが言いました。『そりゃあ旦那の代わりに俺が見られるじゃないですか。』『時間はどうなってますんで?』『十時から二時です。』ところで質屋の商いってのはほとんど晩方でしてね、ホームズさん、特に木曜日と金曜日の晩、ちょうど給料日の前なんでね。だから午前中に少し稼ぐってのは私には実に好都合なんです。その上店員は優秀で、何があっても任せられますんでねえ。『それは実に好都合です』と私は言いました。『それで給料は?』『週四ポンドです。』『それで仕事は?』『単に名目上のものです。』『単に名目上とはどんなものを言うんでしょう?』『そうですね、あなたは事務所の中にいなければなりません、少なくとも建物の中に、その間ずっとですよ。もし離れたら、あなたは地位すべてを、永久に失います。遺言書もその点非常にはっきりしています。時間中に事務所から動くということは条件に従わないということです。』『一日にわずか四時間です、離れるなんて思いもしません。』『言い訳は通りませんよ』とダンカン・ロス氏は言いました。『病気だろうが用事だろうが何事であろうが。そこにいなくてはいけません、さもないとあなたは口を失います。』 


(12)『それで仕事は?』『大英百科事典をそっくり写すことです。第一巻がその棚にあります。インクとペンと吸い取り紙は自分で手に入れていただきますが、テーブルと椅子はこちらで提供します。明日からでもできますか?』『承知しました』と私は答えました。『ではさようなら、ジェイベズ・ウィルソンさん、貴重な地位を獲得された幸運にもう一度お祝いを言 わせてください。』あの人はお辞儀をして私を部屋から送り出し、私は何を言ったら、何をしたらいいのかわからないまま、連れと一緒に家へ帰りました。それほど自分の幸運が嬉しかったんです。さて、私はその日一日つくづくそのことを考えて、夕方にはまた意気消沈です。私はね、あの出来事は 全部、何かひどいいたずらかペテンにちがいない、とすっかり確信したんです。もっともその目的が何かは想像もつきませんでしたが。誰かがそんな遺言をするとか、大英百科事典をそっくり写すなんていう簡単なことをやらせてそんな金額を払う連中がいるとか、まるっきり信じられないような気がしたんです。ヴィンセント・スポールディングはできるだけ私を励ましてくれましたが、寝る時間までには私は自分に言い聞かせてそんなことは全部やめにしました。しかし朝になって私はとにかくちょっと見てみようと決心し、一ペニーのインク瓶、羽ペン、フールスキャップ紙を七枚買って、ポープス・コートへ出かけました。さて、嬉しい驚きでしたが、すべてはまったく申し分なしでした。テーブルは私を待って並べてあるし、 ダンカン・ロス氏も私がちゃんと仕事を始めるか見にきてました。私にAの文字から始めさせ、それから出て行きました。が、時々ひょっこりのぞいては私がちゃんとやってるか確かめました。


(13)二時にあの人は私にさよならを言いにきて、私の書き終えた量をほめ、私の後から事務所のドアに鍵をかけました。これが毎日毎日続きましてね、ホームズさん、土曜日には支部長が来て一週間の仕事に対してソブリン金貨四枚を支払いました。次の週も同じ、その翌週も同じでした。毎朝私は十時にそこに行って、毎日午後二時に帰りました。次第にダンカン・ロス氏は朝一度だけ来るようになり、それからしばらくするともうまったく来ませんでした。それでももちろん、私は一瞬だって部屋を離れる気になんかなりませんでし た。あの人がいつ来るかわかりませんし、仕事は実に結構だし、私にぴったりですから、それを失うようなことはするもんじゃありません。こんなふうに八週間が過ぎ、私はAbbots、Archery、Armour、Architecture、Atticaと書き終え、励めば近いうちにBのところに進めると思いました。フールスキャップ紙にはそこそこかかってますし、私の書いたもので棚が一段、ほとんどもういっぱいになっていました。そこで突然、それが全部終わりになりました。」「終わりに?」「ええ、ええ。今朝までにね。いつものように十時に仕事先に行きましたが、ドアが閉まって鍵がかかってまして、小さな四角いボール紙がドアの板の真ん中にびょうで打ち付けてありました。これですが、 読んでみてくださいよ。」 彼は便箋一枚ぐらいの大きさの白い厚紙を掲げた。それにはこんなふうに書かれていた。

赤毛連盟は解散
1890年10月9日

(14)シャーロック・ホームズと私はこのそっけない告知とその後ろの無念そうな顔を見ているうちに、出来事のこっけいな面が完全にほかの問題すべてを圧倒し、二人そろって大声で笑い出してしまった。「何がそんなにおかしいんだかわかりませんね」と、依頼人は燃え立つ髪の根元まで赤くなって叫んだ。「私を笑いものにするほかできないんだったら、よそへ行ってもいいんです。」「いえ、いえ」とホームズは、立ち上がりかけた客を椅子に押し戻しながら叫んだ。「実際あなたの事件は何としても逃すつもりはありません。実に目新しい珍事件です。しかしですね、言わせていただくなら、何かほんのちょっとおかしなところがありますね。どうぞ、ドアにカードを発見してあなたは何をしました か?」「私はぼう然としました。何をしていいのかわかりませんでしたよ。それから私は事務所を訪ね回ったんですが、そのことを何か知っているところは一つもないようでした。最後に私は一階に住んで会計士を やっている家主のところへ行き、赤毛連盟がどうなったのか知っているかと尋ねました。そんなものは一 度も聞いたことがないと言われましてね。そこで私はダンカン・ロスさんってのは何者か訊きました。初めて聞く名前だという答えでした。『ほらあの、』私は言いました。『四号室の人。』『え、赤い髪の人?』『そうです。』『ああ、』家主は言いました、『あの人ならウィリアム・モリスって言うんですよ。弁護士で、新しい 家屋が整うまで、便宜上一時的にうちの部屋を使っていたんですよ。』『どこへ行けば会えますかね?』『ああ、新しい事務所ですよ。住所を言っていきました。ええ、キング・エドワード街17、セントポール大聖堂の近くです。』私は出かけましたがね、ホームズさん、


(15)<その住所に着いてみるとそこは膝当ての工場で、ウィリアム・ モリス氏にしろ、ダンカン・ロス氏にしろ、誰も知りませんでした。」「それで、それからどうしました?」とホームズが尋ねた。「サクス-コバーグスクエアの家に帰り、スポールディングの助言を聞きました。しかしちっとも役に立ちませんでしたよ。待ってりゃ郵便で言ってくるだろうって言うばかりで。でもそれではあまりおもしろくないんですよ、ホームズさん。こんな身分を何もせずに失いたくありませんでした、で、あなたがね、 貧乏人でも困っていたら親切に助言してくれるって聞いていたもんで、まっすぐにこちらへ来たってわけです。」「それは非常に賢明でした」とホームズは言った。「これはきわめて珍しい事件ですし、喜んで調査しましょう。あなたの話からすると、一見して思うよりも重大な問題がぶら下がってそうな気がします。」「重大ですとも!」とジェイベズ・ウィルソン氏は言った。「私は週四ポンドを失っちまったんですよ。」「あなた個人についていえば、」ホームズは言った、「この異常な団体に何ら不満はないものと思いますが。それどころかあなたは、僕の理解するところ、三十ポンドほど豊かになったし、それに詳細な知識を文字Aの項に記述されている事柄すべてにおいて得たことは言うまでもありません。それであなたが失ったものは何もありません。」「ええ。ですがね、私は知りたいんですよ、連中のことを、連中が何者で、私にこんないたずらを-- もしいたずらなら--をする連中の目的は何なのかを。だいぶ金のかかる悪ふざけでしたがね、なにしろ 三十二ポンドかかったんですからね。」


(16)「あなたのためにそれらの点を解明するよう努力しましょう。それと、まず一つ、二つ質問を、ウィルソンさん。あなたのとこのその店員ですがね、最初にあなたの注意を広告に向けさせた--どのくらいお宅にいたんですか?」「あれが約ひと月たった頃です。」「どうしてお宅へ?」「広告に応じて。」「応募したのは一人だけですか?」「いえ、十人以上でした。」「なぜ彼を選びました?」「使いやすいし、安く来るもんで。」「事実、半分の賃金でね。」「そうです。」「どんな男ですか、そのヴィンセント・スポールディングは?「小柄で、丈夫な体格で、やることは非常に敏捷で、三十はいってるのに顔にひげはありません。額に酸がはねて白くなったところがあります。」ホームズはかなり興奮して椅子の上で座り直した。「そうだろうと思った」と彼は言った。「耳にイヤリングのための穴があいているのに気づきませんでしたか?」「知ってます。子供の頃ジプシーがやってくれたと言ってましたが。」「フム!」とホームズは言い、深い物思いに沈み込んでしまった。「その男はまだお宅にいますね?」「ああ、ええ。たった今置いてきたところです。」「あなたのいない間も商売に精を出していましたか?」「何の文句もありません。午前中はあまりすることのあったためしがないですし。」「結構です、ウィルソンさん。ぜひ一日、二日のうちにこの問題について意見を差し上げましょう。今日は土曜日、月曜日には結論を出したいですね。」「さて、ワトソン、」客が立ち去るとホームズが言った、「これをいったいどう思う?」「さっぱりわからないよ」と私は率直に答えた。「実に不可解なことだね。」


(17)「一般に、」ホームズは言った、「異様なことほど、結局はそれほど不可解ではなかったことがわかるものだ。本当に難しいのは平凡な、特色のない犯罪だ。ちょうど平凡な顔が最も見分けにくいのと同じようにね。しかしこの件は迅速にやらなければなるまい。」「それで何をするつもりだね?」と私は尋ねた。「煙草を吸うんだ」と彼は答えた。「まずはパイプ三服の問題だから、五十分間僕に話しかけないように頼むよ。」彼は椅子の上で丸くなり、やせた膝を鷹のような鼻のところまで引き上げ、目を閉じ、陶製 の黒いパイプを奇妙な何か鳥のくちばしのように突き出して座っていた。私がうとうとしながら、彼も寝入ってしまったと思い込んだ時、彼は突然、決断がついたというしぐさで椅子からパッと立ち上がり、パ イプをマントルピースの上に置いた。「セントジェイムズホールで午後サラサーテの演奏があるんだ」と彼は言った。「どうかな、ワトソ ン?君の患者は数時間君がいなくても大丈夫かな?」「今日は暇だよ。患者に忙殺されることなどないんだ。」「では帽子をかぶって来たまえ。まずはシティーを通るから、途中で昼食にしてもいいね。ドイツ音楽が豊富なプログラムだよ。イタリアやフランスのよりも僕の好みに合うんだ。内省的だし、僕は内省したいんだ。行こう!」私たちはアルダスゲイトまで地下鉄で行き、少し歩くと、その朝聞いた奇妙な物語の現場、サクス-コバーグスクエアに着いた。それはちっぽけな斜陽の地であり、二階建ての薄汚いレンガ造りの家々が四方から柵に囲まれた小さな空き地に面し、そこでは雑草だらけの芝生といくつかのしおれた月桂樹の茂みが煙漂う居心地の悪い大気に悪戦苦闘していた。


(18)角の家の三つの金色の球と茶色の板に白い文字の『ジェイベ ズ・ウィルソン』とが私たちの赤い髪の依頼人が店を経営している場所を知らせていた。シャーロック・ ホームズはその前に立ち止まり、首をかしげ、すぼめたまぶたの間の目をきらきらと輝かせ、その全体をざっと見渡した。それから彼は、家並みを鋭い目で見つめながら、ゆっくりと通りを行ったり、そしてまた角まで来たり、と歩いた。最後に彼は質屋の店に戻り、ステッキで二、三度、力強く歩道を叩き、ドアに近寄り、ノックした。すぐにドアは開き、快活そうな、ひげのない若者がお入りくださいと言った。「ありがとう、」ホームズは言った、「ここからストランドへはどう行けばいいのか聞きたいだけなん ですが。」「三つ目を右、四つ目を左」と店員は、ドアを閉めながら即座に答えた。「頭のいい奴だ、あれは」と、店から離れ、ホームズは言った。「僕の考えではロンドンで四番目に頭のいい男であり、大胆不敵さにおいては第三位の資格もないとは言えないな。僕は前からちょっと知ってるんだ。」「明らかに、」私は言った、「ウィルソン氏の店員はこの赤毛連盟の謎にかなり重要な意味を持っているね。単にあの男を見たいがために道を尋ねたんだね。」「あの男をではない。」「では何を?」「あの男のズボンの膝だ。」「それで何を見たんだ?」「予期していたものを。」「歩道を叩いたのはなぜだね?」「ねえ博士、今は観察の時であって議論の時ではない。僕たちは敵国にいるスパイだ。サクス-コバーグスクエアについてはちょっとわかった。今度はその裏の地域を探検しようじゃないか。」


(19)角を曲がると、後にしたサクス-コバーグスクエアとは絵画の裏と表ほどの著しい対照をなす道路に出た。そこは北と西へのシティーの交通を担う大動脈の一つであった。車道は流れ込み、流れ出る通商の二対の潮の巨大な流れにふさがれ、歩道は急ぎ歩く人々の群れで真っ黒だった。立ち並ぶ立派な店や堂々たる事務所を目の当たりにしながら、その裏側に実際に隣接しているところが、たった今出てきた、衰退し、活気のない一角であるとは本当にしにくいものがあった。「さてと、」ホームズは角に立ち、家並みに沿って見渡しながら言った、「ちょっとここの建物の順序 を覚えておきたいんだ。ロンドンを正確に知ることは僕の趣味だからね。モーティマーの店、煙草屋、小さな新聞屋、シティーアンドサバーバン銀行コバーグ支店、ベジタリアンレストラン、マクファーレン馬車製造の倉庫。それで別のブロックになる。さあ、博士、僕たちは仕事を終えたのだから、もう遊んでもいい時間だ。サンドイッチとコーヒー、それからバイオリンの世界へ出発だ。甘美と上品とハーモニ ーの世界には判じ物で僕たちを悩ませる赤毛の依頼人もいないよ。」友は音楽にも熱中していて、彼自身、きわめて優れた演奏家であるばかりでなく非凡な作曲家でもあったその午後を通して彼はこれ以上はない幸せに包まれて一等席に座り、細く、長い指を音楽に合わせて優しく揺らし、その優しく微笑んだ顔や気だるい、夢見るような目は探偵ホームズ、容赦ない、頭の切れる、迅速な犯罪捜査官ホームズのそれとは想像も及ばぬほど違っていた。彼の奇妙な性格においては二つの性質が交互に自己主張し、その極端な厳正さ、明敏さは時折彼のうちで優位を占める詩的、瞑想的気分に対する反動を表している、と私はよく考えたものだ。


(20)性質の振幅が彼を極端な気だるさから猛烈な活動へと導くのだ。そして、私にはよくわかっているが、何日も続けて肘掛け椅子に横になり、即興演奏 やゴシック版に浸っている時の彼ほど恐るべきものはなかったのである。その時こそ追跡の欲望が不意に彼を襲い、彼の目覚しい推理能力が直感のレベルまで高まり、ついには彼の方法をよく知らない者などは普通の人間が誰も持ち得ない知識を持つ人として彼を不審の目で見ることになるのだった。その午後、セントジェイムズホールですっかり音楽に夢中になっているホームズを見た私は、彼が追いつめにかかっている連中に不吉な時が近づいているのを感じた。「君は家に帰りたいだろうね、博士」と外に出た時彼が言った。「ああ、その方がいい。」「それに僕もやることがあって数時間かかりそうだ。このコバーグスクエアの事件は重大だよ。」「重大とはなぜだね?」「相当の犯罪が計画中なんだ。間に合ってそれを止められると信じるだけの根拠は十分にある。だが今日が土曜日だということがちょっと事を面倒にしているんだ。今夜は君の助けが必要になる。」「何時に?」「十時で充分間に合うだろう。」「十時にベーカー街に行くよ。」「結構。それからね、博士、ちょっと危険なことがあるかもしれないから、軍用のリボルバーをポケットに入れておいてくれ。」彼は手を振り、さっと向きを変え、たちまち人ごみの中へ姿を消した。私は自分が周りの人間より鈍いとは思っていないが、シャーロック・ホームズと付き合っていると、 自分が愚かだと感じていつも悲しくなる。この際、彼が聞いたことは私も聞いていたし、彼が見たことは私も見ていたのに、彼の言葉からすると、明らかに彼が何が起こったか、だけではなく、何が起ころうとしているか、もはっきりわかっているのに対して、私には事件全体がわけのわからぬばかげたもののままだった。


(21)馬車でケンジントンの家へ向かいながら私は、百科事典を複写する赤い髪の人の異常な物語から始まって、サクス-コバーグスクエアへの訪問、そして別れ際の彼の不穏な言葉に至るまで、すべてを熟考した。この夜の遠征はなんなのか、なぜ私は武装しなければならないのか?どこへ行こうとし、何をしようとしているのか?ホームズは、あの顔にひげのない質屋の店員は恐るべき男--深いたくらみを図りうる男だとほのめかした。私はその謎を解こうとしたが、あきらめて投げ出し、問題を棚上げにし、説明のもたらされる夜を待った。九時十五分に私は家を出、ハイドパークを横切り、オックスフォード街を通ってベーカー街へ行った。二台のハンサムが玄関に止まっていて、廊下へ通ると、上から人声が聞こえた。部屋に入ってみると、ホ ームズは二人の男と活発に話を交わしていた。一人は警察官のピーター・ジョーンズとわかったが、もう 一人は長く、細い、陰気な顔の男で、ぴかぴかの帽子と息も詰まるほどきちんとしたフロックコートを着けていた。「やあ!僕たちの部隊は完成だ」と言いながら、ホームズはピージャケットのボタンをかけ、棚から重い狩猟用の鞭を取った。「ワトソン、スコットランドヤードのジョーンズ君は知っているね?こちらはメリーウェザーさんと言って、今夜の冒険で僕たちの仲間になっていただく人だ。」「また二人一組で狩りですね、先生」とジョーンズはいつものもったいぶった言い方をした。「こちらの我々の友人は獲物を狩り出すことにかけては驚くべき人ですからね。あと必要なのは追い詰めるのを助ける老練な犬だけですよ。」


(22)「狙った獲物はガチョウ一羽だったということにならないよう願いたいですな」とメリー・ウェザー氏 が陰気に言った。「ホームズさんのことは相当に信用してかまいません」と警察官は高慢ちきに言った。「この人には独自のちょっとした方式がありましてね、これがまあ、言わせてもらえれば、ほんのちょっと理論に偏り過ぎで空想的ですがね、探偵の素質はありますよ。一度か二度、あのショルトー殺しとアグラの財宝の事件のように、警察より真相に近かったことがあると言っても過言ではありません。」「ああ、あなたがそう言うなら、ジョーンズさん、結構ですよ」と、まだよく知らないその人は服従して言った。「それでもねえ、実のところブリッジをやりそこねましたよ。三番勝負をやらない土曜の夜は二十七年間 で初めてです。」「今夜あなた方は、」シャーロック・ホームズが言った、「これまでに経験のない大きな賭けをすることになるし、最高にわくわくする勝負になると思いますよ。あなたにとっては、メリーウェザーさん、約三万ポンドの賭けになります。君にはね、ジョーンズ、君がつかまえたいと思っている男だ。」「殺人犯、泥棒、偽造犯、模造犯のジョン・クレイ。若い男ですがね、メリーウェザーさん、その道ではトップですし、私はね、ロンドンのどんな犯罪者よりも奴に手錠をかけてやりたいんです。驚くべき男です、ジョン・クレイって奴は。おじいさんは王族の公爵、本人もイートンからオックスフォードです。器用な上に知能の方も狡猾な奴でね、事あるごとにあいつの気配に出くわすんだが、あの男本人をどこで見つけたらいいのかわかったためしがない。


(23)ある時はスコットランドでけちな窃盗をする、と次の週は コーンウォールで孤児院建設のために金を調達する。何年も追っていてまだ一度もあいつを見たことがないんです。」「今夜君に紹介させてもらえるといいねえ。僕は一、二回ちょっとばかりジョン・クレイ氏と手合わせをしたが、君の言うとおりその道のトップだ。しかし十時を過ぎたし、まったくのところ出発する時間だ。 君たち二人が一台目のハンサムに乗れば、ワトソンと僕は二番目ので追っかけますよ。」長い道のりの間、シャーロック・ホームズはあまり話をせず、馬車の後ろにもたれ、昼間聞いた曲をハミングしていた。果てしなく入り組んだガス灯のともる街路を疾走し、やっと私たちはファリントン街へ 出た。「さああそこに近づいた」と友が言った。「あのメリーウェザーという男は銀行の重役で、事件に直接利害関係があるんだ。ジョーンズも一緒にいてもらった方がいいと思ってね。仕事の方はまったく無能だが、悪い男じゃない。明らかに一つ長所もある。ブルドッグのように勇敢だし、ロブスターのようにつかんだらもうしっかり握って離さない。さあ着いた、連中も僕たちを待っている。」私たちは午前中に来た時と同じ、混雑した往来に着いた。私たちは馬車を乗り捨て、メリーウェザー氏の案内に従い、狭い通路を抜け、彼があけてくれた通用口から通った。中には細い廊下があり、その突き当たりは非常にどっしりした鉄の扉だった。これもまたあけられ、下に通じる石のらせん階段が続き、その終わりにはまたもや恐ろしげな扉だった。メリーウェザー氏は立ち止まって角灯をともし、それから私たちを下の暗い、土の匂いのする通路へ、そこで三番目の戸をあけ、そこらじゅうに木枠のやら大きなのやら箱が積まれている大きな地下室というか穴蔵へ案内した。


(24)「上からに対してはあまり弱点はないですね」とホームズは、角灯をかざし、あたりを見つめながら言った。「下からだって」とメリーウェザー氏は、床に敷き詰められた板石を叩きながら言った。「おや、ばかにうつろな音だな!」驚いて目を上げながら彼は言った。「本当にもう少し静かにお願いしますよ!」とホームズはきつく言った。「あなたは早くもこの遠征隊の成功全体を危険にさらしたのですよ。失礼ですが、どうかそこらの箱の上に座って邪魔しないようお願いしたいですね。」まじめくさったメリーウェザー氏は木箱に腰を下ろし、気を悪くした顔つきだったが、ホームズの方は 床に膝をつき、角灯と拡大鏡を使って敷石の間の裂け目を詳細に調べ始めた。ほんの数秒で満足した彼はパッと立ち上がり、拡大鏡をポケットに入れた。「少なくともまだ一時間あります、」彼は言った、「善良な質屋が間違いなく寝るまでは連中も何をするわけにもいかないですからね。その後は一刻も無駄にしないでしょう。仕事を早く済ませればそれだけ逃げる時間を長く取れますから。僕たちは今ね、博士-おそらく君は見抜いているだろうが-ロンドンの主要な銀行の一つのシティーにある支店の地下室にいる。メリーウェザーさんはその頭取だが、ロンドンの大胆な犯罪者たちが現在この地下室に相当の興味を持つ理由があることを説明してくださるだろう。」「フランス金貨ですよ」と頭取は小声で言った。「何か企てがあるかもしれない、と何度か注意されてはいました。」「フランス金貨?」「ええ。数ヶ月前に財源を強化する必要があり、そのためにフランス銀行からナポレオン金貨三万枚を借り入れました。


(25)その金の荷を解く必要がなかったこと、それでまだこの地下室に眠っていることが漏れてしまいましてね。私が座っている木箱の中には二千枚のナポレオン金貨が幾層もの鉛の箔の間に詰められています。この準備した金は目下一支店が通常保管するものよりはるかに多いですし、重役の間でも不安を持っていたんですが。」「それはきわめてもっともなことです」とホームズが言った。「さて、そろそろ手はずを決めておく時間ですね。一時間以内に事件は山場を迎えると思います。それまでメリーウェザーさん、その暗室灯に覆いをしなければなりません。」「それで暗闇に座ってるんですか?」「残念ながらそうなんです。ポケットにカードを一組を持ってきましてね、アベック二組ですから、それでも三番勝負をやれるかと思いまして。しかし敵の準備もかなり進んでますので、あえて明かりをつけておくわけにはいかないようですね。ではまず初めに立つ位置を選ばなければなりません。大胆な連中ですからね、僕たちが不意打ちを食わせるにしても、注意しないと危害を加えられるかもしれません。僕はこの木の箱の陰に立ちますから、あなた方はその辺の後ろに隠れてください。それから、僕が連中を明かりで照らしたら、すみやかに包囲してください。連中が発砲したら、ワトソン、ためらうことなく撃ってくれたまえ。」私は銃の撃鉄を起こし、木製の箱の上に置き、その陰にかがんだ。ホームズが角灯の前の滑板をさっと動かし、真っ暗闇になった--私が経験したことのない完全な闇だった。残っている熱した金属の匂いが、明かりがまだそこにあり、いつでも即座に光を放つことを私たちに保証していた。


(26)私は期待とともに神経を高ぶらせながら、突然の暗闇と地下室の冷たく湿った空気の中で何か気のめいる、抑えつけられるようなものを感じていた。「退路は一つだけだ」と小声でホームズが言った。「すなわちあの家を通ってサクス-コバーグスクエ アへ戻ることだ。僕が頼んだことをやってくれたろうね、ジョーンズ?」「玄関口に警部が一人、警官が二人待機しています。」「するとすべての穴をふさいだわけだ。それでは静かに待つばかりだ。」何という時間だったろう!後で記録を突き合わせるとほんの一時間十五分だったのに、私には夜はほとんど過ぎ行き、夜明けが訪れているにちがいない、と思われた。位置を変えるのをためらったため、手足が疲れ、こわばっていた。それでも神経の緊張は最高度に高まっていたし、聴覚は鋭敏になって仲間たちの静かな息遣いが聞こえるばかりでなく、大きなジョーンズのより深く、激しく吸い込む息と、銀行の重役のかぼそい、ため息のような音を聞き分けることもできた。私の位置からは箱越しに床の方向が見えた。突然、 私の目が光のきらめきを捉えた。初めそれは石の舗装の上の薄黄色の閃光にすぎなかった。それからそれは長くのびて一筋の黄色い線になり、それから前兆も音もなく、裂け目が口をあけたように見え、手が一つ現れた。白い、女のような手で、それが光の当たる小さな範囲の中心を探った。一分かそこら、その手は指をくねらせながら床から突き出ていた。それからそれは現れた時と同じように突然引っ込み、石の間の裂け目を示す一筋の薄黄色のきらめきを除いて再び真っ暗になった。しかしそれが姿を消したのはほんの束の間のことだった。


(27)つんざき、引き裂くような音とともに、幅の広い、白い石の一つが横倒しにひっくり返り、四角い穴がぽっかりと口をあけ、そこから角灯の光が流れ込んだ。その縁からひげのない少年のような顔がのぞき、あたりを鋭く見回し、それから開口部の両側に手をかけ、自身を肩の高さまでそして腰の高さまで引き上げ、ついには片膝を縁にのせた。次の瞬間、 彼は穴の傍らに立ち、彼に続く仲間、彼と同じようにしなやかで小柄で、青白い顔に真っ赤なもじゃもじゃ頭の仲間を引っ張っていた。「邪魔物はない」と男はささやいた。「のみと袋は持ってきたか?なんてこった!跳べ、アーチー、跳べ、ひどいことになった!」シャーロック・ホームズが飛び出し、侵入者の襟をつかんだ。もう一人は穴へもぐりこんだが、ジョーンズにすそをつかまれ、服のちぎれる音が聞こえた。リボルバーの銃身に光が当たってきらめいたが、ホーム ズの狩猟用の鞭が男の手首を襲い、ピストルは石の床にかちりと音を立てた。「無駄だ、ジョン・クレイ」とホームズは穏やかに言った。「君の勝ち目はまったくない。」「そのようだな」と相手はまったく冷静に答えた。「仲間は大丈夫らしいな、コートのすそを持ってるようだが。」「玄関で三人待っているよ」とホームズが言った。「ほう、そうかい!どうやら完璧にやってのけたようだな。敬意を表さねばならんな。」「それはこちらもね」とホームズは答えた。「赤毛の着想はきわめて斬新で有効だった。」「すぐにまた仲間に会えるさ」とジョーンズが言った。「穴を這い下りるのが私より速かったな。手錠をかけるちょっと手を差し出すんだ。」


(28)「その不浄な手で私に触らないでいただきたいな」と、手首にがちゃりと手錠をかけられた囚人は言った。「ご存じなかろうが私のからだには王室の血が流れているんだ。私に話しかける時は常に『どうぞ』とか『お願いします』とか言うようにしてもらいましょう。」「結構」とジョーンズはじろじろ見、くすくす笑って言った。「では、まことにあいすみませんが、どうぞ、階上の方へお運びいただきますれば、馬車をば整えまして、殿下を警察署へお連れ申し上げたく存じます。」「それでよろしかろう」とジョン・クレイは穏やかに言った。彼は私たち三人にさっとお辞儀をし、刑事に付き添われて静かに歩み去った。「本当にホームズさん、」彼らに続いて地下室を出ながらメリーウェザー氏は言った、「当銀行はどのようにあなたにお礼を申し、報いたらいいのかわかりません。間違いなくあなたは、私の経験からしても最も胆の据わった銀行強盗の企てを完璧なやり方で看破し、打ち破ったのです。」「僕自身一つ、二つ、ジョン・クレイ氏には返さなければならない借りがあったんです」とホームズは言った。「この件では少しばかり費用がかかりましたので、銀行に払ってもらうつもりですが、それにもまして、いろいろな意味で比類ない経験をしたこと、赤毛連盟という実に珍しい物語を聞けたことで充分な報酬を受けているのです。」「いいかい、ワトソン、」翌朝早く、ベーカー街でウィスキーソーダを飲みながら彼は説明した、「初めから明々白々なことだったが、このかなり異様な連盟の広告、百科事典の複写の目的として唯一考えられるのは、あのあまり頭のよくない質屋に毎日幾時間かよそへ行ってもらうことにちがいない。


(29)奇妙なやり方でやってのけたものさ、しかし、実際のところ、もっといいやり方を挙げてみろといっても難しいね。この方法は疑いなく、共犯者の髪の色を見てクレイの独創的な頭に浮かんだものだ。週四ポンドのおとりで質屋を引きつけなければならなかったが、それが何だろう、彼らは何千の勝負をしていたんだからね。悪党どもは広告を出し、一人が仮の事務所を構え、もう一人があの男が応募するようにそそのかす、連携して平日は毎朝必ず彼が留守にするよう、うまくやってのける。店員が半分の給料で来ていると聞いた時から、僕にはそいつに何かその勤め口を確保する強い動機のあることが明白だったよ。」「しかしどうやってその動機が何かを解き当てたんだね?」「あのうちに女どもでもいれば、単なる下劣な陰謀を疑うべきところだった。しかしそれは問題外だった。あの男の商売は小体で、連中がしたような手の込んだ準備や支出の説明となりうるものは何もなかった。 何がありうるだろうか?僕は店員の写真の趣味、地下室へ姿を消すやり方を考えてみた。地下室!そこにこのもつれた手がかりの端があったのだ。そこで僕はこの不可思議な店員について尋ねてみたのだが、ロンドンでも最も冷静で大胆な犯罪者の一人を相手にしなければならないことがわかった。その男が地下室で何かをやっている--一日何時間もかけて何ヶ月も続く何事かを。ここでもう一度、何がありうるだろうか? 僕が思いついたことはただ一つ、彼はどこか別の建物へトンネルを通しているんだ。ここまで達してから、僕は君と活動の現場を訪れた。ステッキで歩道を叩いて君をびっくりさせたね。 地下室が伸びているのは前か後ろか、僕は確かめていたんだ。そこで僕はベルを鳴らし、すると期待通り、 件の店員が出てきた。




ボヘミアンスキャンダル

ストーリー解説(wikipedia)



下は、シャーロック・ホームズ「ボヘミアンスキャンダル」の全文です。会話文主体で、論理的に、かな:漢字は読みやすい範囲内の比率で書かれています。29の段落に分けられ、その段落の冒頭には毎日1つ黒色から灰色に変わるカッコ付きの番号が付けられています。その灰色の番号をクリックすると、画面が「小説文解読パズル(Seesaa ブログ)」に切り変わり、いくつかの漢字が数列化された段落が現れます。現れた段落の数列を漢字の読み、綴りに戻していくうちに、それらの記憶が強化される仕組みになっております。単に読書をしただけなら、漢字力がつくとは限りませんが、この方法なら、つくはずです。では、クリックして、解読してみてください。ストーリーは、こちらをお読みください。



(1)
シャーロック・ホームズがあの女ひとと言えば彼女のことだった。彼女の話をするのにほかの呼び方を聞いたことはめったにない。彼からすると彼女は女性すべてを凌駕(りょうが)し、その輝きを奪うのである。彼がアイリーン・アドラーに恋愛に似た感情を抱いたというのではない。あらゆる感情、特にその種のものは彼の冷静で緻密ながら見事に均衡の取れた精神と相入れないものだった。思うに彼はこの世に現れた最も完璧な推理・観察の機械であるが、恋する人としては お門違いをすることになったろう。彼が嘲弄、冷笑を抜きにして情愛に傾く心を語ることはなかった。そういうものは観察者としては結構なものだった--効果的に人間の動機と行動をあらわにするからである。しかし訓練を積んだ理論家としては、自らの繊細で精密に調整された気質にそうしたものの侵入を許すことは、 その知的成果に疑いを招きかねない気を散らす要因を持ち込むことになるのだった。高感度の計器に入った砂粒、あるいは彼が持っている高性能のレンズのひびとても、彼のような心における強い情動ほど邪魔にはならなかったろう。それでも彼にはただ一人の女性があり、その女性とは今は亡き、 故アイリーン・アドラーであった。このところホームズとはほとんど会うことがなかった。私の結婚により互いに疎遠になっていたのだ。自らのこの上ない幸福、そして初めて自分の所帯の主人となった男の周りに持ち上がる家庭を中心とした利害は私の注意をすべて奪うのに十分だったし、ホームズの方は、ボヘミアンそのものであるその精神のためにどんなものであれ社交を嫌い、ベーカー街の私たちの下宿に残って古い本に埋もれ、週ごとにコカインと野心、麻薬による惰眠と、彼本来の情熱的な性質の示す猛烈な気力の間を行きつ戻りつしていた。


(2) 彼は相変わらず犯罪の研究に強く引きつけられ、その計り知れない才能、並外れた観察力を傾けて、警察が絶望的と断念した手がかりを追い、謎を解いていた。時折彼がしていることが耳に入った。トレポフ殺人事件でオデッサに召喚されたこと、トリンコマリーでアトキンソン兄弟の奇怪な事件を解決したこと、 そして最後にオランダ王家のためにうまく成し遂げたデリケートな使命のこと。しかしこれら、彼の活動しているしるしを私は日刊紙の読者すべてと共有しているだけであり、ほかにかっての友、仲間について知るところはほとんどなかった。ある晩--1888年3月20日だった--患者を訪ねて戻る私を、帰路がベーカー街へと運んだ。いつまでも私の心に、求婚しているころのこと、そして緋色の研究という陰惨な事件のことを連想させるにちがいない、あの忘れがたい家を通りかかった時、私はまたホームズに会いたい、彼がその並外れた能力をどのように用いているのか知りたい、という強い思いに襲われた。彼の部屋はあかあかと灯がともり、ちょうど私が目を上げた時、彼のやせた長身のブラインドに映る黒いシルエットが二度通過するのが見えた。彼は深く頭を垂れ、後ろ手を握り締め、足早に、しきりに部屋を行き来していた。彼の心理状態や癖に通じている私には、彼の態度や様子の意味するものは明らかだった。彼が再び仕事をしているのだ。彼は麻薬の創り出す夢から覚め、 新たな問題の臭跡に迫っているのだった。私はベルを鳴らし、かって私のものでもあった部屋へ案内された。彼の態度に感情は見えなかった。それはめったにないことだった。


(3)しかし彼は私に会って喜んでいたと思う。言葉はほとんどなかったが、優しい目をして、手で私に肘掛け椅子を勧め、葉巻入れをほうってよこし、隅のアルコールのケースとソーダメーカーを指さした。それから彼は火の前に立ち、例の内省的な奇妙なやり方で私を吟味した。「結婚生活が合ってるんだね」と彼は言った。「最後に見てから七ポンド半は増えているかな、ワトソン。」「七ポンドだ!」と私は答えた。「ほう、もう少し考えるべきだったね。ほんのちょっとってところかな、ワトソン。それにまた開業してるんだね。仕事に就くつもりだなんて言わなかったけれどね。」「だがどうしてわかるんだ?」「わかるさ、推理したんだ。最近君がびしょぬれになる羽目になったことや、君んところに不器用で不注意な女中がいることはどうしてわかるんだろうねえ?」「ホームズ君、」私は言った、「これはかなわん。何世紀か前に生きてたら君はきっと火あぶりだよ。 確かに木曜日にいなかを歩いて、恐ろしく汚れて帰ったが、洋服は変えたんだからね、どうして君にわかるのか見当もつかんよ。メアリー・ジェーンのことなら、あれは救いがたい、だから妻が辞めてもらうことにしたよ。だが、これまた君がどうしてそう考えたのかわからない。」彼はくすくす笑い、長い、神経質な両手をこすり合わせた。「簡単そのものだよ」と彼は言った。「君の左足の靴の内側、ちょうど暖炉の火が当たってるところさ、革にほぼ平行な切り傷が六つついているのが見える。明らかにそれは誰かが靴底について固まった泥を落とそうとして縁をきわめてぞんざいにこすったせいでついた傷だ。そこで、いいかな、僕の二重の結論は、君がひどい天候の中を外出したこと、君のところにはとりわけ悪質な靴裂き屋であるロンドン女中の見本 がいたこと、だ。


(4)君の開業については、部屋に入ってきた紳士がヨードホルムのにおいをさせ、右手の人さし指を硝酸銀で黒く汚し、シルクハットの右側を膨らませてそこに聴診器を忍ばせていることがわかるなら、いや、実際、僕が鈍いというならともかく、これは現役のお医者さんだと断定するはずじゃないか。」推理の過程を説明されてみれば簡単なので、私は笑わずにいられなかった。「君が理由を話してくれる のを聞くと、」私は言った、「それはいつもばかばかしいほど易しいように見える。だから私にも簡単に できるはずなんだがね。もっとも君の連続した推論の一つ一つの段階においては、君がその過程を説明してくれない限り私はまごつくばかりだ。でも私の目は君と変わらないと思うんだがね。」「そうともさ」と彼は答え、煙草に火をつけ、肘掛け椅子に身を投げ出した。「君は見ている、が、観察していない。この区別ははっきりしてるんだ。たとえばさ、君は玄関からこの部屋へ至る階段を頻繁に見ているね。」「よく見てるよ。」「どのくらい?」「そうさね、何百回かな。」「それじゃ何段ある?」「何段?わからないよ。」「そうとも!君は観察していなかったんだ。それでも君は見ていた。そこが僕の言いたいところだ。そこでだ、僕は知ってるよ、十七段あるんだ、僕は見てもいるし観察もしているからだ。ところで、君はこうした小さな問題に興味を持っているし、親切にも僕のささいな経験を一つ、二つ記録してくれたし、だからこれもおもしろいかもしれないよ。」彼はテーブルに広げて置かれていた一枚の厚い、ピンク色の便箋をこちらに投げた。「さっきの郵便で来たんだ」と彼は言った。


(5)「読んで聞かせてくれ。」手紙に日付はなく、署名も住所もなかった。「今夜八時十五分前に訪問します(と書いてあった)、紳士はきわめて重大な問題であなたに相談を望んでいます。先ごろのあなたのあるヨーロッパの王室への尽力は、あなたが誇張でなく重要な問題を託して間違いのない人であることを示したものです。あなたに関するこうした話を私たちは受け各方面からとっています。その時刻にはお部屋に、それから訪問者の覆面に気を悪くされぬよう。」「これはまったく不可解だね」と私は言った。「どういう意味かわかるかい?」「僕にはまだデータがない。データを得る前に理論を立てるのは重大な過ちだ。気づかぬうちに人は理論を事実にあわせる代わりに、理論にあわせて事実を歪め始めるものだ。しかしその手紙そのものだが。 君はそこから何を推測する?」私はその書体やそれが書かれている紙を注意深く調べた。「これを書いた男はたぶん裕福だろうね」と私は友の方法を真似しようと努めながら言った。「こういう紙は一束半クラウン以下では買えまい。丈夫さ、硬さは独特のものだ。」「独特--まさにその通りだ」とホームズは言った。「なにしろイギリスの紙じゃない。明かりにかざしてみたまえ。」そうすると、大きなEと小さなg、P、また大きなGと小さなtの透かし文字が紙に織り込まれていた。「それをどう思う?」とホームズが尋ねた。「メーカーの名だ、間違いない。というより頭文字の意匠だね。」「とんでもない。Gと小さなtは『Gesellschaft』、ドイツ語の『会社』を表している)僕たちの『Co』 同様、習慣的な短縮形だ。Pはもちろん『Papier』、紙を表す。さてEgだ。大陸地名辞典を見てみるかな。」


(6)彼は上の棚から茶色の重い一冊を取った。「Eglow、Eglonits--あったぞ、Egria。ドイツ語圏、ボヘミアの、カールスバートから遠くないところだ。『ヴァレンシュタイン死の舞台として、および多数のガラス工場、製紙工場のあることで注目。』ハ、ハ、君、どう思う?」彼は目を輝かせ、高々と勝どきの紫煙を噴 き上げた。「この紙はボヘミアで作られたんだね」と私は言った。「まさしくね。それにこの手紙を書いた男はドイツ人だ。妙な文章構造に注意してくれたまえ--『あなたに関するこうした話を私たちは受け各方面からとっています。』フランス人やロシア人ならそうは書かなかったろう。こんなに乱暴に動詞を扱うのはドイツ人だ。従って、残るは、ボヘミア製の紙に書き、顔を見せるぐらいなら覆面をするという、このドイツ人が何をお望みかを知るだけだ。それにほら、僕の勘違いでなければ、ご当人が来て僕たちの疑いを解いてくれるよ。」彼がそう言うと、馬のひづめと縁石をこする車輪の鋭い音が聞こえ、それから激しくベルが引かれた。ホームズが口笛を吹いた。「二頭立てだね、音からすると」と彼は言った。「そうだ、」彼は窓の外に目をやりながら続けた、「 素敵な小型のブルームにすばらしいのが二頭。一頭百五十ギニーずつだな。この事件は、ワトソン、ほかに何もなくとも金にはなるよ。」「私は行ったほうがいいかな、ホームズ。」「ちっともかまわないよ、ドクター。そこにいてくれ。僕にも伝記作家がいなくては困る。それにこれはおもしろそうだよ。見逃す手はないと思うよ。」「でも依頼人は-」「それはかまわないさ。僕が君の助けを必要とするかもしれないとなれば依頼人だって。ほら来たよ。 その肘掛け椅子に座ってくれ、博士、そしてよく聞いていてくれたまえ。」


(7)ゆっくりとした重々しい足音が階段、そして廊下に聞こえ、ドアのすぐ外で止まった。それから大きな、 有無を言わさぬノックの音がした。「どうぞ!」とホームズは言った。六フィート六インチはくだらない身長で、胸も四肢もヘラクレスのような男が入ってきた。その豪華な服はイギリスでは悪趣味に近いものと見られる豪華さであった。ダブルのコートの袖口や胸には重厚なアストラカンの帯状のスラッシュがつけられ、肩には炎の色のシルクの裏地の濃紺のマントをかけ、燃えるような緑柱石一つからなるブローチで首に留めていた。ふくらはぎまで伸びて、最上部を贅沢な茶色の毛皮で飾ったブーツが、外観全体の与える垢抜けのしない華やかな印象の仕上げとなっていた。つば広の帽子を手にしていたが、顔の上半分を横切り、頬骨にまだ達している黒い、目を隠す覆面をどうやらその瞬間まで直していたようで、部屋に入った時も手はまだそれに触れていた。顔の下半分からは強い性格がうかがわれ、厚い、垂れた唇、長くまっすぐなあごは頑固なまでの決断力を思わせた。「手紙は受け取りましたか?」と彼は太い、耳障りな声、ひどく目立つドイツなまりで尋ねた。「訪問することは伝えました。」彼はどちらに話しかけてよいのかわからないというように私たちを代わる代わる見た。「どうぞお座りください」とホームズが言った。「これは友人で同僚のワトソン博士で、時折事件で助けになってくれています。ところでどなた様でしょうか?」「フォン・クラム伯爵と呼んでもらって結構、ボヘミアの貴族です。こちらの紳士、あなたの友人は、きわめて重要なことを打ち明けて差し支えない、信義を重んじ、分別ある方と思いますが。さもなくば、よほどあなた一人と話したいのですが。」


(8)私は立ち上がって行こうとしたが、ホームズが手首をつかみ、私を席に押し戻した。「二人でなければだめです」とホームズは言った。「僕に話せることは何でもこの紳士の前でお話しください。」伯爵は幅広い肩をすくめた。「それではまず初めに、」彼は言った、「お二人に二年間の秘密厳守を約束してもらいましょう。そのころにはこの問題も大したことではなくなろう。現時点ではヨーロッパの 歴史に影響を及ぼすほど重要と言っても過言ではないのです。」「約束します」とホームズが言った。「私も。」「この覆面も許してください」と奇妙な訪問者は続けた。「私を遣わした高貴な方が代理人のことも知 られぬようにとお望みであり、また実を言うと、今言った肩書きも必ずしも私自身の者ではないのです。」「気づいておりました」とホームズは冷淡に言った。「状況は非常に微妙であり、あらゆる警戒をして、巨大なスキャンダルとなってヨーロッパの王室の一 つに重大な傷をつける火種を消さねばなりません。はっきり言えば、この問題はボヘミア代々の王、名門 オルシュタイン家が関係しているのです。」「それもまた気づいておりました」とホームズは小声で言い、肘掛け椅子に腰を下ろし、目を閉じた。私たちを訪れた客は、ヨーロッパで最も明敏な理論家であり、最も精力的な捜査官であると確かに聞かされていた男の気のない、だらけた姿を、明らかに少々驚いて見やった。ホームズは再びその目をゆっくりと開き、巨人のような依頼人をいらだたしげに見た。「かたじけなくも国王陛下にその問題をお話しいただければ、」彼は言った、「よりよい忠告を差し上げられます。」その人は椅子から飛び上がり、動揺を抑えきれずに部屋を行ったり来たりした。


(9)それから、捨て鉢を身ぶりに表し、彼は顔から覆面をもぎ取り、それを床に投げつけた。「その通りです、」彼は叫んだ、「私は王です。なぜ隠そうとせねばならないのか?」「まったくなぜでしょう?」とホームズは小声で言った。「陛下がお話しになる前に、僕は自分がお話 ししているのはボヘミア国王、カッセル-フェルシュタイン大公、 ヴィルヘルム・ゴッツライヒ・シギスマンド・フォン・オルムシュタイン陛下であると存じてました。」「しかしおわかりのはずだが、」奇妙な客はもう一度腰をかけ、その高い、白い額をかき上げながら言った、「おわかりのはずだが、私が自分でこういう用件を処理するのは異例のことです。けれども事は微妙ゆえ、代理人などに打ち明けることはできません。自らその男の手中に陥りますから。あなたの意見を聞くためにプラハからひそかに来たのです。」「では、どうぞご相談を」とホームズはもう一度目を閉じて言った。「では事実を手短に。五年ほど前、長くワルシャワに滞在した際、私は有名な冒険的女性、アイリーン・ アドラーと知り合いになりました。名前はおそらく知っているでしょうね。」「僕の索引で調べてくれないか、博士」とホームズは目を閉じたままつぶやいた。長年にわたり、彼は人や事件に関する記事に組織的に摘要をつける方式を採用していたので、どんな問題や人物を挙げても彼は直ちにその情報をもたらすことができた。今回その人物伝は、あるヘブライ人のラビのそれと深海魚に関する研究論文を書いたある参謀将校のそれの間にあった。「見せてくれ!」とホームズは言った。


(10)「フム!1858年ニュージャージー生まれ。コントラルト-フム! スカラ座、フム!ワルシャワ帝国歌劇団でプリマドンナ-ほう!オペラのステージから引退-おや!ロ ンドン在住-そうだろう!つまり陛下は、この若い人物と関係して、名誉にかかわる手紙を何通か書かれ、 今ではそれらを取り戻したいと思っていらっしゃるんですね。」「まさにその通りです。だがどうして--」「秘密に結婚をなさいました?」「決して。」「法的文書、証明書はありませんか?」「決して。」「とするとよくわかりませんね、陛下。この若い人が恐喝などの目的で手紙を出して見せるとして、どうやってそれを本物と証明するのでしょう?」「私の筆跡です。」「フ、フン!偽造です。」「私の私的な便箋。」「盗まれたものです。」「私の印章。」「模造です。」「私の写真。」「買ったもの。」「私たち二人が写っている。」「おやおや!それは非常にまずい!陛下はまったく無分別なことをしてしまいましたね。」「おかしくなっていた--正気でなかったのです。」「ご自分の体面をひどく汚された。」「当時はほんの皇太子でした。若かった。今やっと三十です。」「取り戻さなくては。」「やってみたがだめでした。」「陛下、金を出さなくては。買わなければいけません。」「彼女に売るつもりはないのです。」「では盗むのです。」「五回試みました。二度、私の雇った夜盗が彼女の家中を探しました。一度は彼女の旅行中、手荷物を行き違いにしました。二度彼女を待ち伏せしました。成果はありません。」「影も形もなしですか?」「まったくなし。」ホームズは笑った。


(11)「小さな問題だがなかなか結構ですね」と彼は言った。「しかし私には非常に重大なことです」と王は咎めるように答えた。「いやまったくです。それで彼女はその写真で何をするつもりでしょう?」「私を破滅させるのでしょう。」「しかしどうやって?」「私は結婚を控えています。」「そう聞いています。」「スカンジナヴィア国王第二皇女、ザクセ-メニンゲン公女、クロチルド・ロスマンとです。あの家の厳格な徳義を聞いてますか。彼女その人もまさに繊細の権化のようです。私の品行にわずかな疑いがきざせばこの件は終わりでしょう。」「それでアイリーン・アドラーは?」「写真を相手方に送ると脅しています。そうするでしょう。彼女がそうするのはわかってます。あなたは彼女を知らないが、あれは鉄の心を持っています。誰よりも美しい女の顔、誰よりも決然たる男の心の持ち主です。私がほかの女と結婚するくらいなら、彼女はどんなことでもするでしょう--何だって。」「まだ写真を送りつけていないのは確かですね?」「確かです。」「それはなぜです?」「結婚が公に宣言されるその日に送ると言っていたからです。来週の月曜日です。」「ああ、ではまだ三日ありますね」とホームズがあくびをしながら言った。「それは幸運です、ちょうど今、僕には重要な調査が一、二件ありますので。陛下には当然、当面ロンドンにご滞在ですね?」「もちろんです。ランガムにフォン・クラムの名でいますので。」「では一筆書いて進捗状況はお知らせしましょう。」「どうかそうしてください。心配でたまらないから。」「ところで、金の問題は。」「白紙委任します。」「完全に?」


(12)「あの写真を手に入れるためなら王国の一地方を差し出しましょうとも。」「それで当座の費用は?」王は重いセーム革の袋をマントの下から取り出し、テーブルの上に置いた。「金三百ポンドに紙幣で七百ポンドあります」と彼は言った。ホームズは手帳の一枚に受け取りを殴り書きし、彼に手渡した。「それでマドモワゼルの住所は?」と彼は尋ねた。「セント・ジョンズ・ウッド、サーペンタイン通り、ブライオニ・ロッジ。」ホームズはそれを書きとめた。「もう一問」と彼は言った。「それはキャビネ判の写真ですか?」「そうです。」「では、おやすみなさい、陛下、すぐによい知らせが入ると思います。おやすみ、ワトソン」と彼は、 国王のブルームの車輪が街をすべり行くとともに、付け加えた。「明日の午後三時に訪ねてきてくれると ありがたいんだがね。君とこの小さな問題をおしゃべりしたいんだ。」三時きっかりに私はベーカー街に着いたが、ホームズはまだ戻っていなかった。おかみの話では、 彼は朝の八時少し過ぎに出たそうだ。しかし私は彼がどんなに遅くなっても待つつもりで暖炉のそばに腰を下ろした。既に私は彼の調査に深い興味を抱いていた。そこには、前に私が記録した二つの犯罪を連想させる残酷、不思議な特色はなかったが、それでも、事件の本質や依頼人の高い身分が独自の特徴を与えていたからである。実際、友の手がけている事件の性質を別にしても、彼の見事な状況把握力、鋭敏至極な推理には何か魅力があり、私は最も込み入った謎すら解きほぐすその迅速、巧妙な方法をたどり、彼の仕事の組織的方法を研究することが楽しみだった。


(13)彼が常に成功することが当たり前になっていた私の頭には彼の失敗の可能性など浮かばなくなっていた。四時近くなってドアが開き、酔っ払い風の、もじゃもじゃ頭と頬ひげ、真っ赤な顔にみすぼらしい服の 馬丁が部屋に入ってきた。友の変装を使い分ける驚くべき能力には慣れていたが、それが本当に彼だと確信するまでに三度も見直してしまった。彼は一つうなずいてみせて寝室へと消え、五分して昔ながらにきちんとツイードのスーツを着て現れた。彼は両手をポケットに突っ込み、足を火の前に伸ばし、数分間、 心から笑った。「いやまったく!」と彼は叫び、それからまた息が詰まるほど笑い、ついには力が入らずにぐにゃぐにゃと椅子にひっくり返ってしまった。「何事だね?」「あんまりおかしくってね。僕が午前中をどうやって費やしたか、最後に何をしたか、絶対君には当たらないと思うよ。」「見当もつかんよ。アイリーン・アドラー嬢の習慣とか、あるいはその家とかを監視していたんだろうね。」「その通り。だが結果はなかなか変わってるよ。しかしまあ聞きたまえ。僕は今朝八時ちょっと過ぎに家を出た。失業中の馬丁という役柄だ。馬の仕事社会にはすばらしい友愛と支援がある。その一人になれば、知りたいことは何でもわかる。すぐにブライオニ・ロッジは見つかった。瀟洒(しょうしゃ)な小住宅で、裏手は庭 だが、前は道路沿いまで建てられていて、二階建てだ。玄関はチャブ錠。右手に大きな居間、調度は整い、 床近くまでの大きな窓が並んでいるが、その非常識なイギリス式留め具は子供でもあけられる。


(14)その後ろ側で注目すべきものは、廊下の窓に馬車小屋の上から届くことだけだった。歩いて回ってあらゆる視点から詳しく調べたが、ほかに重要なことには気づかなかった。それから僕が通りに沿ってぶらぶら行くと、思った通り馬屋がね、庭の一方の塀に沿った小道にあった。馬丁に手を貸して馬の体をこすり、代わりに二ペンス、ハーフアンドハーフを一杯、刻み煙草を二杯分、 そしてアドラー嬢に関する情報を望みうる限りもらった。ちっとも興味ない半ダースもの近所の人たちのことは言うには及ばずだが、その一代記も聞かないわけにはいかなかったよ。」「それでアイリーン・アドラーはどうした?」と私は尋ねた。「ああ、あのあたりの男はみんな彼女にふられてしまった。彼女はこの惑星上で最も優美な婦人だ。サ ーペンタインの馬屋ではみんなそう言う、例外なくね。彼女は静かに暮らし、コンサートで歌い、毎日五時に馬車で出て、七時きっかりに夕食に戻る。歌う時を除いて普段はめったにつきあいで出ない。たった 一人男が訪ねてくるが、それが頻繁だ。浅黒く、ハンサム、颯爽とした男で、必ず日に一度、いや二度来 ることもしばしばだ。イナー・テンプルのゴドフリー・ノートンという男だ。御者を親友にする利点がわかるね。彼を家までサーペンタインの馬屋から十回以上乗せてって、彼については何でも知っている。彼らから聞くべきことを聞いてしまうと、僕はブライオニ・ロッジの近くをぶらぶらとして、作戦計画の考慮にかかった。このゴドフリー・ノートンは明らかにこの問題の重要な因子だ。彼は弁護士だ。それはよくない兆候だと思われた。


(15)彼らはどんな関係か、彼が繰り返し訪れる目的は何か?彼女は彼の依頼人か、友人か、恋人か?依頼人なら、おそらく写真は彼に渡して保管してもらっている。恋人なら、それはありそうもない。 この問題を明らかにすることに、ブライオニ・ロッジで仕事を続けるべきか、それともテンプルの紳士の事務所に注意を向けるべきかがかかっていた。これは微妙な問題であり、僕の調査の範囲は広がった。こういう細かいことで君を退屈させてるんじゃないかな。でも君が事態を理解するには、小さな難しい点もいろ いろ知ってもらわなければならないんだ。」「一心についていってるよ」と私は答えた。「僕がなおこの問題を心のうちではかりにかけていると、ハンサム馬車がブライオニ・ロッジに乗りつけて紳士が一人飛び降りた。非常にハンサムな男で、浅黒く、鷲鼻、口ひげ--明らかに聞いていた男だ。 ひどく急いでいるらしく、御者に待つように叫び、すっかり勝手を知った者のようにドアをあけたメイドの横をかすめ過ぎた。彼は三十分ほど家にいたが、居間の窓から、行きつ戻りつ、興奮して話し、腕を振り回す彼が垣間見えた。 彼女はまったく見えなかった。まもなく彼は前よりいっそうあわてふためいた様子で現れた。馬車に上がり込む時、彼はポケットから金時計を引っ張り出し、真剣に見つめ、『思いっきり走らせてくれ、まずリージェント街のグロスアンドハンキー、それからエッジウェア街のセントモニカ教会へ。二十分で行ったら半ギニーだ!』と彼は叫んだ。馬車が行って、後を追ったほうがよくはないかと考えているところへ、素敵な小型のランドー馬車がやってきた。


(16)コートのボタンをやっと半分かけ、ネクタイは耳の下という御者だったが、馬具の金具はすべ てバックルから突き出ていた。それが止まらぬうちに彼女が玄関のドアから飛び出して乗り込んだ。僕にはその時チラッとしか見えなかったが、彼女は美しい女で、男がそのために死にかねない顔だった。『セントモニカ教会よ、ジョン、』彼女は叫んだ、『二十分で着いたら半ソブリンよ。』これはまったく逃すわけにいかないからね、ワトソン。走って追うべきか、ランドーの後ろにつかまる べきか、比較しているところへ通りを馬車が来るじゃないか。御者は何ともみすぼらしい乗客を二度も見直したが、僕は文句を言わさず飛び乗った。『セントモニカ教会、』僕は言った、『二十分で着いたら半ソブリンだ。』十二時二十五分前、もちろん何が行われようとしているか、明々白々だった。御者は飛ばしに飛ばした。僕もあんなに飛ばしたことはないくらいだが、彼らは僕たちの前にそこに着いていた。僕が着いた時には馬車もランドーも玄関の前にあり、馬たちは湯気を立てていた。僕は払いを済ませ、教会の中へと急いだ。そこには僕が追ってきた二人と、どうやら彼らをいさめているらしい、サープリスを着けた牧師のほか、人っ子ひとりいなかった。三人とも祭壇の前にかたまって立っていた。僕は教会に立ち寄ったひま人なら誰でもするように側廊をぶらぶらしていた。突然、驚いたことに、祭壇の三人がこちらへ振り向いて、ゴドフリー・ノートンが僕の方へ懸命に走ってきた。『ありがたい』と彼は叫んだ。『君でいい。来てくれ!来てくれ!』『いったい何かね?』僕は尋ねた。


(17)『来てくれ、君、来てくれ、ほんの三分、さもないと法的に無効になってしまう。」僕は引きずられるようにして祭壇まで行き、何が何だかわからないうちに、耳元でささやかれた応答の 文句をもぐもぐ言い、まったく知りもしないことを保証し、総じてみれば未婚婦人アイリーン・アドラーを独身男性ゴドフリー・ノートンに固く結びつける手伝いをするはめになったのだ。すべてはあっという間に済み、一方では紳士が、反対側では夫人が僕に礼を言い、また正面では牧師が僕にほほえみかけていた。僕の生涯で最もばかげた立場に立たされてしまったが、さっき笑い出したのもそれを考えたからだ。 どうやら彼らの許可証に多少略式のところがあり、牧師が誰か立会人なしには彼らの結婚式を行うことを きっぱりと断り、そこへ幸運にも僕が現れて花婿が付添い人を探しに街へ打って出なければならないところを救ったということらしい。花嫁が僕にソブリン金貨をくれたので、この椿事の記念として時計の鎖につけて身につけるつもりなんだ。」「まったく予期せぬ事態の展開だね」と私は言った。「それでそれからどうした?」「そうだね、僕の計画はきわめて深刻におびやかされていることがわかった。二人がすぐに出発する可能性もありそうだったし、そうなると僕の方もきわめて迅速に、精力的に策を講じる必要がある。しかし、 教会の戸口で、彼はテンプルへ、彼女は自宅へ、と馬車に乗って彼らは別れた。離れる時に『いつものように五時に公園に走らせます』と彼女は言った。それ以上は聞こえなかった。彼らは別々の方向に走り去り、僕は自らの下ごしらえをするために立ち去った。」


(18)「どんな?」「コールドビーフを少々、ビールを一杯」とベルを鳴らしながら彼は答えた。「忙しくて食べることな んか考えられなかったし、今夜はさらに忙しくなりそうだ。ところでドクター、君の協力が必要になるん だが。」「喜んでやるよ。」「法律を破るのもいとわないかな?」「ちっとも。」「逮捕される危険を冒すことも?」「正当な理由があれば。」「ああ、きわめて正当なものだよ!」「それなら何なりと。」「君は当てにできると確信していたよ。」「しかし君の望みは何だね?」「ターナーさんが盆を持ってきたら君にわかるように説明するよ。さて、」彼はおかみの出してくれた 簡単な食べ物にがつがつと飛びついて言った、「食べながら話し合わなければなるまい。あまり時間がないからね。もうじき五時だ。二時間後には活動の舞台にいなければならない。アイリーン嬢、いや夫人は 七時にドライブから戻る。僕たちはブライオニ・ロッジで彼女に会わなければならない。」「それからどうする?」「どうか僕に任せてくれたまえ。僕が既に準備したようになるはずだ。どうしても言う通りにしてもらわなければならない点が一つだけあるんだ。何があっても君は邪魔をしてはいけない。わかるね?」「中立でいるのかい?」「何事であれ何もしないこと。おそらくちょっとした不愉快なことがあるはずだ。それに加わらないでくれ。結局、僕があの家の中に運ばれることになる。四、五分後に居間の窓があく。君はその開いた窓の 近くに位置するんだ。」「わかった。」「君は僕を注意して見ていなければいけない。僕は君に見えるだろうから。」「わかった。」


(19)「それで僕が手を上げた時--そこで君は部屋の中へ僕が渡すものを投げ込む、と同時に、火事だ、と叫び声を張り上げるんだ。よくわかった?」「完全に。」「何も恐ろしいものじゃないんだ」と彼はポケットから長い、葉巻の型に巻いたものを取り出して言った。「普通の、配管工の持っている発煙筒で、両端に雷管が取り付けられ、自動着火式だ。君にはそれだけ をやってもらう。君が火事だと叫びを上げれば、かなりの数の人がそれに加わるだろう。君はそれから通りの端まで歩いていけばいい、僕は十分後に一緒になるよ。わかってもらえたならいいんだが?」「僕は中立を保つ、窓に近づく、君を注意して見る、合図を見てこの物体を投げる、それから火事だと叫ぶ、そして通りの角で君を待つんだね。」「その通り。」「それなら完全に当てにしてくれていいよ。」「そいつはすばらしい。たぶん、そろそろ新たな役を演ずる準備をする時間じゃないかな。」彼は寝室に姿を消し、数分後に愛想のいい、おめでたい非国教徒の牧師という役柄で戻ってきた。つば広の黒い帽子、だぶだぶのズボン、白いネクタイ、思いやりに満ちた笑み、いつもじっと注いでいる優しい好奇の目つきなどは名優、ジョン・ヘアー氏でなければ太刀打ちできないようなものだった。ホームズはただ服装を変えるだけではなかった。表情、態度、精神までもが新しい役を装うにつれて変化するようだった。彼が犯罪の専門家になった時、科学が鋭い理論家を失ったように、演劇界は優れた役者を失ったのである。六時十五分に私たちはベーカー街を出発し、サーペンタイン通りに着いた時にはまだ時間まで十分あった。


(20)既に夕闇が迫り、私たちがブライオニ・ロッジの前を行ったり来たり、その住人の到着を待っている 頃にはちょうど街灯がともり始めていた。その家はホームズの簡潔な説明から想像していた通りだったが、 現場の周辺は思ったより人目が多いように感じられた。それどころか、静かな界隈の小さな通りの割には、 驚くほど活気があった。角に集まって煙草を吹かし、笑っているみすぼらしいなりの男たち、自転車を引く刃物の研ぎ屋、子守娘といちゃつく二人の近衛兵、それから葉巻をくわえ、ぶらぶら行き来する、身なりのよい若い男たちがいた。「いいかい、」家の前を行ったり来たりしながらホームズが言った、「この結婚でむしろ話は簡単になった。いまや写真は両刃の剣になる。おそらく彼女も、僕たちの依頼人がそれを王妃の目に触れさせたくないのと同様に、ゴドフリー・ノートン氏に見られるのは嫌だろう。そこで問題だ。僕たちはその写真を見つけるためにどこを捜すべきか?」「まったくどこだろうね?」「彼女が身につけて持ち歩くことはとてもありそうにない。キャビネサイズだからね。大きすぎて婦人の服に隠すのは容易じゃない。王が彼女を待ち伏せして捜しかねないことは彼女もわかっている。その種の試みは既に二度なされている。そこで、彼女は身につけて持ち歩かないと考えてよかろう。」「では、どこだろう?」「銀行か弁護士だ。その二つの可能性はある。だが僕はどちらでもないと考えたい。女性は本来秘密主義で、自分で隠し事をするのが好きだ。どうして他人の手に渡す必要があろう?誰が責任を持って守るかといえば、自分自身なら信用できるけれども、商売人にはどんな間接的、政治的な圧力がかかるかわからないじゃないか。


(21)その上、彼女がそれを数日内に使う決意だったことを思い出してくれ。彼女の手の届くところにあるにちがい ない。彼女の家にあるにちがいない。」「しかし夜盗が二度入っているよ。」「フフン!捜し方を知らないんだ。」「だが君ならどうやって捜す?」「僕は捜さないんだ。」「ではどうする?」「彼女に教えてもらうんだ。」「だが彼女は断るだろう?」「そうはいかないだろうな。だが車のガタガタいう音が聞こえるよ。彼女の馬車だ。さあ、僕の指図を忠実に実行してくれたまえ。」彼がそう言うと同時に一台の馬車の側灯の淡い光が通りのカーブを曲がってきた。こぎれいな小型のランドーがブライオニ・ロッジの戸口にガラガラと乗りつけた。それが止まると、角でぶらぶらしていた男たちの一人が銅貨の稼ぎを期待してドアをあけようと突進したが、同じ目的で駆けよった別の浮浪者にひじで 突きとばされた。猛烈なけんかが突発し、一方の怠け者に味方する二人の近衛兵と、同じように熱くなって他方に加わった研ぎ屋によりおおごとになった。拳固一閃、馬車から踏み出していた婦人は、たちまち、真っ赤になって争い、互いに拳固や杖で打ち合う男たちの小さな群れに囲まれてしまった。ホームズは婦人を守ろうと人ごみに飛び込んだ、が、彼女のところまで行ったとたんに叫び声を上げ、バッタリと地面に倒れ、顔からは大量の血が流れ出た。彼が倒れると、近衛兵たちは一方へ、浮浪者どもは他方へと逃げ出したが、乱闘に加わらずに見守っていた身なりのいい多数の人々が、婦人を助け、けが人の手当てをしようと押し寄せた。アイリーン・アドラー、と今まで通りに呼ぶが、彼女は急いで戸口の段を上がった。


(22)しかし彼女は玄関の明かりを背景にすばらしいスタイルのシルエットを浮かび上がらせて最上段に立ち、振り返って街路をのぞき込んだ。「お気の毒に、その方おけがはひどいの?」と彼女は尋ねた。「死んでるぞ」と数人の声が叫んだ。「いや、いや、命はある!」と別の大声が言った。「でも病院へ運び込む前にだめだろう。」「勇敢な男よ」と一人の女が言った。「この人がやらなかったら奴ら、お嬢さんの財布も時計も取ったわよ。あれは悪い一味よ、それも乱暴な。ああ、この人息をしてる。」「道に寝かせておくわけにはいかない。中に入れてもいいかね、奥さん?」「もちろん。居間にお連れして。楽なソファーがありますから。こちらよ、どうぞ!」ゆっくりと厳粛に彼はブライオニ・ロッジに運び込まれ、重要なる部屋に寝かされたが、私の方はなおも成り行きを窓のそばの部署から見守っていた。明かりはともっていたがブラインドは引かれていなかったので、私には寝椅子に寝かされるホームズが見えた。その瞬間、彼が自分の演じている役に良心の呵責を 覚えていたのかどうか私は知らないが、私自身は、自分が陰謀を企んでいるあの美しい人を、またけが人に仕えるその人の思いやりと親切を見た時ほど心底から恥ずかしい思いをしたことは生まれてこのかたないのである。とはいえそこでホームズが私に託した役割から手を引くことは彼に対するけしからぬ裏切りになったろう。私は心を鬼にし、アルスターコートの下から発煙筒を取り出した。結局、私たちは彼女を傷つけているのではない、と私は考えた。


(23)ただ彼女がほかの人を傷つけるのを防いでいるのだ、と。ホームズは寝椅子に起き直っていたが、その彼が空気が足りないというような身振りをするのが見えた。 メイドが窓に駆け寄り、さっとあけた。同時に彼が片手を上げるのを見て、それを合図に私は「火事だ!」と叫ぶとともに筒を部屋に投げ込んだ。その言葉が私の口から出るやいなや、見物している群集全体、身なりのいいのも悪いのも、馬丁も、女中も、みんなが一つになって「火事だ!」の叫びに加わった。もうもうとした濃い煙が部屋中に渦巻き、開いた窓からも立ち昇った。あわてて行きかう姿が見えたが、一瞬 の後、虚報だといって皆を安心させるホームズの声が中から聞こえた。叫び声を上げる群集をすり抜けて 私は通りの角へ行き、十分後にはありがたいことにホームズの腕が自分のそれに重ねられ、騒ぎの現場から立ち去ることができた。彼は足早に、数分間というもの黙って歩き、私たちはエッジウェア街に通じる静かな通りへと曲がった。「実にうまくやってくれたねえ、博士」と彼は言った。「最高のできだったよ。申し分なしだ。」「写真はそこにあるのかい?」「どこにあるか知っている。」「それでどうやって見つけた?」「彼女が教えてくれたよ、そう言ったろう。」「私にはまだわからないよ。」「秘密にするつもりはないんだ」と彼は笑いながら言った。「話はまったく簡単なんだ。君はもちろん、 通りにいたのは全員ぐるだとわかったね。みんな今夜のために雇ったんだ。」「そうだろうと見当はついた。」「それから、けんかが突発した時、僕は手のひらにぬれた赤い塗料を少し仕込んでいた。


(24)僕は突進し、 倒れ、自分の手で顔をたたき、哀れな光景となったわけだ。古いトリックだよ。」「それも推測できた。」「それから連中が僕を運び入れた。彼女は入れないわけにいかなかった。ほかにどうしようもないじゃないか?そして彼女の居間の中、まさに僕が疑いをかけていたところだ。そこか寝室か、どちらかにあり、 それを僕は確かめる決意だった。僕は寝椅子に寝かされ、身振りで空気を求め、窓をあけざるをえないようにして、それで君にチャンス到来だ。」「どうしてあれが役に立ったんだね?」「きわめて重要だったんだ。家が燃えていると思った女性は、本能的にすぐにいちばん大事なもののところへ駆けつける。これはまったく圧倒的な衝動であり、僕はこれを一度ならず利用したことがある。ダ ーリントンすり替え事件で役に立ったし、アーンズワース城の件でもそうだ。結婚している女は赤ん坊を ひっつかみ、未婚の女は宝石箱に手を伸ばす。さて、明白なことだが、今日の僕たちの婦人にとって、僕たちが求めているものより貴重なものはあの家にはない。それを守るために駆け寄るはずだ。火事の警報は見事に発せられた。煙と叫び声は鉄の神経をも揺さぶった。彼女は申し分のない反応を見せた。写真は 右側のベルの紐の真上のスライド式の羽目板の後ろのくぼみの中にある。彼女がすぐにそこへ行って、 それを引き出しかけた時、僕にチラッと見えたんだ。虚報だと僕が叫ぶと、彼女はそれを元に戻し、発煙 筒をチラッと見て、部屋から飛び出し、その後僕は彼女を見なかった。僕は立ち上がり、言い訳をして、 家から逃げ出した。


(25)すぐに写真を手に入れようかと迷ったが、御者が入ってきてね、僕をじろじろ見るも のだから、待った方が安全だろうと思ったんだ。少々早まったがためにすべてが台無しかもしれないんでね。」「それで今度は?」と私は尋ねた。「僕たちの探求は終わったも同然だ。明日訪問するつもりだ、王と、それから君が一緒に行きたければ 君と。僕たちは居間に案内されてあの婦人を待つ、だがたぶん、彼女が来た時には僕たちも写真も見当たらないだろうな。陛下も自分の手で取り戻せば満足だろう。」「それでいつ行くんだ?」「朝の八時だ。彼女はまだ起きていないだろう、そこで邪魔がないからうまくいくわけさ。すぐにやらなければならないわけはそれだけじゃない、この結婚で彼女の生活、習慣がすっかり変わるかもしれないからね。即刻王様に電報を打たなければ。」私たちはベーカー街に着き、戸口に立ち止まった。彼がポケットの鍵を探っている時、誰かが通りすがりに言った。「おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん。」その時歩道には数人の人がいたが、そのあいさつはそばを急ぐアルスターコートを着た細身の青年から 聞こえたようだった。「あの声は前に聞いたことがある」とホームズが、ぼんやり照らされた通りを見つめながら言った。「さあて、いったいあれは誰だったかな。」その晩私はベーカー街に泊まり、翌朝、私たちがトーストとコーヒーに取り掛かっているところへボ ヘミア王が部屋に駆け込んできた。「本当に手に入れたんですか?」と彼は叫び、シャーロック・ホームズの両肩をつかんでその顔を夢中になってのぞき込んだ。


(26)「まだです。」「でも望みはあるんですね?」「期待しています。」「それなら、さあ。早く行きたくてたまらないんです。」「辻馬車をつかまえなければ。」「いや、私のブルームを待たせてあります。」「それは事が楽になりますね。」私たちは下に下り、再度ブライオニ・ロッジへ向け出発した。「アイリーン・アドラーは結婚しました」とホームズは言った。「結婚した!いつです?」「昨日です。」「しかし誰と?」「ノートンという名のイギリス人の弁護士です。」「しかし彼女がその男を愛するはずがない。」「僕はそこに期待しています。」「なぜ期待を?」「陛下が将来厄介なことが起こる心配をまったくしないですむからです。あの婦人が夫を愛していれば、 陛下を愛することはありません。陛下を愛していなければ、彼女が陛下の計画の邪魔をする理由はありません。」「なるほど。それでも--ああ!彼女が私と同じ身分だったら!どんな女王になったことか!」彼はむっつりと黙り込んでしまい、それはサーペンタイン通りで止まるまで破られなかった。ブライオニ・ロッジの玄関の戸は開いていて年配の女性が戸口の段に立っていた。彼女はブルームから踏み出す私たちをあざけるような目で見ていた。「シャーロック・ホームズさんですよね?」と彼女は言った。「僕はホームズです」と友は答え、いぶかしそうな、かなり驚いた目つきで彼女を見た。「まあ!奥様が私にあなたがおいでになりそうだとおっしゃったんです。奥様は今朝、旦那様と五時十五分の列車でチャリング・クロスから大陸へ出発されました。」


(27)「何と!」シャーロック・ホームズはよろめくように後退し、悔しさと驚きに青ざめた。「彼女がイギリスを離れたというんですか?」「二度と戻られません。」「それで書類は?」と王はかすれ声で尋ねた。「もはやこれまでか。」「見てみよう。」彼は女中を押しのけて客間に駆け込み、王と私が続いた。家具はあちこちに散乱し、 棚は取り外され、引き出しは開けられ、あの婦人が逃亡の前にあわててあさり回ったかのようだった。ホ ームズはベルの紐のところに駆け寄り、スライド式の小さな戸を引きのけ、そして、手を突っ込み、一枚の写真と一通の手紙を引き出した。写真はイブニングドレスのアイリーン・アドラー自身で、手紙の上には『シャーロック・ホームズ様気付け』と書かれていた。友がそれを破いてあけ、私たち三人一緒にそれを読んだ。前日の真夜中の日付でこんなふうに書かれていた。

親愛なるシャーロック・ホームズ様

本当にお見事でした。完全にだまされましたわ。火事騒ぎがあるまで気づきもしませんでした。しかしそ こで、自分が秘密をうっかり漏らしてしまったと知った時、数ヶ月前にあなたに注意するように言われた ことに考えが至りました。陛下が捜査員を雇うとしたら間違いなくあなただろうと聞かされたのです。あなたの住所も教えていただきました。それなのに、これだけのことがあったのに、あなたはお知りになりたいことを私に白状させてしまいましたわね。


(28)疑いを持っていたとはいえ、あのように愛らしい、親切な老牧師さんを悪く思うなんて難しいことでした。でもほら、わたくし女優の訓練を受けてますでしょう。男装も珍しいことではありませんの。よくそうして自由を楽しんでいます。御者のジョンをやってあなたを 見張らせ、二階へ駆け上がり、散歩服と呼んでいるものを着て、ちょうどあなたが出て行かれたところへ 下りてゆきました。さて、わたくしはお宅まであなたを尾行し、わたくしが実際に有名なシャーロック・ホームズさんの関心の対象であることを確かめました。それからわたくし、ちょっと軽卒でしたがごあいさつをして、夫に 会うためテンプルへ向かいました。このように手ごわい相手に追求されているんですもの、わたくしたちは二人とも逃げるのがいちばんと考えました。そうすれば明日あなたがいらした時には巣は空っぽです。あの写真のことでしたら、あなたの依頼人は安心していいでしょう。わたくしにはあの人より立派な、愛し愛される方がおります。国王陛下には、ひどい仕打ちをなさってきた者は邪魔をいたしませぬゆえ、お好きなようになさいますよう。わたくしはただただ身を守るため、将来陛下がどのような手段をとられても永久にわたくしを守る武器を保持するため、あれは取っておきます。陛下はお望みかしら、一枚写真を残します。シャーロック・ホームズ様のご多幸をお祈り申し上げます。

かしこ
アイリーン・ノートン、旧姓アドラー


(29)「何という女-ああ、何という女だろう!」私たち三人がこの書簡を読み終えた時、ボヘミア王が 叫んだ。「彼女がどんなに利口で毅然としているか、言わなかったかな?すばらしい王妃になったろうに。 彼女が私と同格でなかったのが残念ですねえ?」「僕の見たところでは、実際あの婦人は陛下とはまったく格が違いますね」とホームズは冷たく言った。「陛下の用件をより成功裏に終えることができなくて申し訳ありません。」「それどころか、ねえ君、」王は叫んだ、「これ以上の成功はないよ。彼女の言葉は神聖ですからね。写真はもう火に投じたも同じ、安全だよ。」「陛下にそう言っていただくと嬉しいです。」「大変感謝しますよ。どうかどんなふうに報いたらいいか言ってください。この指輪--」彼はエメラルド のスネークリングを指からはずし、手のひらにのせて差し出した。「僕がさらに高く評価するものを陛下はお持ちです。」「何でも言ってください。」「この写真です!」ボヘミア王は驚いて彼を見つめた「アイリーンの写真!」と彼は叫んだ。「いいですとも、望みとあれば。」「ありがとうございます、陛下。ではこの件は終わりです。謹んで申し上げます、ごきげんよう。」彼 はお辞儀し、王の差し出している手を見ることなく背を向け、私を伴って家路についた。これがボヘミア王国を揺るがしかけた大スキャンダルであり、シャーロック・ホームズ氏の万全の策が 一人の女性の機知に打ち負かされた次第である。以前は女性の才気を冷やかしていた彼だが、最近はそれを聞かなくなった。そして彼がアイリーン・アドラーについて話す時、あるいは彼女の写真のことに触れる時、常に敬意を表してあの女ひとと言うのである。


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Author:米澤章夫

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